【夏盛り紅娘】・1
濃い青をべったりと塗り付けた、鮮やかで重たい空。
夏の炎天は相も変わらず鬱陶しくなるくらいに働き者で、もう少し空気を読んで適度に休んでくれりゃいいのにと思わなくもない。
こうも暑いと食欲だって落ちるし、用意だって結構な手間。昼飯はなにか簡単で、つるつると喉に入っていくものがいい。
となれば、“そうめん”である。
「お待たせ、しました」
「おう、りる。ご苦労さん。火傷とかしなかったか?」
「は、い。大丈夫、です」
今日の昼食はりるが全て準備した。
そうめんを茹でて、大きめの器にいれ食卓の真ん中に。
ネギを刻んで、ショウガだのシイタケを煮付けたり。“かえし”も手ずから。後は水ナスときゅうりの漬物を皿に並べる。
然して手間のかかる調理でもないが、二十歳まで軟禁されて過ごした彼女には結構な労働だ。
やり遂げたことが嬉しいらしく、表情はどことなく満足気。料理を教えた紅葉もその成長に少し口元を緩めていた。
「おい、弥太」
「んお? どした、マサ坊?」
「俺の場違い感がすごい」
和やかな空気の中で、微妙に顔を強張らせる者者一人。
まだ暑い夏の日、弥太郎宅ではいつものように女衒と娼婦が食卓を囲む。
食い意地の張った家主曰く『人間はとにかくメシを食わにゃならなん。食べないでいると体だけじゃなく心が痩せ細る』。
そういう訳で買われた女であっても食事の献立に差はなく、紅葉もりるも、毎度しっかりと食べさせてもらえる。
ただ今日はいつもと違い、花座近くに住む無職の青年、正義も昼飯にお呼ばれしていた。
「毎度言ってるが、んな気にすんな。タダ飯にありつける、くらいの気持ちでいりゃいいさ」
「そこは、感謝している。いるんだが、人の家にタダ飯を食う為だけに来るというのが」
定職に就かず日雇いで金を稼いでいると、食える時と食えない時の差が激しい。
丸二日ほど水だけで過ごすこともあり、それを見かねて時折弥太郎が食事を奢ったりもするのだ。
正義としても、こうやって誘ってもらえるのはかなり助かる。
しかし普段は二人で外食の為あまり気を遣わないが、家に招かれて女性陣も一緒というのは、肩身の狭い無職としては何となく緊張してしまう。
「家主直々のお誘いなんだから、別にあたしたちに気を遣う必要もないよ? ねえ、りる」
「は、い。食事は、大勢が、美味しいです。最近、知りました」
「そうだね。だいたい知らない顔でもないんだし」
同じく食卓を囲むのは紅葉に、りる。
どちらも正義が荷物持ちとして同道していた時に買い叩かれた女性。もっとも、二人とも特に悪感情は抱いていないようだ。
というか、交渉には携わっていないのだから、彼女達の認識では「なんかよく分からないけど付いてきてた人」なのかもしれない。
「それとも。ウ……マサ坊さんは。弥太郎さんと、二人きりが、いいの、ですか?」
「おう、りる。ツッコミどころが多すぎるんだが」
まず神の娘の視線は正義の胸元に向いている。
あと、なんでマサ坊呼び?
