【夏盛り紅娘】・3(了)
弥太郎が池袋に移り住んで一年と半年こと。
初めての商いで彼は死病持ちの女を成金に売り飛ばしたという。
その後も、がりがりに痩せたのやら見目麗しくないの、更には腕と足が一本ずつだとか。
多少以上に難のありそうなキワモノばかりを乱雑に売りさばいていた。
悪辣を是とする悪食の女衒、付いたあだ名が“蓼虫の弥太”。
そういうクズも歳を重ねて、多少なりとも落ち着きはしたそうだ。
これまでは貧乏人を買い叩いて、売れるとなりゃ娼婦を道具としか思わない業者にも卸して。
昔ながらの昔気質。そういうタチの悪い女衒そのものだった男が、いったいなんの心変わりか。
いつの頃からか。買った女の面倒をしばらく見つつ、娼婦の振る舞いを学ばせてから売るという、面倒な真似を好んでするようになった。
その理由を、彼は誰にも語らず。
人によっては『小汚い少女としばらく暮らしたせいで甘くなった』なんて言うが、実際のところは定かではない。
「んで、聞きたいことってのは?」
「うん……なんて言えばいいんだろうね」
だから紅葉にとっての弥太郎は、“よく分からない男”で終わってしまう。
出会った頃から印象は殆ど変わらず。クズでマジメでダメ人間のくせして過保護でもある、奇々怪々なる変人の類でしかない。
それも仕方ないだろう。
お天道様やら神の娘やら、人の身ならぬお方々ならともかくも。
まっとうに生きるすらままならぬ。そういうただの女では、蓼虫の心なぞ知り様がないのだ。
「いや、ちょっと、外に出ないかい?」
けれど垣間見えらくるものもある。
ちょっとしたきっかけで弥太郎の過去を知ったから、たぶん紗子との暮らしでなんらかの変化があったのだろう、くらいの想像はついた。
ついたから、誘いの言葉は素直に出てきた。
「ま、別にいいがよ。りるは、留守番になっちまって悪いが」
「大丈夫、です」
「俺が戻ってくるまで?」
「人が来ても、出ません」
「おっし、いい子だ。んじゃ、行くかね」
適当に、軽い調子で、大したことではないとでも言うように彼は頷いてくれる。
そうと疑わない程度には、花座での生活にも慣れたらしい。
◆
伸びた影。橙色の空。落ちかけた太陽。
満ち満ちた熱に景色は揺れて街の輪郭さえも覚束なく。
夏に滲む夕暮れの時間はまるで、飽和した砂糖水のようだ。
「まだ、あっちぃなぁ」
砂糖水の夕暮れを二人泳ぐ。
字面だけなら艶っぽい雰囲気でもありそうだが、生憎と逢瀬ではなく単なるお悩み相談。買い叩いた女相手にそれをやるなんて、我ながら面倒見のいいことだと笑ってしまう。
まったく変われば変わるもんだな、と弥太郎は思う。
いったいいつの間にこんなお人好しの真似事をするようになったんだか。
やっぱり紗子と暮らしたから? それとも、本当は、花のことを……。
あぁ、やめだやめだ。
こういう考えはドツボにハマる。
弥太郎は頭に浮かんだモノは乱雑に道へ放り投げた。
幸い夕陽はゆるりと溶けて、もうすぐ夜を連れてくる。暗がりになれば捨てたものなど二度とは見つからないだろう。
「どっか店に入るか?」
「いいや、ちょっと気分じゃないね」
「そか」
そうして彼女が選んだのは、花座横丁の出入り口の端。
話があるというから人目を避けているのかと思えば、むしろこれからの時間帯こそ騒がしくなる場所だ。
けばいネオンに下品な喧騒、蒸れたような独特の匂い。
酒か金か、それとも女か。目当てはそれぞれ、誘われ集る夜の夢。
しかし次第に増える人の流れを、紅葉はどこか遠い目で眺めていた。
「よくよくお客が絶えないところだよ、本当に」
「そりゃそうさ。池袋は非合法の花街だが、だからこその風情がある」
「風情ねぇ」
非合法の私娼街。
金で女を抱く場所になんの風情があるのか、買われる側からすると今一つどころか、今三つくらい分からない。
そういう反応も予想の範疇らしく、弥太郎はどこか楽しそうに肩を竦めた。
「なんだ、紅葉。花座が嫌いか?」
