【コオイムシの屋敷】・1
子供の頃、大好きなお菓子は宝物だった。
だからこっそり食べようと隠して、それを忘れて腐らせて、虫が集ってしまったこともある。
なら思い出だってそういうものだろう。
鮮やかな記憶も歳月が過ぎれば少しずつ薄れる。
忙しさに楽しかった頃を忘れ、取り出すこともなくなれば、思い出もやがて腐り果て。
しまい込んだ宝物の日々にも、大切な心にさえ。
いつかは、きっと、虫がわく。
* * *
戦後焼け野原となった東京の池袋は、まずヤミ市から始まった。
太平洋戦争において敗戦し、連合国軍の占領下となった日本では、何をおいてもまず物資、特に食糧が足りていない。政府からの配給品はあったが雀の涙。このままでは飢え死にすると人々はヤミ市へ群がる。
廃材を寄せ集めて建てられた、みすぼらしいバラックの店舗。
お世辞にも真面とは言い難いこの市場では米やうどん等の食品、衣類、日用生活品、果てはアメリカ軍の横流しの物資が公然と売られていた。
食糧管理制度が敷かれていた当時、配給以外の手段で食料を手に入れること自体が違法とされた。食べ物を売る側も買う側も犯罪、つまりヤミ市とは犯罪者の巣窟である。
しかし池袋のヤミ市は大層な賑わいを見せた。
決して真っ当ではなかったし、違法行為が当然のように横行していた。平和な時代から見れば後ろ暗い場所だが、それでもそこへ行けば食べ物が手に入る。困窮した戦後において多くの人々のお腹を満たしてくれたのは、政府ではなくヤミ市だったのだ。
そういう時期も少しずつ過ぎて、昭和二十年代中頃にヤミ市は東京から姿を消した。
戦後復興と共に取引を禁止されていた様々な品も自由販売となり、食べ物の売買が違法とされなくなった為である。
昭和二十六年には常設の露店は廃止され、とはいえ長く続けば「今更腰を上げるのも」と思う者もいる訳で。
多くの市民の生活を支えた池袋のヤミ市は、緩やかに時間をかけて、なんの変哲もない商店街へと形態を変えていった。
そして昭和三十年。
弥太郎が出入りする花座横丁もそういうヤミ市から変遷した商店街の一つである。
「かぁ、うめぇ」
くいと杯を傾ければ、酒の熱さが喉を通っていく。
つまみは漬物で十分、酔うより味わうよりこの熱さが好きで酒を呑む。弥太郎は三本目のお銚子を空にしてご満悦といった様子だ。
馴染みの居酒屋に客はいない。日はとっくに昇っており、雑然とした路地裏を出れば喧騒が溢れるような頃合いなのだから当然だろう。
そういう、他人様の働いている時間に嘗める酒がなにより旨い。
肴は漬物ではなく、まじめに働く日本国民のお方々であった。
「お天道様の高いうちに飲む酒ぁたまらねえな。大将、もう一本」
弥太郎はいかにも飲んだくれといった風情でお銚子を振るってみせる。
朝寝朝酒、昼寝に夜遊び。どれもそこそこに嗜む身。実際飲んだくれのクズに違いはなく、居酒屋の店主も呆れたように溜息を吐く。
「もう一本じゃねえよアホウ。店仕舞いなんだ、とっとと出ていけ」
「おいおい、客に対して扱い悪いじゃねぇの」
「はっはっ、知るか。俺は寝てえんだよ」
言葉は荒いが険悪さはない。むしろ常連だからこその気安さだ。
居酒屋『こまい』の店主はあくびを隠そうともせず、既に厨房の片づけを始めていた。
花座横丁では夜から営業を開始して、昼前には閉めてしまう店も多い。
夜の仕事を終えた娼婦や、満足した客を狙ってのことである。
『こまい』もそういう飲み屋の一つで、そこを閉店間際に入って、今の今迄酒を呑んでいたのだ。いくら馴染みとはいえ、店主もさすがに疲れているようだ。
「はいよ、っと。じゃあ金は置いとくぜ」
雑な手つきでテーブルにちょうどの銭を転がす。釣りでああだこうだは面倒だが、くれてやると言えるほど豪気でもない。みみっちいと思われようがこれでも商売人、金に関してはきっちりが信条だ。
「ああ、大将。最近いい女が仕上がってきててよ、もし暇なら遊んでくんな」