更には怪しい関係を邪推するのもやめてほしい。
つまり何から何まで間違っていて、弥太郎は僅かに顔を顰める。
「つーか、村ではこいつと普通に話してたよな?」
「ですが、そこでも。ずっと。マサ坊と、呼んで、いました」
「あ……すまん、紹介し忘れてたの俺だわ」
そういえば、コオイムシの一件で正義を名乗らせた記憶がない。
東京に戻ってからも顔は合わせているが、その時もあいさつ程度。家に招くのだって、りるが来てからは初めて。
よくよく考えてみると、彼女は“マサ坊”以外の呼び名を知らなかったらしい。
「そんじゃ改めて、こいつは正義。横丁近くのボロアパートに住んで、日雇いで食いつないでる無職だ。つっても飲んだくれのダメ人間とかじゃねえし、基本穏やかで誠実なヤツだから怖がらなくていいぞ」
「飲んだくれのダメ人間はあんただろ?」
「うん、紅葉はホント辛辣だな、おい」
途中で紅葉から余計な茶々を入れられつつも、今更ながら正義について紹介する。
弥太郎よりも幾らか年下の青年。
無職というと印象は悪いし、多少ぶっきらぼうのきらいはあるが、彼は基本真面目で誠実な人物だ。
村でも問題なく接していたし、上手くはやれるだろう。
「では、正義さんと、お呼びしても?」
「ああ、それで構わない。普通に会話しているのに今更という気もするが、よろしく」
「こちら、こそ」
見た目の幼いりるに対してもしっかり頭を下げる辺り、正義の律儀さが見て取れる。
まあ挨拶はここまで。「せっかくのりるの手料理だ、さっさと食おうぜ」と家主が促し、ようやくの昼食になる
「お、うまい。ちゃんと出来てるぜ」
そうめんを一すすり、弥太郎は感心したように小さく頷く。
手作りのつゆは辛すぎず甘すぎず。濃さもちょうど、そうめん自体の茹で加減も問題なし。
椎茸の甘煮も悪くない。多少ネギの切り方が荒いことを除けば、中々の出来だ。
「うん、茹ですぎてないし、つゆも美味しい。りるは覚えが早いね」
「紅葉さんの、指導の、賜物です」
「あはは、あたしは別に大したことはしてないよ」
指導役の紅葉からお墨付きを得て、りるはいつもの静かな表情にほんの僅かな照れを浮かべた。
実際世辞ではなく、ちゃんと美味い。食い意地の張った弥太郎などは、何度も何度も箸を伸ばしている。
「……りるの作った料理、か」
「マサ坊、別に虫は入ってないからな?」
「あ、いや、そういうつもりでは」
唯一手が出ていなかった正義も、横から弥太郎が一言いった後は素直に食べ始めた。
どうやら村での「虫、おいしい」発言が尾を引いていたようで、少し警戒していたらしい。
しかし一度口にすれば味の良さも分かり、「確かに美味い」と後は遠慮なくご馳走になる。普段の食生活が良くないこともあり、勢いは他よりも上だ。
四人でそこそこに雑談をしつつ、そうめんを啜る。
女衒と無職に買われた女。そのくせ和やかな奇妙な食卓を見詰めたまま、りるがふわりと呟く。
「おいしい、です」
「はは。自分で作ったんだ、味もひとしおだろ?」
「いえ……」
そうではなく、と。
濁した先の言葉を弥太郎はなんとなく察する。
けれど聞きはしなかった。
“屋敷で食べていた食事よりも、買われた先での方が美味しいと感じる”。そう言わせるのは、コオイムシの屋敷に価値がなかったと断ずるようで気が引けた。
「慣れてくるとな。今度は誰かが作った料理を美味しく思うようになるぜ」
「そういう、もの、ですか?」
「ああ。俺なんて一人やもめが長いからな。人の作ってくれたメシは、そりゃあ染みるってなもんさ」
だから男の情けなさを曝け出し、大げさな身振り手振りでおどけてみせる。
人との接し方に不慣れなだけで、元々りるは聡い娘だ。弥太郎のそういう気遣いをちゃんと理解し、小さく微笑む。
「私の、ものでも、染みますか?」
「おう、勿論。引き出し増やして、いろいろ作ってくれや」
「頷いちゃダメだよ、りる。この男は調子いいこと言って家事を押し付けようとしてるだけだから」
「いやいや、そんなことは……ない、よ?」
紅葉の指摘に、まるで焦ったかのように目を泳がせる。
まあ、こんなところか。
こちらは意図を読んだ訳でもないだろうが、後から乗ってくれたおかげで笑い話として締めることができた。
弥太郎は馬鹿を演じながら、楽しそうにしているりるをちらりと見た。
対人経験が少ないのに、内心は察せる聡い娘。
割に相手を気遣えず、変なポカもやらかす。
ちぐはぐなその在り方は、たぶん『見えている』ことに慣れ過ぎたせいだろう。
視覚として心の動きを捉えるが、実際の応対は経験が少ないので上手くできない、といったところか。
この辺りの人との接し方には、劇的な改善策などない。りる自身が、今後の暮らしの中で学んでいかなければならないことだ。
「ごめんくださぁい」
なんて考えていると、玄関で野太い男の声が聞こえた。