「好き嫌いで考えたこと自体がないよ。……お腹を空かせずに済んでる分、昔よりはマシなんだろうけどさ」
「いいことじゃねえか」
「あたしだって、買われた身の上じゃなけりゃもう少し素直に感謝できたよ」
悪態をついても刺々しさはなく、寧ろ気安くじゃれ合うような。
女衒と娼婦がこうも和やかに話す。奇妙かもしれないが悪くはない。
「あんたの方は、ここを随分気に入っているじゃないか」
「まあ、俺だって、もともとは田舎の農村の生まれだからな。女を攫ってこりゃ金になるし、美味いメシが食える。農作業よりこっちの方がいいに決まっているさ」
熱気に浮かされたせいか、ぽろりと本音が零れて落ちる。
農村でマジメに畑耕しても、メシなんざまともに食えやしねえ。
それに比べりゃ花座での生活は天と地。
女を攫って売れば、朝っぱらから酒が飲める。非道に痛む良心さえなければ、めっぽう暮らしやすい。
「結局、性に合ってたんだろうよ、こういう生き方が」
“俺は、他人を踏み付けて生きていくんだ”
随分と昔にそう決めて、今もってそれは変わらない。
クズ? 金に汚い? 食い意地が張っている?
今更何を言われようが、心に響くもんじゃない。
だから零れた呟きも感傷を帯びず。「女を売って食う飯は美味い」と語る弥太郎の態度は、向こうの景色が透き通って映るくらいに軽薄だ。
「だったらなんであたしを?」
それを、紅葉は責めもしなかった。
普段なら苛立たしくも感じるだろうに、問いで返したのは余裕が足りないから。
なにより弥太郎の言葉の意味が理解できなかったから、ただ純粋に聞きたかった。
「あん? なんでって」
「金を稼ぎたいなら、他にいいのがいくらでもいたろうって話だよ」
紅葉はそっと火傷の跡に触れる。
醜く爛れた顔に、周囲の男達は誰もが顔を顰めた。
美しいとは程遠く、貧しい家庭で育った為にふくよかさにも欠ける。
金を稼ぎたいというのなら、何故こんなキワモノを態々買い付けたのか。
「いかにも売れ残りそうな、価値のない女じゃないか、あたしは」
非合法の青線であっても人気の娼婦は、例えば紗子みたく見目麗しいのが普通だ。
街に出て辺りを見回すだけで、自分よりも遥かにいい女を見つけられる。
であればわざわざ埼玉の端っこまで出向き、四十万も払って買い取る価値がどこに在ったというのだろう。自嘲気味に言い捨ててみせても、微かな不安に揺れる瞳はひどく頼りない。
「あぁ、聞きたいって、そういうのか」
少し遅れて弥太郎は紅葉の真意を理解する。
長らく蔑まれ続けてきた。なのに高井戸という資産家は、そんな自分を身請けしたいという。
金で買われて抱かれるのとはまた少し違う。
傍に居てほしい。誰かに求められるなんて、初めての経験で。
だから、どうすればいいのか分からないと、紅葉はおろおろ慌てふためいている。
そのくらい彼女は自分に価値がないと信じ込んでいた。
「紅葉、馬鹿を言っちゃいけねえよ」
見た目を気にして、いきなりのことには驚いて。
いくら花街に慣れたって、考えてみればまだ十代。悩みというから身構えたが、いかにも少女っぽい、可愛らしいものではないか。
弥太郎はなんとなく微笑ましい気持ちになって、紅葉の戸惑いを拭うように、きっぱりと言い切った。
「いいかい。価値のないヤツなんて、この世の何処にもいないんだぜ?」
……ただ、なんと言おう。
紅葉自身、慰めを期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし人身売買を生業とする男から、いかにも偽善者ぶったセリフが出てくるのは流石に予想外だった。
正直、まったく全然これっぽちも似合っていない。
だって語る最中でさえ、弥太郎は人を小ばかにするような、にやつい笑みを浮かべていた。
「……………は?」
「いや、だからな? 人は生きているだけで価値があるって話さ」
「茶化されるのは気分が悪いね。これでも真面目に相談をしたつもりなんだけど」
「奇遇だな、俺も大マジメだよ」
