【夏盛り紅娘】・2
金を持ってりゃ許されることってのは多い。
他が飢えていようと自分だけは贅沢できる。
病気になっても医者に診てもらえる。
多少の犯罪ならもみ消せる。
人間様を買ったって、文句の一つもつけられない。
『よう、“花”。準備は出来たか』
そういう金持ち様に媚びへつらうのが女衒ってもんだろう
蓼虫と呼ばれる前。初めて女を売った相手は、戦後のドサクサで成り上がった貸金業のおっさん。
終戦からたかだか一年と半年で腐るほどに金を稼ぎ、薄汚いバラックの立ち並ぶ池袋で、そいつは一人の女を見初めた。
それが、“花”という、十六になったばかりの少女だった。
『うん、大丈夫』
へにゃりと笑う少女は、別段美しいということもない。
女性としての豊かな隆起も然程。
まあ愛嬌はある、と思う。そこは贔屓目も入っているので、他の男がどういう評価を付けるかは今一つ分からなかった。
しかし件の成金男は結構な高値を払うというのだから、他の誰かにとっても相応の価値がある娘なのだろう。
『ならよかった。やっこさん、お待ちだぜ』
『分かってるよー。ふふん、これであたしもお金持ちの愛妾かー。いい暮らしして、いっぱい美味しいもの食べれて、暖かい布団で眠れるね』
『そうして売った金で俺も豪遊と。成金のおっさんもキモチよくて、いや、全部が全部丸く収まるいい商売だ』
玉ノ井から池袋へ。
藤吉さんと、花と。三人で一緒に移った。
同じ屋根の下で暮らし、そこそこの情もあるが、高額の金で買い取りたいというのなら是非もなし。
どうせ病気で僅かばかりの寿命だ。
後先ない女で懐が潤う、なんとも有難い話である。
『あー、売ったお金で豪遊とか本人の前で言うかなぁ』
不満そうに頬を膨らませる
おそらく、今生の別れになる。
だというのに言葉は軽すぎるくらい軽い。
『言うさ。隠したところで変わんねえしな』
『そりゃあそうだけど。酷いと思わないの?』
『思わねえよ。前も言ったろ? 俺は、弱者を踏み付けて生きていくんだってな』
お前も踏み付けられる弱者だと。
その言葉に花は俯く。
彼は、どこぞのおっさんに、私を売りつけて。
そうやって得たお金でこれからを楽に生きていく。
私がクソみたいな男に抱かれて喘いでいる時も。
酒を飲んで美味しいものを食べて。
我が世の春と人生を謳歌するのだ。
『……なら、さ』
それを、許せないと思うのは、いけないことだろうか。
最後の最後になって、ちりと黒い情念か花の胸を焦がす。
私は不幸になるのに、彼は幸せになる。許せないじゃないか。
ああ、結局人の心なんてそんなもの。共に暮らしたこともあったが、この男の未来が許せないと。
『呪いをかけてあげる』
『私を踏み躙って生きていく貴方が』
『どうか報われないまま、孤独を抱えたまま死に絶えますように』
だから花は別れの際、呪言を遺して去って行った。
……一年後、男は彼女の訃報を聞くこととなる。
死にかけで売った娼婦がそのまま死んだ、ただそれだけ。
その頃には、蓼虫の弥太という悪名もすっかり慣れ切っていた。
「……懐かしい夢、見たなぁ」
そこで、目を覚ます。
夏の寝苦しい夜を越えて、なのに訪れた朝も爽快とはいかない。
身請けなんて話が出たせいか、花を売った時のことを夢に見た。
だからといって感傷的になるでもない。
過去は過去。今更どうこう言っても仕方ない。
弥太郎は布団からのっそりと起き上がった。
今日の朝飯はなんだろな、なんて鼻歌混じり。気分がいいのか、誤魔化す為か。それを知るのは本人だけだろう。
◆
昭和三十年。
都市部の復興もかなり進み、実際池袋などは、かつての焼野原がよくぞここまでというくらいに栄えている。
数量景気と呼ばれる、日本の歴史上でも飛び抜けた好景気。
暑くたってアイスは食えるし、洗濯機のおかげで主婦の苦労も多少はマシに。
二年前にはテレビの本放送も始まり、初夏辺りには後楽園遊園地が開園された。
あるいは戦前よりも暮らし向きは良くなっているのかもしれない。
もっとも戦後十年経っても時流に乗れず、貧しいままの地方はある訳で。
埼玉のはずれに住んでいた紅葉の家庭みたく、貧乏暮らしから娘を売ってしまうような御事情もそこら辺に転がっている。
それを不平等と思うなかれ。
更にひどい理不尽だって普通にある。