「お前の“いい女”は今一つ当てにならんのだが、どんなだ?」
「顔の半分が火傷で爛れてんだ」
「やっぱりかよ。蓼虫の趣味は分かんねぇ……」
店主の顔は分かり易く歪む。
弥太郎の扱う女は何人も見たが、どれも美人とは言い難かった。今回も例に漏れずらしい。
『蓼虫の弥太』は伊達でないということなのだろう。
軽く引いた店主の反応が面白かったのか、弥太郎は下卑た笑みを浮かべていた。
◆
“蓼虫の弥太”といえば池袋近郊ではそれなりに名の通った女衒である。
売春がある程度認められていた赤線ではなく、非合法な青線を根城に商売する身ならば、通る名は当然のごとく悪名だが。
赤線は昭和当時たいそうな流行で、例えば鳩の町などは社会現象にまでなり、アプレ派の素人娘が放っておいてもよく集まった。
しかし非合法の花街である青線に出入りする弥太郎は、貧乏な家庭の娘を買い取って、前借金で縛って働かせる。とどのつまりがタチの悪い昔ながらの女衒そのものだ。
ただそういう輩は掃いて捨てる程いる訳で、その中でも彼の名が知れ渡っていた理由は、仕事振り自体よりも選ぶ女の趣味にあった。
男は花街に一夜の夢を、咲く花には泡沫の恋を求めるが、どうせ夢に消える恋ならば綺麗な方がいいに決まっている。
だから人気の娼婦というのは一定以上の容姿や豊満な肢体をしているものだが、弥太郎の商う女はそういう通常の感性とはちと外れる。
がりがりに痩せ細った女や多少見目に問題がある程度はまだ普通。
たとえば四肢のどれかが欠損していたり、盲目であったり言葉を失くしていたり。
皮膚に消えない火傷があったり。
果ては死病持ちといった、他では見られないような女性が大半を占めていた。
『蓼食う虫も好き好きとは言うが、それにしたって悪趣味が過ぎる』
ついた異名が“蓼虫の弥太”。
キワモノが欲しけりゃ奴に頼め、というのがここいらの業者の共通認識だった。
「蓼虫、ねぇ」
花座横丁より程なく、豊島にある自宅へ戻った弥太郎は畳敷きの居間でだらりと寝転がっていた。
タイルで飾り付けられた二階建ての家は、自宅とは言っても仕事場を兼ねている。地方から買い付けてきた女を住まわせておくため、大きさも部屋数もそれなりだ。
「まったく失礼な話だわな。俺ぁ、一度だって商品を食ったことなんてねえってのによ」
蓼虫と揶揄される女衒の名は赤線・青線問わずそこそこ通りがいい。
もっとも本人はその呼ばれ方を決して好んではいない。
虫扱いは別に構わない。しかし買い付ける女を蓼とするのならば、“蓼虫”では弥太郎が肝心の商品を食っていることになる。
そいつは不愉快だ。扱う品はともかくとして、これでも一介の商人を気取っている。客に出す前の商品に手を付けるほど腐ってはいないつもりだった。
「なあ、紅葉?」
同じく居間で休んでいた、赤の着物を纏った年若い娘に問いかけた。
言外に、お前に手を出したことはないだろうと匂わせる。
攫ってきた娘にそういった物言いをする時点で、というよりそもそも人身売買を生業としているのだから、結局クズには変わりない。骨身に染みている女は、面倒くさそうに、いかにも煩わしげな顔で応じる。
「まあ、そりゃあないけれど。虫呼ばわりが当然のクズに違いはないだろうに」
「きついねぇ、どうも」
雑な暴言もからからと笑い、弥太郎は緩慢に上体を起こす。
横目で見る、つんと澄ました女。紅葉の顔は、反面が火傷で爛れていた。
『四十万、ってとこかな。どうだい御両人、この娘、俺に売らねえか?』
紅葉は埼玉の、裕福とは程遠い家で育った。
一家は揃って終戦を迎えたが、空襲で家財は全て焼け、今迄以上に貧しい生活を余儀なくされた。
金はない、仕事はない。頼る親戚もおらず、戦後はどうにかギリギリ食いつなぐような暮らし。
せめて娘がどこぞに嫁いでくれりゃあと両親は嘆き、しかし紅葉は顔の火傷のせいで嫁の貰い手もなかったらしい。