先程までのしんみりとした空気は一変し、いかにも不貞腐れていますと紅葉は唇を尖らせる。
けれど弥太郎としては嘘なんて何一つ言っていない。
茶化したつもりはなく、大マジメに、人は生きているだけで価値があると彼はのたまう。
「お前さんは火傷跡に随分と引け目があるみたいだが、どこにだって好事家ってのはいてな。例えば太り過ぎた女性でしか勃たない男はまだ普通。醜女専門に、熟し切って枯れ木に近いご年配を好んで抱くのだっておられる」
なにせそこは“蓼虫の弥太”、キワモノを好んで扱う悪食の女衒だ。
先程の発言も慰めやキレイゴトを口にしたのではない。実際どんな売れそうにない女でも売っぱらってきた男からすれば、たいていのモノには値段がつく。つまりちゃんと価値がある、という結論に辿り着くだけの話だった。
「は、はぁ?」
「言っとくけど、そこら辺はありふれた好事家だ。もっと深いお方々には、ダルマみたいに四肢のない女を囲う成金とか、性病患ったトコに突っ込んで興奮する妙な性癖持ちに、死にかけの儚そうな体がたまらねえってのもいたっけか」
「ごめん。あんまり、そういうのは聞きたくないというか」
「後は美少年を弄ぶのがお好きなおっさんとか、筋骨隆々とした青年のケツの穴にしか興味のない御仁もいらっしゃるぜ?」
「だから聞きたくないって!?」
もうなにがなんだか。
娼婦生活もそれなりに長くなったが、さすがにそこまで闇の深い連中とは縁を結んだことはない。
やばい性癖のお客様の話を滔々と聞かされて、紅葉は完全に混乱し切っている。
「お前さんは自分に価値がないなんて言うが、その火傷跡こそが最高だって大金積むお客様もいるんだ。そもそも、高井戸さんだってそうだろ?」
「いや。そりゃあ、そうなんだろうけど、ね?」
「つまり、だ。どんな人間も、売り方さえ考えればちゃんと値段が付く。商品にならないヤツを探す方が難しいってなもんだ。そらみろ、俺の言った通り、人間は生きているだけ価値があるじゃねえか」
更に言えば、容姿がどんなに悪かろうとバラせばいくらでも金になるのだから、値段のつかない無価値な人間なんて一人もいない……とは、さすがに弥太郎も言わなかった。
違法が当然の青線地帯の住人とて分別はある。
十代の少女相手にそこまで汚いもんを見せつけるのは、いくらなんでも気が引けた。
「なんか、その理論、致命的に間違ってる気が」
「そうかね? ちなみに付け加えるなら、俺はお前さんの顔を理想的だと考えてる。皮膚は焼け爛れちゃいるが、輪郭は崩れちゃいないし、かつての美人の面影が見て取れる。いい塩梅、ってやつだな」
なにより、そこまでしなくても十分だったらしい。
困惑しながらも焦点の定まった紅葉の瞳に、自然と弥太郎の口角は吊り上がる。
「その火傷は付加価値だ。上手くやりゃあ、普通の美人より余程の高値で売れる。それが出来ねえってんなら、お前さんに価値がないんじゃなくて、そこに価値を見出せねえヤツが無能なんだよ」
ほとんど詭弁というか、女衒らしい、下半身を物差しにした品のない理論である。
それでも、自分の価値なんて欠片も信じていなかった少女は。
少なくとも弥太郎が嘘などついておらず、真実彼女には大金を積むだけの値があると本心で言っている、ということくらいは信じれくれたようだ。
「とまあ散々語ったが、俺の意見はあんま意味がないかもしれねえなぁ。これは単なる商売する上での心構えみたいなもんだし」
「っ、ま、まったくだよ。こっちはあんたの理念を知りたかった訳じゃないのにさ」
ちょっとだけつまった言葉に、本音に近い心が染み出していたような。
けれど指摘するのは野暮。「すまんすまん」と軽く謝りながら、ほんの少し声を柔らかくする。
「だが俺はお前さんに価値があると思って買った。“馬鹿なご両親で有り難いこった。たった四十万でいい女が手に入った”ってよ。そういうヤツもいるんだ。なら、妻にしたいとか言い出す物好きだっていても不思議じゃねえさ」
「……妻にしたいって、それ、話してなかった筈だよね?」
