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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ
17/37

【カゲロウ慕情】・5(了)




 今も時折、私は考える。

 遠い昔。一年にも満たぬあの奇妙な同居生活は、結局何だったのかと。

 もう子供とは呼べなくなり、人気の娼婦と持て囃されて。

 そうなった今も時折、ふとした瞬間に思い出しては、どうにもならないことを考えてしまう。

 

 心苦しく心地良い、曖昧な二人の暮らしは、きっと曖昧だったから成り立っていた。

 なにかをはっきりとさせてしまえば破綻する。

 ……馬鹿な子供だった私は、そうとは気付かぬまま。

 おそらくは楽しかったと感じていたであろう時間が、触れるだけで壊れてしまうくらい脆いものだと知らずにいた。

 ならば、もしもの話だ。



 ───もしも人間にも、明確な変化の時期というものがあるとして。



 それから目を逸らし続けていたなら。

 あの時、“花”という名前を聞かなかったとしたら。

 歪な二人の毎日をもっと長く続けられて。

 ……或いは、違った結末もあったのだろうか。


 時折考えては、分からないと切って捨てる意味のない疑問。


 ねえ、もしも聞いたなら。

 あなたは答えてくれますか?




 ◆




 イモムシはサナギを経てチョウとなる。

 明確な変化の時期というものが、目に見える形で分かり易く存在している。

 けれど人間はそうもいかない。

 不完全変態の昆虫が脱皮を繰り返し少しずつ成虫へと為るように、日々の積み重ねに在り方を変えていく。


「こう?」

「しっかり洗わないと臭いがとれねえぞ」

「わかった」


 紗子も、そうだった。

 ある日から彼女は雑用を申し付けられなくても、積極的に弥太郎を手伝い始めた。

 特に覚えたがったのは炊事。米の炊き方から汁物、主菜。とにかく一通り覚えようと、毎度毎度と台所に顔を出す。

 今日は米研ぎから。

 無駄に食い意地の張った男だけに、腰を据えてしっかりと教える。

 米粒を洗う紗子の横顔は、単なる思い付きとは思えない程に真剣だ。


「紗子さん? 相変わらずしっかり働いてくれているよ。うちの娼婦ともよく話すようになった」


 なんぞ、あったのか。

 藤吉に様子を聞いてみたが、どうやら仕事中も同じようなものらしい。

 娼婦の使った衣服類の片付けや洗濯、布団の手入れは当たり前。行為の場となる一軒家で掃除に励み、娼婦方ともうまくやっているようだ。


「おいおい、どうしたんだその恰好」

「へへ、藤吉さんとこでもらったんだ」

「ほう、中々似合うじゃないか」

「ほんと?」


 その辺りは、娼婦からお下がりの着物を貰ってきたことからも分かる。

 汚れた上着にズボンを脱ぎ捨てて、綺麗に着飾った姿は、元々顔立ちが悪くないこともあって案外と人目を惹く。


「おっ、とと」

「着物の時はもう少し落ち着いてな?」


 もっとも盗みで生計を立てていた身。

 振る舞いは淑やかとは程遠く、転びそうになって、誤魔化すように舌を出す。

 そういう所は以前のままで、けれど紗子は少しずつ変わっていく。


「な、なあ、弥太郎さん。どう、味は?」

「ん、いける。腕上げたぁ」

「だろ!」


 季節を流れ、春に花咲き。

 見様見真似のみそ汁も、今ではしっかり美味しい。

『私を嵌めやがって、死んじまえ』とまで言っていた彼女は、“あんた”と呼ばなくなり、手料理だって振る舞うようになった。

 それだけ今の生活にもなれたのか。

 弥太郎さん、と気安い調子で声をかけてくる。


「んー」

「どうしたの? 弥太郎さん」

「いや、正直な。これまでの小間使いで、十分借金分は働いてる思うんだよなぁ。なあ、紗子。なんならこのまま自由にしてもいいぞ?」

「やだ。それ借金がなくなっただけで、今後の生活費稼げないじゃん。ここの生活に慣れたら、もう野良犬暮らしには戻れないって」