どん詰まりの貧困家庭。そいつは好都合と両親に話しかけてみれば、泣く泣くどころか悦んで娘を売ってくれた。食うにも困るご家庭だ、口減らしついでに大金が入るのだから拒否する理由はどこにもなかった。
「俺は確かに人買いだがよ? 笑顔で売る側にも問題があると思うね」
反論に歪んだ口元を見て、弥太郎は楽しそうに口角を吊り上げる。
紅葉に怒りはない。諦めに小さく吐息を漏らし、ふいと視線を逸らした。
彼女自身分かっている。両親は生活の為に娘を売った。弥太郎をクズとするのならば、紅葉の家族もまたクズだ。
そして“仕事”をやらされているとはいえ、満足な食事が与えられるだけ境遇はマシ。
そもそも人買い相手にこのような態度が許されている時点で恵まれているのだから、それを思えば紅葉も悪態は長く保てなかった。
「まあ俺がクズってのは間違いねえわな。それはそうと紅葉、またお仕事だ」
弥太郎は買い取った紅葉をまだ自宅に住まわせている。 娼館に売らず、今は個人で客を斡旋し売春させていた。
固定の客を掴んでから売り飛ばせば値が上がる。火傷が目立つだけに、細やかな配慮が必要だった。
「ふうん、どんな相手?」
「手慣れた、恰幅も金払いもいい旦那だよ」
「ぶくぶくに太った、娼婦遊びが趣味の金持ちね」
「本人の前じゃ言葉は選んでくれよ、頼むから。確保しときたい上客なんだ」
楽しそうに肩を揺らすのは、紅葉の指摘に間違いがないから。
ただ得てしてそういう御仁の方が長い付き合い出来るいい客になる。女衒にとっても、娼婦にとってもだ。
「分かってる。買われた女らしく、従順に振る舞うよ」
不敵で生意気な態度ではあるが咎めたりはしない。こういう気性も含めて買ったのだ。
幸先は良い、紅葉は順調に“稼げる女”として育っている。
これでまた俺の懐が潤うと、弥太郎は満足げに頷いた。
◆
東京は池袋、花座横丁はヤミ市から変遷した商店街である。
通りは狭く、折れ曲がった路地もあって、立地が良いとは言い難い。にも拘らず花座が栄えたのは、漂う蒸れた甘い香りのおかげだろう。
戦後、占領軍の指示により公娼制度は廃止され、公に娼婦の売り買いはできなくなった。
もっとも、何事も本音と建て前を使い分けるもの。
多くの性風俗業者は『うちはあくまで飲食店。ただ女給と客が偶然恋に落ちたものだから、性行為する際の場所くらいは提供します。その分の代金は貰いますよ』と、事実上の娼館の経営を続けた。
古くからの花街は特飲街(特殊な飲食店が立ち並ぶ街)へと名称を変え、警察もこれに関しては許可証を与え、俗にいう赤線地帯は売春防止法が施行されるまでのごく短い期間ではあるものの大層な隆盛をみせた。
しかし花座横丁は、こういった特飲街ではない。
青線地帯。警察に許可を取り付けないまま多くの業者が売春を行う、完全にモグリの花街だ。
“お天道様に顔向けできない皆々様が寄り集まる横丁。だが、だからこその味わいもある“、とは弥太郎の弁。
もちろん真っ当な意味ではないが、間違っている訳でもない。
例えばただの定食屋の二階が娼婦と興じる寝室になっていたり、明らかに幼い娘を買えてしまったり、通常より更に下品な見世物が堪能出来たりと、非合法ならではの楽しみがある。
弥太郎の攫ってくるようなワケアリの女を取り扱う娼館というのも、花座ならではと言えるかもしれない。
その辺りを把握しているからこそ、名の通った女衒でありながらも彼は青線近くに居を構え暮らしていた。
「とまあ、紅葉もいい具合に染まってきてな。口の方は反抗的だがちゃんと弁えてるし、もうそろそろ一人前ってところか」
夏の空には濃い青色がべったりと塗り付けられている。
いかにも重そうな盛夏の炎天の下、けたたましい蝉の声を聴きながら、花座横丁の道脇には男が二人。片方の弥太郎は暑さに汗をぬぐいつつも上機嫌で饒舌だ。
なにせ半年ほどで紅葉は随分と花街の女らしくなってきた。