「いや、かなり思い悩んでいたからそういうことじゃねえかな、と。そんで、あれだ。高井戸さんがなに考えてんのか分かんなくて、怖かったんだろ?」
図星を指されて、紅葉は悔しそうに眉を潜めた。
悩みの大本は確かにそこ。なんで高井戸のような資産家が、顔の爛れた女をわざわざに妻に迎えるのか。もしかしたら何か企みがあるのかと、その好意を疑っていた。
しかしそんな弱音を弥太郎は笑い飛ばす。
「ま、不安になるのも分かるがよ。あの人は、女の趣味こそあれだが、比較的まっとうな御仁だとは思うぜ。多分だけどな」
「そう、かい?」
「ああ。何より金持ってるし、身請け先としては決して悪くない。いい暮らしができるぞぉ」
気付けば花座の通りは大層な賑わい。
けばいネオンも灯って、独特の熱と蒸れた匂いの漂う花街の夜が訪れていた。
「あんたは、本当にそんなのばっかりだね。お金があれば幸せって?」
だから喧騒に紛れて、あきれ顔の紅葉に、遠い面影が重なったりもする。
“弥太郎は、お金があると幸せ?”……なんでだろう、今日はよくあいつのことを思い出す。
「そういう訳じゃねえよ。ただ金で幸せは買えねえが、金がありゃ大抵の不幸は避けて通れるからな。あるに越したこたぁない」
「……意外。金がありゃ何でもできる、とか普通に言うと思ってた」
「がめついのは認めるが、そこまで短絡的でもないつもりなんだがなぁ」
だけど気付かないふりをして、目の前の紅葉と話を続ける。
そうだ、大事なのはいつだって目の前のこと。過ぎ去った日々なんて、もはやどうでもいい筈ではないか。
「本当は、“幸せになれる”って、それだけで才能なんだ。そこそこに充足した毎日が続くと、忘れちまうけどな」
「え? それって、どういう」
「結局、幸せになれるヤツは、どんなとこでも幸せになれるって話さ」
からからと笑えば、いつもの調子が戻ってくる。
そしていつもの、余計な経験ばかりを積んでしまった女衒として、弥太郎は少女に語り掛けた。
「高井戸さんとこで何不自由なく暮らしても、娼婦として自活しても、それで満たされるかどうかはお前さん次第。だったら、場所は趣味で選べばいい。身の振り方を自分で決めりゃ、幸か不幸かは分からんが、少なくとも納得は出来るだろうよ」
あの頃よりも随分歳をとってしまった男の声は、ちゃんと今此処にいる彼女へ届いてくれたようだ。
ああ、そうか。
此処に来てようやく紅葉は弥太郎の意図を理解する。
最初からこいつは言っていたではないか。
『そんな感じなんで、後はお前さん次第だな。身の振り方は自分で決めな』
『どっちを選んでも俺の腹は痛まなくて、どっちを選んでも問題は残る。ならもう後はお前さんの趣味の話になってくるからなぁ』
粗雑と感じられた言葉達は、決してそうではなかった。
俺に損害は出ないから、身の振り方は自分で決めろ。
どんな場所でも幸せになろうと思えばなれるのだから、場所は趣味で選べばいい。
つまり長々と語ったが、弥太郎の言いたかったことなんて一瞬で終わる。
──大丈夫。お前には、ちゃんと誰かに求められるだけの価値がある。
──こっちは気にしないでいいから、好きなようにして、幸せにおなり。
なんとも、まあ。
今更ながら、紗子がズルいという気持ちが分かってしまった。
蓼虫なんて呼ばれている輩が随分と甘ったるい真似をするものだ。
「……あんたって、変なヤツだね」
「うん、相談に乗ってもらっといてその態度はいかがなものか」
「まぁ、そこは感謝してる。お礼になんか奢るよ」
「お、悪いね。と、言いたいところだが、りるが家で待ってるしな」
「じゃあ、なんか買って帰ろうか」
「帰る、ねぇ。なんというか」
花座が夜の街でよかったと紅葉は思う。
ピンク色のネオンのおかげで、顔色が多少は誤魔化せる。
先程のやりとりがまるで夫婦のような言い回しだと気付いてしまったから、尚更に助かった。
「さ、急がないとね」
それでも案外目ざとい弥太郎のこと、余計な事実に気付かれないよう、紅葉は一歩二歩と先へ進む。