 季節は流れ、騒がしい夏。べったりと重い青の空。

 自由にしてもいい、そう提案したこともあった。

 ただ生活費を稼ぐ術がないからと彼女自身が拒否してしまった。

 事実、盗みを働くよりは今が楽というのも分かる。ここの奇妙な共同生活を、紗子は随分と気に入ったようだ。


「それにさ、目標みたいなものが出来たから」

「目標?」

「そ。あっと、勿論弥太郎さんのとこから逃げ出そうって話じゃないから安心して。ただ、今のまま、なりたいものが出来たっていうか。その為に頑張ってんの」


 なりたいものが出来たと。

 弥太郎の手伝いも藤吉のところでの雑事も、手を抜かないのはその為の努力だという。

 の割に逃げ出すつもりもない。

 紗子の物言いは、なんだか難解になった。いや、単純に彼女は変わったのだ。

 それを少女の成長と呼ぶのか、現状への適応と表現するべきか。或いはもっと似合いの言葉があるのかは、よく分からなかった。


「ねえ、弥太郎さん」


“なあ”ではなく“ねえ”と。

 いつからそうなったかは思い出せない。

 きっと紗子の方には心変わりを起こす『なにか』があったのだろう。

 けれど生憎、人はサナギを作らないもので。

 重ねた日々。彼女が変わる瞬間を、たぶん弥太郎は見逃していた。


「私、いい娼婦になれるかな?」


 時折、ふと紗子はそんなことを聞く。

 季節は流れ、風にくるりと枯れ葉も舞い。

 彼女との暮らしは、そろそろ一年になろうとしていた。




 ◆




 いつからだったろう。

 私は、いい娼婦になれるかな? そう何度も聞くようになった。

 それが誰を意識してのものなのかなんて、わざわざ言うまでもない。


『花、について?』


 まだ、彼に甘やかされて、こき使われていた頃。

 少し気になって、藤吉さんに聞いたことがある。

“花”って、誰ですか?


『弥太郎さんが、初めて売り飛ばした女だよ』

『体を病んでいてね。余命の短い娘だった』

『だから、彼は売る時に言ったんだ。買ってもすぐ死ぬから、処理には困らないだろうってね』

『最後に彼女は、恨みつらみを弥太郎さんにぶつけて去ったたらしいが』


 教えてもらえたのは表面だけ。

 それでも、私の胸には逢ったこともない女性の名前が刻まれた。

 付き合いの長い藤吉さんが、表面しか語らない。それだけで、その女性が弥太郎さんにとって触れ難いものだと分かってしまう。

 だから直接聞こうとはしなかった。

 代わりに、私にできることをしようと決めた。


 つまり、負けん気が強すぎたのだと思う。


 なりたいものが出来た。

 だから少しずつ変わっていきかった。

 あの頃の私は、それが正しいと信じて疑わなかった。


 でも、少しずつ、何かがズレていった。


 弱くて脆い、簡単に破綻してしまう歪な二人を。

 そうと気付かぬまま明確にしようとした。


 ……曖昧なままでいれば、もっと長く続けられただろうに。




 ◆




 カゲロウの成虫は口が退化していて、栄養を摂取することができない。

 羽化しても僅か数時間で寿命を迎えてしまう。

 故に、その姿は美しい。


 透き通った翅を広げ、淡く風に揺れ、空に滲む玉響の命。


 散る花に風情を覚え、落日の景色が心を打つように。

 人は失われるものにこそ価値を見出す。

 つまり触れれば壊れる弱さ、瞬きに消える儚さこそ、カゲロウの美しさの本質だ。


 であれば、人の想いもそういうものだろう。


 長く続く親愛よりも、刹那の慕情の方が鮮烈で。

 だからきっと、一夜のうちに失われる想いは、胸に残り続けてしまう。

 







「弥太郎さん、どうかした?」

「ん、いや。紗子、少し大きくなったか?」

「どうだろ。ちょっと身長伸びたかな……」


 何気ない遣り取りは、随分和やかになって。

 それに少しくすぐったさを覚えて、弥太郎は小さく身じろぎした。

 