これまでは客を選んで宛がってきたが、今なら己の手管で誘える。評判も上々、色を売るお店に勤めてもやらかしはすまい。
「あれならどこの店でもそこそこに立ち回れる。いや、世話した甲斐があったってもんだよ」
弥太郎が女衒として珍しいのは、まず買い付けた女を手元に置き、娼婦としての常識が身に付くよう面倒を見る点だろう。
素人娘はそのまま娼館に売り飛ばすと使い潰されることが多い。だから最低限自分で客を掴めるような、「使い潰すには惜しい」女に育ててから売る。
もちろん悪辣な業者は避け、前借金を返せば自由が買える、そういう真っ当な娼館を選ぶ。
こういった青線の業者らしからぬ健全さのおかげで、蓼虫と揶揄されながらも弥太郎は女衒として一定以上の評価を受けていた。
「……それを俺に聞かせてどうする」
ただ性風俗業者の裏話など、普通に暮らす人々には何ら興味がないもので。
買い付けた女の育成具合を滔々と語られて、もう片方の仏頂面をした長身の男───正義は微かに眉を動かした。
よれよれの服に生気のない目。肩幅はがっしりしているが、こけた頬に無精髭のせいで随分と疲れた印象を受ける。
それでも淡々と仕事をこなしていたところに、軽薄な態度で弥太郎が話しかけたのだ。疲れた印象もなにも、実際相手にするのは疲れるといった心境なのかもしれない。
「別にどうって訳でもねえさ。こんなもん、ただの雑談だろ」
「雑談にしても人選を間違えていないか?」
「つれないねぇ、マサ坊は」
「悪いが、上手い返しを期待されても困る」
正義の態度は大抵こんなもので、今更大した怒りも沸いてこない。寧ろ彼らしいと思ってしまうくらいだ。
花街に住んでいると虚飾のない人間というのはそれだけで清々しく映る。弥太郎は幾らか年下の、世辞の一つも言えないこの男を、愛称で呼ぶ程度には気に入っていた。
「そんな気の利いた真似、端から求めちゃいねえよ。ただ、紅葉にはお前さんも関わってるんだから、気になるかと思ってな」
会話をしながらも仕事の手は止まらない。
ぱっと見の印象こそ悪いが、正義は基本落ち着いた性格をしており、社交的ではないが真面目で誠実な男である。
もっとも、仕事といってもやっていることは花座横丁近くのドブさらい。夏だから臭いが出る前に多少綺麗にしてくれと、商店街の店屋が連名で頼んだらしい。
正義は定職に就いておらず、日雇いの給金で食いつないでいる。
住まうのは貧乏人の集まるボロアパートで、家族や恋人の影もなく慎ましく暮らしていた。
無職の若者といえば聞こえは悪い。しかし腕っぷしが強く、頼まれたら用心棒でも汚物処理でもやる彼は、非合法の青線の街では意外と重宝されていた。
「関わってると言ったって荷物持ちをしただけだろう」
「荷物持ちだって立派な仕事だと俺は思うね」
「どちらにせよほとんど面識のない相手だ。特別な感慨は抱けないな」
紅葉との関わりというのも、弥太郎が女衒の仕事で遠出する際に荷物持ちを頼み、ちょうどその時に彼女を買い付けたというだけの話。交渉に携わった訳でもなし、確かに然程の関わりもない。
「そうかい、そうかい」
ただ弥太郎は、僅かながらに顰められた眉を見逃さなかった。
特別な感慨はないと正義は語るが、彼は真面目で誠実で、なによりこんな場所に住まいながらも良識というものを持ち合わせた人物だ。表には出さないだけで女衒を好ましくは思っておらず、娼婦に身を墜とした紅葉へも多少の同情心はあるのだろう。
だというのに、正義は女衒の仕事を手伝う。その辺りの心境は弥太郎には今一つ分からない。
年齢は二十代半ばくらい、弥太郎より二つ三つ年下といったところだろうか。
まだ若く、人柄も悪くない。真っ当な生活だって望めそうなものだが、戦後の池袋にふらりとやってきた正義は、なんだかんだと居座ってしまった。
この男がどういう経緯で流れ着き、何を思ってここに留まるのかは、まるで知らないままだった。