いろいろと吐き出したおかげで足取りも心も随分と軽く、これで頬の色合いも見られないと一安心だ。
もっとも、女衒の目は厳しく、その胸中は容易に見透かされていて。
少しだけ背筋が伸びた少女の後を、弥太郎は苦笑しながらついていく。
まあ、首尾は上々といったところか。
自己評価の低すぎる少女を肯定し、身の振り方を選ばせ、その先の幸福を願う。
らしくない真似だったが、得られた結果が先導する彼女の軽やかさなら、道化を演じた甲斐もあったというものだろう。
そう素直に思える程度には、弥太郎は紅葉を気に入っている。
「……本当は、誰に言ってやりたかったのかね」
なのに差し込む、ほんの少しの影。
気に入っている筈が、最後の最後にまっすぐ前を見られなかった。
誰にも聞こえなかった呟きは意識してのものではなく。
だからこそ、弥太郎はそれをひどく後悔した。
◆
紅葉は、自身の価値を、欠片も信じてはいなかった。
顔の半面が焼け爛れ、嫁の貰い手もないと蔑まれ続けた。それで自惚れを抱き続けられる程に彼女は強くない。
しかし非合法の花街には、好事家というヤツが少なからずいるらしい。
信じ難くもありがたいことに、こんな女を妻にだなんて求めてくれる物好きまで現れた。
それを嬉しいと思わないではなかった。
だからこそ、きっちりと筋は通さなければいけないだろう。
「じゃぁ、答えを聞かせてくれるかなぁ?」
後日、改めて紅葉は高井戸と喫茶店で顔を合わせた。
夏の盛り、昼間は日差しも強く外を歩くだけで汗がじっとりと浮かぶほどだ。
だというのに彼女は飲み物の一つも注文しない。
それが全てのような気もしたが、高井戸は明確な答えを望んだ。
「その前に、一つお聞きしたいことが」
「ん、なんだい?」
「私の顔を、どう思いますか?」
言いながら長い前髪をかき上げ、醜く爛れた火傷跡を見せつける。
しかし彼には一切の動揺もなかった。それがどうしたとばかりに、にちゃりと笑う。
「火傷跡など、私は気にしないよ。それも織り込み済みでぇ望んだんだよ」
「醜いとは、思いませんか」
「もちろん。だが紅葉が気にするなら、いい医者だって探そうじゃないかぁ」
高井戸は言った。
火傷跡があると知っていて妻にと望んだ、そんなものは“気にしない”と。
それで、紅葉の答えは決まった。
「ありがとうございます。そう言ってくれて、とても嬉しいです。でも……」
どこかのクズは言った。
この火傷には“価値がある”と。
実のところ、二人の差はほんの僅かな言い回しの違いに過ぎない。それを紅葉も十分理解していた。
「すみません。今回の話は、なかったことにしてもらえないでしょうか」
けれどそう答えた。
勿体ない。こんな風に自分を求めてくれる人なんてもう現れないだろう。
馬鹿なことをしている自覚はあった。だとしても、どうせなら自分が心から納得した場所がいい。でないと、きっと前を向けないと思った。
「……それで、どうするのかなぁ? このままいけば、適当な娼館に売られるだけじゃあないか」
「はい、そうだと思います。でも、自分で選んだ場所なら、多少は幸せを味わえるような気がするので」
にっこりと夏空の晴れやかさを見せつけて、紅葉は丁寧に頭を下げた。
娼婦風情が資産家のご当主様を袖にするなんて、悪しざまに罵られても仕方ない。
それも自身の選択のうちだと耐えるつもりではいた。
しかしいつまで経っても文句の一つも浴びせられず、長く短い沈黙が続いた後、高井戸は諦めたように溜息をついた。
「そうかぁ、仕方ない、かな」
札束で頬をひっぱたいて、無理や無茶を通せる立場でありながら、彼は素直に引き下がった。
『何故私みたいなのを』と、もしかしたら何かの企みではと疑っていたが、結局高井戸という男は弥太郎の言う通り“弁えたお人”だったのだろう。
起こるでも悲しむでもなく、ちょっとぎこちないながら、それでも穏やかな表情のままでいてくれた。
「本当に、申し訳ありません」