弥太郎はりるから視線を切って、最後に二啜りそうめんを胃に詰め込んでから、のっそりと立ち上がる。面倒臭いが、来客の応対は家主たる彼の役目だ。
はいはい、なんて言いながら向かった先。玄関には所狭しと脂肪を付けたスーツ姿の男性が待っていた。
「ありゃ? 高井戸さんじゃねえですか」
来客は、一応のこと、見慣れた相手ではあった。
年齢四十くらいの、戦後の日本ですらブクブクに太れるくらい裕福な男。
青線に出入りするくらい娼婦遊びの好きな御仁で、弥太郎にとってはそれなりに付き合いの長い上客の一人だ。
女衒は主に性風俗業者相手の仲介業。
しかし弥太郎は娼婦見習いを一人か二人は家に住まわせていることが多く、そういう女は個人の客に宛がう。
その時、一番の候補に上がるのが高井戸という男である。
金払いがよく、ねちっこいが乱暴はしない。まだ売春に慣れていない見習いには丁度いいお客だった。
「いやぁ、どうも、弥太郎君」
「どうしたんです、今日は? ウチまで来るのは初めてでしょう」
「そういえば、そうだったぁかなぁ。いつもはナカゴ屋さんで、取り次いでもらってるからねぇ」
粘ついている、とでもいうのか。
微妙に間延びした喋り方だが、金を持ってる割に上から目線ではないので、仕事相手としてはむしろ接しやすい。
同時に、高井戸は娼婦を抱いても買った一晩心地よく過ごせば後には引き摺らない、“弁えた”お人でもある。
これまでも仕事上の付き合いはあれど、弥太郎の私的な領域までは踏み込もうとせず、こうやって直接訪ねてくるのも今回が初めてのことだ。
「立ち話もなんですしどうぞ中へ、って言いたいんですけど。今は昼飯中でして、ちょいとお待ちを。今、片付けますんで」
「あぁ、妙な時間に来て悪かったねぇ。後、済まないが、話し合いの場には紅葉も呼んでほしいんだぁ」
「紅葉ですかい?」
お相手はこれからも長く付き合いたい上客。
とりあえずは笑顔のまま奥へ引っ込み、今を急ぎで片付ける。ちょうど食べ終わる頃合い、正義もいたので食器をどかすのは早かった。帰る時機を逃してしまったのは、は申し訳ないが勘弁願いたい。
「紅葉、高井戸さんからご指名だ」
「え、今からかい?」
今から、という返しが出るのは既に幾度も彼の相手をしているから。
弥太郎曰く、『手慣れた、恰幅も金払いもいい旦那』。
紅葉からすれば『ぶくぶくに太った、娼婦遊びが趣味の金持ち』。
高井戸は紅葉の初めての客で、その後も度々抱かれているものだから、また一晩を共に過ごしたいという話だと思ったのだろう。
「いやぁ、どういう内容かは俺も聞いてないんだが、とにかくお前さんも交えて話したいってよ」
しかし今回は、どうも“ご指名”とは違うような。
正直よく分からないが、取り敢えず言われるまま、紅葉のみ居間に残して高井戸を案内する。
りるがとてとてお茶を出してくれて、さて、これで話し合いの準備も整った。
「やぁ、紅葉」
「どうも、高井戸さん。こんにちは」
言葉遣いはともかく、しっかりと頭を下げる。
娼婦としての振る舞いも染みてきたとは思っていたが、ちゃんと表情も笑顔を作れているし、実際に振る舞いをこの目で見られて少なからず安心した。
もっとも今は褒めてやるような状況でなし、お客の方に集中する。
「済まないねぇ、急に訪ねて」
「いやいや。んで、今日はどういったご用件で?」
「うん、それなんだがぁ……まず、確認しておきたい。紅葉は、弥太郎君の下で勉強中の娼婦見習い。そこに間違いは、ないかなぁ?」
ちらり目配せを向けられ、少し戸惑いつつも紅葉はこくりと頷く。
なら安心だと、高井戸は破顔した。もっとも、頬に着いた脂肪のせいで、“にたり”といった表現の似合う笑顔だが。
「では、私に売る気はないか?」
けれどその分だけ心情がよく表れていて。
次いで口にした一言は、違和感を覚える程にはっきりと聞こえた。
「そりゃあ、どういう」
「だから、いずれは業者に売るんだろう。なら私が代わりに身請け……こういう場合も、身請けというのか? ともかく、私が直接彼女を買いたい、という話だ。もちろん、相応の金は詰もうじゃないかぁ」
高井戸は結構な金持ち、女を選べるだけの経済力がある。
だが、見目麗しい娼婦などいくらでもいるだろうに、わざわざ顔の半面が火傷で爛れた女を求めた。
それも大金を積んででも、である。
別にそれ自体は不思議ではなく、弥太郎は大して驚きもしない。
蓼食う虫も好き好き。美人に惹かれる奴もいりゃ、味のある面立ちが好みとおっしゃるお客だっているだろう。
ただ隣にいる紅葉には、自分を身請けしたいという男なんて、予想外過ぎたようで。
横目で見ただけでわかるくらい、彼女は思い切り狼狽していた。
花に惑いて虫を食い『夏盛り紅娘』
カゲロウ慕情・5
ラストシーンを若干修正しました。