たとえば戦時中は別荘地に疎開して、終わって実家に戻って来て。
戦火で焼け出された人々を見て、『アラヤダ、路上で浮浪者が暮らしているわ。いやねえ、オホホホ』なんて真顔でおっしゃる資産家のお嬢様だって現実に存在している。
逆に戦前は特権階級だったのに戦時のごたごたで没落し、下々に紛れて生活する斜陽族の方々もおられる。
そうやって金持ちも貧乏人も。
上流から下流に落っこちた御仁も。相も変わらずふんぞり返る、生まれながらのお偉いさんも。
ごちゃまぜで暮らしているのが戦後の日本だ。
その中で高井戸という男は、『相も変わらずふんぞり返る、生まれながらのお偉いさん』に位置する。
元々彼の家は鉄鋼業を生業とした、工場を幾つも持つ資産家だった。
戦争に召集されるも生きて日本へ戻り、戦後は父から当主の座を譲り受け、周囲が貧困に喘ぐ最中も資産家としての立場を失うことはなく。
生まれてこの方、飢えた記憶も金の苦労も縁遠い。そういう裕福が当然のお人である。
「…………とまあ、つまるとこ、犯罪に手を染めるまでもなく金なんざ持ち飽きてる、至極まっとうな“いいとこのお坊ちゃん”ってことだな」
紅葉を身請けしたい。
高井戸がそう告げてから一夜明け、いつも通り三人での朝食を迎える。
夢の名残など微かも匂わせず飯を平らげ、食後のお茶を楽しみつつ、弥太郎は取り敢えず程度だが件の男、その人となりについて触れた。身請け先を何も知らないでは不安だろうと、これも職責というヤツだ。
「太ってるから裕福な家の出だろうとは思ってたけど、本当に凄い資産家なんだね。……趣味の悪い、ねちっこい抱き方の男としか見てなかった」
「こら。相手の抱き方を言及するなんざ、娼婦としちゃ下も下だぜ」
「ああ、そうだったね」
客が買うのは女の体ではなく一夜の夢、故に過去も今も問わぬが花街の習わし。
池袋に移り住んでから日も浅い頃、弥太郎は口を酸っぱくして教えてくれた。
だから紅葉はそれに倣い、いつも指名してくれた高井戸の背景もまるで知らなかった。
その分、驚きも強い。
まずとんでもない資産家であることに驚いた。
そして女をいくらでも選べる立場であるのも関わらず、顔の半分が火傷で爛れた娼婦を求めた事実には、今もって困惑すらしていた。
「それにしても、大金払ってまであたしを身請けしたいなんて、ちょっと趣味が悪過ぎないかい?」
「俺としちゃ然程不思議でもないんだが。まあ、娼婦遊びがお好きな時点で誠実とは言い難いが、性格的にも然程悪くない。太り過ぎた体型と粘っこい喋り方以外は、十分できたお人だと思うぜ?」
金払いがよく、娼婦に乱暴せず、女衒に対しても弁えた態度を取る。
ぶくぶくに太っているというのも、戦後の時代に太れるだけ食えるのは裕福な証拠で、それも美点といえなくもない。
女の趣味に関しては、蓼虫が言及しても「てめえが言えたことか」と火傷するだけなので割愛。
いろいろ総合すると、売られていくお家としては、そんなに悪くないというのが弥太郎の見解だった。
「そんな感じなんで、後はお前さん次第だな。身の振り方は自分で決めな」
「……え? 自分で、決めて、いいの?」
説明を聞き終えて、まず紅葉が抱いた感想がそれだ。
いくら自由が許されているとて買われた女。娼婦としての基本が出来たなら、いずれはどこぞへ売り飛ばされる。
それくらいは分かっていたし、十分に納得していて。だからこそ「身の振り方を自分で決めろ」というのは予想していなかった。
「ああ、いや、勘違いすんなよ? じゃあお家に帰りたい、なんて言ってもそれはダメだ」
「そりゃあ、まあ。そうだろうけど」
「ただ、お前さんはもう十分客を掴めるの娼婦だからな。そろそろナカゴ屋か、他に一軒候補があるんで、そっちに売ろうかと思ってたんだ。だから分かり易く説明すると、選択肢は二つ」
一つは、規定通り娼館に売られる。
そこで売春をして、ある程度金を稼いだら、前借金を返して自由になる。
時間はかかるし、捕らぬ狸の皮算用なので途中で働けなくなったらそこで終わりだが。
そしてもう一つ。
身請けしてもらい、すぐさま自由になる。
ただしこの場合、高井戸の“モノ”扱いなので、今後の生活に多少の制限が付く。
「どっちを選んでも俺の腹は痛まなくて、どっちを選んでも問題は残る。ならもう後はお前さんの趣味の話になってくるからなぁ」