「いやいや、紅葉の決めたことだ。従おうじゃないか。……まあ、ただ、振られ男の未練として、時々指名なんてさせてもらいたいがねぇ」
「あ、はは。それは、はい。お待ちして、おります?」
正直なところ紅葉は高井戸を、ねちっこい、キモチの悪い抱き方をする男だと評価していた。
けれど、こんなことがあった後にまで娼婦として求めて貰えるのは、まあちょっとだけ嬉しくもある。
そういう発想をしてしまう時点で彼女もだいぶ花街に染まってきたのだろう。だけど、言うほど悪い気分でもなかった。
「では、これで失礼します」
何も注文しなかったのは、無意識ではあるが、最初から長居するつもりがなかったせい。
つまるところ質問の答えに関わらず、本当は答えなんて決まっていた。
だから高井戸は引き留めもせず、けれど悔しいから、負け惜しみのように言葉を投げかける。
「私は、酔狂じゃなく。真剣に、君が妻になってくれれば……そう願っていた。掃き溜めみたいな街から救い出して、幸せにしてやれる、自信もあったんだがなぁ」
彼に出来る精一杯の意地悪だ。
資産家の妻という立場を逃して、少しくらいは残念そうな顔をしてほしかった。
「幸せになれるってのは才能で。人間、どこだって幸せになれるらしいですよ」
けれど返ってきた笑顔には一点の曇りもなく。
惚れ直してしまったのだから、どうあっても彼の負けだった。
◆
……とまあ、まじめっぽいやりとりをしている男女の裏側で、居間で神妙な顔をする二人。
もちろん、弥太郎とりるである。
神の娘は、一瞬ながら高井戸を見た。
だから彼女は知っていたのだ。あの男の心には、虫が巣食っていることを。
「じゃあ、高井戸さんにも」
「は、い。虫が、いました」
紅葉を身請けしたいという男、そいつに虫が。
今迄のことを考えれば、自然表情は強張る。
「そいつは、どんな?」
もしもヤバい話に転がりそうなら、首を突っ込まにゃならん。
ごくりと一度つばを飲み込み、表情を引き締め直す。
目付きを鋭くした弥太郎の問いに、りるはおずおずと、そいつの正体に触れた。
「テントウムシ、です」
* * *
【テントウムシ】
コウチュウ目テントウムシ科に分類される昆虫の総称。
鮮やかな色合いをした小さな虫で、名前はお天道様に由来する。
甲虫の一種であり完全変態。足や触覚は短く、成虫は半球型をしている。
その見た目は派手ながら可愛らしく、歌の題材にもなっているテントウムシだが、この昆虫には面白い特性がある。
───それは、交尾である。
テントウムシは暑さ寒さに弱く、夏や冬は休眠して過ごす。
そして餌が繁殖する時期になると起き出して、しっかり栄養を付けると、交尾を開始する。
この交尾は長く、一回に付き二時間。
しかも一回では満足せず、一日のうちに何度も交尾する絶倫ぶり。
更にこういう生活を毎日続ける。
つまりテントウムシの生活の基本は、食う・寝る・交尾。
可愛らしい外見に反して、オスのテントウムシはかなりの性豪なのである。
ちなみに『紅娘』というのはコウチュウ目テントウムシ科に属する昆虫の総称。
紅娘と書いて、テントウムシと読む。
* * *
りるの説明を聞き終えて、弥太郎は非常に微妙な表情をしていた。
だってそうだろう。
今の話が事実ならば。
「あの、男性の心には、テントウムシが、巣食っているのです」
「なあ、りる」
「たぶん、紅葉さんを、求めたのは。自ら産み出した、虫に、侵されたから」
「いや、うん。盛り上げようと頑張ってるとこ悪いが、それもうヤリたいだけだろ? ただ単にヤることしか考えてねぇだけじゃねーか」
「…………………ええ、と。有り体に、言えば、そうです」
長い沈黙の後、りるはしぶしぶというか、困った顔をしながらもその事実を認めた。
つまり、なんというか。
顔の火傷なんて関係ない。身請けするためなら高い金を払う。妻として迎えたい。
どれも間違いなく真実の想いで、彼は確かに紅葉を好いているのだろう。
ただし、行動の根本は性欲だった。
顔の火傷が関係ないのは、抱くのに問題ないからで。