「しかし、精が出るねぇ」
「一度引き受けたからには当然だ」
「いいこった。大事にしとけよ、その心根は」
夏の暑い日、額に汗しながらどぶ攫いをする正義を弥太郎はぼんやりと眺める。
真面目なのはいいことだ。そこまで真面目になる理由は見当もつかないが、彼も戦後を生きる男。なんらか“のっぴきならない理由”というものがあるのだろう。
ならば不用意に踏み込むのも野暮。よく知らないが気に入っている青年、その程度の認識で十分だ。
「そうだ、今度また荷物持ちを頼みたいんだが。駄賃は弾むぜ」
「構わない。弥太には世話になっているし、予定は優先で空ける」
「お、嬉しい言い方してくれるじゃねえか」
気を取り直して持ち出した本題はとんとん拍子で決まった。
今回正義のところへ訪れたのは、頼みたい仕事があったからだ。弥太郎は女衒、女を買い付ける為に方々へ足を運んだりもするのだが、次はちょいとばかり遠出をする予定だった。
となると荷物も多くなるので、荷運び雑事もろもろ任せようと旅の供を頼みに来た。
「代わりといっちゃなんだが、行く前に寿司でも食わせてやるよ」
「それは、ありがたいが。別にそこまで高いのでなくとも」
「折角の奢りなんだ、そう言うなって」
正義もそれを快くとまではいかないが、すぐさま受けてくれた。
弥太郎はゲスだが、それはそれとして仕事を回してくれる。その日暮らしの無職にとっては有り難い存在でもあり、割合と関係は良好だ。
だからこういった雑談も悪くないと思う。
だが当然、関係が良好でない輩というものもいる訳で。
「ところで……げ」
和やかな会話はここで終了。目の端に映る人影のせいで、弥太郎の顔は嫌そうに引き攣った。
人影はこちらに近付いてくる。どうやら見つかってしまったらしい。はっきり言って嫌なのだが、無視する訳にもいかない相手だ。
「よう、蓼虫の」
四十に届こうという年齢の、ガタイのいい男。
にやついた表情がまた苛立たせてくれる、もうぱっと見で嫌なヤツと分かる中年が無遠慮に声をかけてきた。
内心は「話しかけてくんなよ、てか寄ってくんな」と思っていても、努めて柔らかな表情を作り、丁寧にお辞儀をして見せる。
相手は警官、変な態度で睨まれたくはなかった。
「おや、こいつは岩本の旦那。へへ、調子はどうですかい?」
「元気も元気だ。夏だってのに懐が寒い以外はな」
人身売買を生業とする弥太郎は、毎日きっちり八時間働くような生活はしていない。一発どでかく大金を稼いだなら、後はしばらくお休み。紅葉を買い付けても数年遊んで暮らせるだけの貯えがあり、天気のいい日には働かずぶらぶらがいつものことだ。
そういう生活をしていると、同じく真っ昼間から遊んでいるクズともよく顔を合わせる。
岩本と呼ばれた警察官もご同胞。汗水流して働く方々を尻目に青線へ出入りする不良警官である。
「おぉ? なんだ、花座の“あぶれ”も一緒か。揃って何の悪企みだ?」
「いえいえ、ただの雑談をしていただけですよ」
あぶれ、というのは溢れ者の意で、日雇い仕事にありつけなかった無職者を指す言葉である。
だが岩本は古い意味の「社会から脱落して放浪し、徒党をなす悪党」として使う。つまり正義を働かずに迷惑をかけるだけのならず者だと呼んだ。
しかし返る言葉はなかった、背後の気配もまるで変わらず。いつも通りと言えばいつも通り、正義の仕事の手は止まらない。
警官と無職で、糞みたいなヤロウと真面目な性格と、この二人は反りが合わない。というよりも岩本が一方的に見下すような視線を向けてくるせいで、いつも険悪な雰囲気になってしまう。正義の気性なら滅多なことはないだろうが、それでも居心地はよろしくない。
「おお、そうだ。旦那、これを。あんま寒くて風邪ひいちゃ困る、どうぞカイロで体を温めてくだせえ」
「賄賂の間違いだろ」
「カイロですよ、旦那」