「だから、好きにしろって?」
「おう。ただ、“もちろん、紅葉の気持ち次第だが”なんて言う男が身請けしてくれる幸運は、そう転がってるもんじゃねえ。そこはちゃんと考えとかなきゃな」
こうやって選択肢が与えられたのは、弥太郎がどうこうよりも、高井戸の配慮が大きい。
紅葉を身請けしたいが、金に物を言わせるのではなく、あくまでも彼女自身の意思を尊重する。
女を養えるだけの財力があり、顔の半分が火傷で爛れた紅葉を気にせず、しかも選択自体は本人に委ねる。
そこまでしてくれる男というのは中々いない。
「……分かってるさ」
言われずとも、紅葉だって重々理解はしている。
嫁の貰い手がないと蔑まれてきた身の上だ。身請けしたいとの申し出だけでも有り難く、娼婦から足を洗えると、喜んで飛び付くのが普通かもしれない。
けれど即答は出来なかった。
その僅かな迷いを見て取ったのか、そうでないのか。弥太郎は少しだけ目を細め、思い出したように言った。
「そういや、午後から高井戸さんのご指名だ。二人きりで、改めて話したいってよ」
動揺のせいか、紅葉は意識せず指先を強張らせた。
今回のご指名は、一晩抱かれれば済むような話ではないだろう。
◆
悲観的になるな。
というのが、どだい無理なのだ。
紅葉は戦争を生き延びたが、クズの父親の為に火傷を負った。
爛れた顔では嫁の貰い手もなく、働きに出るのも上手くいかない。
そこに目を付けた蓼虫の女衒に買われ、今や立派な娼婦……とも言い難く。
世の殿方にはキワモノ趣味が結構いるようで、そういうお客を弥太郎が斡旋してくれるから、どうにかこうにか春をひさいでメシを食える。
親はクズ、クズの女衒に買われて。
現状が不満で悪態をつきながら、そんなクズに頼らなきゃ生きていくことさえままならない。
つまりはわたくしも、立派なクズでござい、ってなもんで。
だから悲観的になるなというのが、どだい無理な話だ。
『身請けしたい』という提案に動揺したのも、結局はそういうこと。
彼女は、自分というものに、これっぽっちも価値を見出せていなかった。
「やあ、紅葉。よく来てくれたねぇ」
にも拘らず、喫茶店で待っていた高井戸は、笑顔で紅葉を迎えた。
ぶくぶくに太った男ではあまり様にはならないが、人の顔を言えるような女でもない。
どうもお待たせしました。少し固い表情で頭を下げて、彼の向かいに座る。
「なにか、飲むかい」
「ええ、と」
「暑いし、冷たい飲み物がいいかな」
遠慮するより先に高井戸は店員を呼び、オレンジジュースを注文してしまった。
値段を確認もしない辺り、支払いで困ったことなんてないのだろうな、と思う。
池袋に来るまでは由緒正しい貧乏人だった紅葉には想像もつかないが、世の中にはそういう方々もおられるようだ。
「しかし本当に暑いねぇ。復興が進んで建物が増えた頃からかな。夏は妙に暑くなったように感じるよ」
「そう、かもしれません。人が多くなったからでしょうか?」
「はっはっ、まあ池袋界隈は夜毎昼毎熱気がすごいからなぁ」
さすがにお客様の前では弥太郎にするような砕けた話し方はしない。
長い前髪が視界を遮ってもそのまま。少し動いて火傷跡が人目に触れるのは嫌だった。
もっとも、高井戸が気にしないことは分かっている。抱かれている最中に幾度も見られたが、“にたり”と粘ついた笑みを浮かべるだけ、そういう男なのだ。
「……あの、今日は」
「んん、どうしたのかな?」
「いえ、お話があると、聞いたので」
「あぁ」
運ばれてきたオレンジジュースで体を冷やし、一息ついてから紅葉は本題について切り出す。
僅かに唇が震えたのは緊張のせい。対して相手は実にゆったりとした様子で、大きく頷いて見せた。
「私は、君を身請けしたい、と思っている。娼婦の暮らしなどいつまでも続くもんじゃないだろうし、ウチで暮らさないか?」
嘘でも冗談でも勘違いでも、なんらかの悪だくみでもなくて。
やはり高井戸はまっすぐに、正しく、紅葉を求めてくれていた。
「お妾さんとして来てほしいって話じゃない。私はいい歳だが、まだ結婚はしていなくてねぇ。どうだろう、いずれは妻として」
「ちょ、ちょっと待ってください! 身請けだけでもとんでもないのに、資産家のご当主様が私みたいのを妻になんて!」