高い金を払ってでも妻に迎えたいのは、毎日のように睦み合いたいからで。
つまり高井戸という男の真実は、惚れた相手とはとにかくいっぱい愛し合いたいという、ほぼ思春期の少年みたいな思考回路だったのである。
「こいつは、何の裏もなかったことを喜ぶべきなのか……いや、でもなぁ」
とりあえずこれで、買った娼婦を虐げようとか、嫌な企みの類はまるでないことが証明された。
高井戸は純粋に紅葉へ想いを傾けて、妻に迎えたいと申し出たのだ。……ただちょっと、性欲が強すぎるだけで。
まあ、ある意味ではよかったのかもしれない。
毎晩のお相手さえできれば、間違いなく大切にしてもらえる。身請け先としてはかなり理想的だ。
傍から見ていると非常に微妙な気分だが、この際外野はどうでもいいだろう。
「戻ったよ」
ちょうどそんな話をしている最中に紅葉が帰ってきたものだから、弥太郎はびくりと大げさな反応をしてしまった。
けれどすぐさま取り繕い、居間へ顔を出した彼女に対してにこやかな笑顔で応じる。
「おう、紅葉。お疲れさん」
「ああ、ただいま」
おや、と思う。
この娘は、こんな素直に応えるようなヤツだったかな。
気になったが向こうは別段普通のツラ。なら心変わりがあったとて、敢えて突っ込むようなことでもない。
それよりも、聞かなければないのは結果の方だ。
「で? 高井戸さんの件は、どうなった?」
「ああ、断ったよ。向こうも、許してくれた」
いっそ清々しいくらいにきっぱりと、紅葉はそう言った。
もしかしたら身請け先としては理想的かも、なんて考えた矢先だが驚きはしなかった。
何となくそうなるだろうな、と予想はしていた。
「おいおい、いいのかよ。あんな好条件で身請けしてくれるなんて、何度も転がってる幸運じゃねえぞ?」
「だろうね。火傷を気にしないでくれて、あたしが勝手な振る舞いをしても許して。ああいう男の人は、中々いないと思うよ」
評価が案外と高いけど、それ全部ヤる為だからね?
そう思いつつも弥太郎は誤魔化すようにへらりと笑うだけ。
高井戸の地位は『娼婦遊びが好きな金持ち』からだいぶ向上したようで、紅葉の瞳はゆるりと優しく細められている。いまや『引き際を弁えた大人の男性』くらいにはなっているのかもしれない。
だからもう、何も言えなかった。
火傷を受け入れてるのは下心が十割だとか、中身はヤリたい盛りのガキみたいなもんですとか、言える筈がねーよチクショウ。
「でも、金があれば不幸は避けて通れるだろうけど、それで幸せになれるって訳でもないし」
そんな弥太郎の内心を無視して、紅葉はどっかで聞いたようなことを言う。
その辺りに関しては、テントウムシ云々を置いておいて、本当にそれでいいのかと思ってしまう。
実際、娼館で稼ぎながら暮らすより余程いい生活が出来るのは間違いない。彼女自身が選んだのなら否応もないが、かなり勿体ない話だ。
「ま、もうしばらくは厄介になるよ」
「そら構わねえが、時期が来たら俺は容赦なく売り飛ばすぜ?」
「それも分かってる。そうなったら、せいぜい体を張ろうじゃないか」
娼婦であることを割り切れていなかった少女が、なんともさっぱりとした物言いをする。
こうまで腹に決めてしまったなら今更何を言っても無駄か。
頭をがしがしと掻いて、しかし自然と口元は緩み、弥太郎は小さく息を吐いた。
「お前さんがそれでいいなら、いいさ」
「私は、紅葉さんが、行かないでくれて、嬉しいです」
どうやら、この三人の生活はもう少し続くようだ。
それはそれでいいのかもしれないと思う。少しだけ紅葉の表情が柔らかくなったことも含めて。
そして、だからこそ。
「まぁ、いる場所なんて、どこでも変わらないしね」
そうやって照れ臭そうに微笑む紅葉には。
おそらく綺麗にまとまったであろう身請け話の真実だけは、言わない方がいいのだろう。
【夏盛り紅娘】・了
タイトルは『夏を盛りと咲き誇る紅の娘』ではなく、『夏だってのにサカってる、テントウムシみたいなおっさん』の意。