こんなところで悶着はごめんだと弥太郎は間に入り、言いながら幾らかの金を握らせれば、気色の悪い笑みで岩本はそれを懐に収めた。
叩けば埃で周囲が見えなくなるくらいの女衒だけに、金に汚くてもこういうところで惜しまない。僅かばかりの銭で警官のお目こぼしが貰えるなら安いものだ。
「お相手探してるなら格安で紹介しますぜ」
「ちゃっかりしてんな。それで袖の下を回収か?」
「まさか。いつもお世話になってるんですから、感謝の気持ちです」
「どっちにしろ勘弁だ。蓼虫の紹介する女じゃ勃つもんも勃たねえよ」
「別に俺自身はキワモノ趣味じゃありませんて」
どうにも蓼虫の名が先行し過ぎているようだ。
確かに、つい最近娼館に売り飛ばした女は両腕がなかった。しかしそれはあくまでも商売、弥太郎が好むのは真っ当な美人である。
だいたい普通の女だって何人も売ったのだ。多少年齢が若過ぎたり、生い立ちが酷いとか、以前売った女などは肺病を患っていたりもしたが十分に見目麗しい。それを考えればキワモノしか扱わないという評価は微妙に納得し切れなかった。
「ああ、だが前見た火傷の女」
「紅葉ですかい」
「あれは中々にそそるもんがあったな。生意気そうで、こう、組み伏せてやりたくなる」
旦那の方がよっぽど良いご趣味で、とは勿論言わない。
岩本は不良と枕に付くが、警官らしく体格はいい。筋肉質で力もあり、そのせいか乱暴な行為がお好みだ。時には商売女だから遠慮はしないと壊してしまうことさえあった。
折角の良い買い物、無茶な扱いをされて売り飛ばす前に壊れても困るので紹介はしない。「へへ、でしょう?」と愛想笑いでやり過ごせば、やはり火傷が引っ掛かるのか、突っ込んだ話まではして来なかった。
「ま、抱きたいって程じゃないがな」
「そいつは残念です」
「じゃあな、蓼虫の。俺みたいに物分かりのいい警官ばかりじゃない。精々目を付けられないようにしろよ」
「へへ、ありがとうございます」
温まった懐をぽんと叩き岩本は高笑いで去っていく。
その様を深々としたお辞儀で送りながら一言ぽつりと呟く。
「あー、クソ警官が」
金に汚い男から金をせしめて良い感情を持たれる筈もない。
立場上逆らえないだけで、岩本は出来れば顔を合わせたくない類の男だった。「目を付けられないように」もなにも、こっちはてめえみたいな不良警官に目ぇ付けられてんだ。内心悪態を付きながら、道端に唾を吐き捨てる。
「弥太」
苛立っているところに、正義が遠慮がちに声をかけてくる。
ちらりと横目で見れば「すまん」と深々頭を下げた。
「俺のせいで無駄をさせた」
あの遣り取りはただ賄賂を渡したというだけでなく、場を治める為、もっと言えば正義をかばう為だったとったらしい。
もちろん、そういった意図もなくはない。だが大方の理由は弥太郎自身が面倒を避けたいからで、そこまで申し訳なさそうにされると居た堪れなくなる。
「なぁに、今度の駄賃に付ける色を消しとくだけだ。俺の懐は痛まねぇさ」
「そうしてくれると、むしろ助かる」
こちらも本音で、ここでの出費は正義への給金で調整しようと言えば、有り難いとばかりに表情を緩める。
まったく、本当にまともな感性の。青線には似合わない男である。
「ま、手は抜かねえでくれよ。詳しい日程は後で伝えるから、頼んだ」
「ああ、分かった。……しかし、随分と念を押すな?」
「そりゃそうさ」
弥太郎の含み笑いを見て、正義は怪訝そうな顔をしている。
今回は地方の農村へ女を買い付けに行くのだが、遠出になるので正義には荷物持ちを頼んだ。
いつもより多少気合が入っているのは事実。なにせ買う女には既に目星がついている。
「なにせ、今度の女は“神の娘”だからよ。気合の入り様が違うんだ」
その物言いにきょとんとする顔が見ものだった。
弥太郎は少しだけ楽しそうに表情を歪め、再びそぞろ歩きへと戻る。
まだ日は高い。気分転換がてらにもう一杯くらい酒を呑んで、後は帰って昼寝でもするとしよう。