「私みたいの?」
「だって、そうでしょう。顔に火傷を負った娼婦なんて、いくらなんでも」
そんな女を妻になんて、いくらなんでも有り得ない。
身請けしたいというのも、資産家なのだから都合のいい妾として家に置いておくくらいの話に考えていた。
なのに蓋を開けてみれば妻? 予想外過ぎて上手い返しも出て来ない。
「そんなに、気になるものかなぁ?」
「え?」
「少なくとも私はね。火傷があろうがなかろうが、君が欲しいと言った筈だよ。火傷を気にしたことなんて一度もない」
この役立たずが。
あんな顔じゃ貰い手もあるまい。
見たか? 化け物みたいだったぞ。
気持ち悪い、こっちを見るな。
ぶつけられた罵詈雑言は数えきれないくらい。
両親にすら捨てられ、価値はないと誰もが見下し、値段を付けたのは蓼虫の女衒のみ。
なのに、何故彼は、そういう女を求めるのか。
喜びよりも困惑が強すぎて、紅葉は何も返せず、ただおろおろとするばかりだ。
「……今すぐ、返答を貰うのは難しそうだね」
「え、あ、あの」
「金で横っ面をひっぱたくような真似はしたくないし。少し日を置くから、ゆっくり考えてくれないか? もちろん選ぶのは君、嫌だというのなら諦める。正しくできれば、受け入れてくれると嬉しいなぁ」
そう言って高井戸は先に店を出た。
大金を積んで無理矢理引っ張っていくことも出来たろうに、そうはしない。
彼は本当に、紅葉のことを考え、その上で欲してくれているのだ。
でも、どうすればいいのか分からなかった。
選ばれるような価値があるなんて、自惚れられなかった。
◆
「おう。早かったな」
弥太郎宅に戻れば、こちらの悩みなんて知ったこっちゃないと、家主が軽い挨拶で出迎える。
出迎えると言っても居間でごろごろしながらなので誠意というものが全く感じられない。
ただ、りるも一緒になってごろごろしていたので、あまり不愉快とは思わなかった。
というか二人で転がっている絵面はなんとなく面白くて、いい具合に肩の力が抜け、むしろありがたいくらいだった。
「どした、紅葉」
「あ、いや。なんか……最近、そういう挨拶にも慣れたなぁって」
「そりゃ、戻ってきたら声くらいはかけるだろう」
「まあ、そうなんだけどさ」
とっさの誤魔化しだが同時に本心でもあった。
こういった気楽なやりとりは生家では殆どなかった。こういう細かい点で、クズではあるが弥太郎は両親よりも遥かにマシだ。
そんなズレた会話をしていると、ころんと仰向けになったりるが、こてんと首を傾げていた。
そういえば、この白い娘は弥太郎の気遣いを良く察する割りに、言葉を濁す紅葉の機微はいつも今一つ理解していない様子だ。
二人の差はなんだろうか。どうでもいいことを考えていると、遮るように目下の問題を投げかけられる。
「で、どうだったよ。高井戸さんの話は」
一時的とはいえ紅葉は弥太郎の所有物。その処遇に関しては把握しておく義務がある。
質問は当然のことで、けれど答えられなかったのは、そもそも当の本人がうまく状況を飲み込めていないから。
誰かに求められるような価値が自分にあるなんて、とでもじゃないが信じられなかった。
「ねえ……少し、聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」
だから紅葉は自然と弥太郎に声をかけていた。
蓼虫の弥太と揶揄される悪辣な男ではあるが、それでも美点というものはある。
その一つは、ちゃんと食事を食べさせてくれるところ。
そしてもう一つは、質問すれば大抵は面倒臭がらず答えてくれる。
火傷を負ってから外に出なくなった紅葉は学がなく、できて読み書き程度。それでなくとも娼婦になりたて、戸惑う場面も多かった。
しかし弥太郎は分からないことを聞けばちゃんと答えてくれるし、無知を嘲ったり、煩わしそうな態度も取らない。
今日まで沢山の質問をしたが、一度だって馬鹿にはされなかった。
「あーと、込み入った話、でいいんだよな?」
「うん。分からないことがあるから、教えてほしいんだ」
これでこの男は案外察しがいいし気も利く。
たぶん紅葉がどういう話をするかは分かっているだろう。
「ま、かまわねえよ」
それでも、からからと笑いながら、弥太郎はいつものようにそう答えてくれた。