 冬を過ぎて、春に染まり。

 夏に溺れては、訪れた秋を憂う。

 巡る季節に変わる幾つかのもの。

 花も景色も街並みも。

 そしていつかの少女もまた。


 作る食事は美味しくなった。

 誰とでもうまくお喋りができる。

 着飾れば、人目を惹くくらいに綺麗で。

 振る舞いもいつの間にやら淑やかに。


 サナギを作るのではなく、薄衣を脱ぎ捨てるように紗子は少しずつ在り様を変えていく。

 変わらなかったことと言えば、なんでも出来るようになっても、弥太郎の下を逃げ出そうとはしなかった。


 思えば、もう一年近く。

 随分と長い付き合いになってしまった。ここまで一緒に暮らしたのだから、そこそこに情も沸く。

 この少し歪な生活が楽しくなかったと言えば嘘になる。

 心地良さに甘えて、ちょいと引き摺り過ぎてしまった。弥太郎は今更ながらにそう思った。

 多分、彼女の方も、同じように感じていたのだ。







 そして、二人は、終わりへ向かう。


「……ねえ、弥太郎さん。初めの頃の約束覚えてる?」


 切り出したのは紗子の方から。

 近付く季節に少し空は遠くなった。

 再び訪れようとする冬を前にした、青白い夜のこと。彼女はどこか恐る恐る、弥太郎に問いかける。


「私が納得するまでは、小間使いでも、っていうの」

「そりゃ、覚えてるさ」


 借金を返す為に働け。 

 娼婦が嫌? なら小間使いでもしろ

 そもそも、そういう約束で彼女はここにいた。


「なら……いままで、何度も聞いたけど」


 紗子は柔らかな微笑みを落とし。

 祈るように、縋るように、問い掛ける。


「私、いい娼婦になれる?」


 ───もしも人間にも、明確な変化の時期というものがあるとして。


 それが誰しもに訪れるものだというのなら。

 サナギのような目に見える形ではないが、この瞬間こそが、紗子にとってそういうものだったのだろう。

 優しく垂れ下がるまなじり。纏う柔らかな雰囲気とは裏腹に、瞳の奥には固い決意が宿っている。


「ああ、勿論だ。お前さんならなれるよ」


 だから誤魔化してはいけないのだと。

 弥太郎は何気ない口調で、しかし濁りのない本心を伝えた。

 それが正しいのだと思った。


「……そっか」


 人の目では心に宿る虫の姿を見ることは叶わず。

 その言葉に何を思ったのかは分からない。

 ただ、いつか、知らない男に抱かれるのを嫌がった少女は。


「なら、私、娼婦になろうと思うんだ」


 驚くほど容易くそう言った。

 以前、なりたいものが出来たと語っていた。

 止める理由を弥太郎は持っていなかった。


「ん、なら手筈を整えるが」

「うん、お願い。私、どっか遠いところに売られる?」 

「いやいや。働くなら藤吉さんのとこに預けるさ。ちゃんと給金を貰えるようにしてな」

「ならよかった」


 借金といっても百円程度、今迄の雑用で十分元は取れている。

 だから娼婦になるのは、これからの生計を立てる為の手段でしかない。

 他の仕事もあるだろうに。

 そんなこと紗子自身分かっている。分かっていて、そういう道を選んだ。


「ちなみに、私の初めのお客さんになる気はない?」

「勘弁してくれ。俺ぁ、商品には手を付けない主義なんだ」

「ちぇ、残念」


 冗談のようなお誘いに、茶化すような返答。

 一緒に暮らして情もあったが、惚れた腫れたの話ではない。

 きっとお互い本気ではなかった。だから冗談は冗談のままに終わる。


「ありがとうね、弥太郎さん。私、あなたに逢えてよかったって、心から思う」


 けれどしばらくの後、脈絡もなく少女が口にしたのは、きっと本音に近いところの言葉。

 そうと分かるくらいに彼女の声は優しい。


「お父さんもお母さんも空襲で死んで。生きる為に盗みまでして。そういう生活してたから、弥太郎さんに甘やかされたのが、結構嬉しかったんだ」

「甘やかした覚えなんて、ないがなぁ」

「私にはあるの」


 いつの間にか口調も変わっちまったな。

 弥太郎は会話しながら関係ないことを考える。それが嬉しいのか寂しいのか、よく分からない。

 ただ無遠慮に居座る沈黙の野郎は、事の他に腰が重くて。

 いつまでたっても空気は軽くなる気配を見せない。


「ああ、そうだ。最後にもう一つだけ、聞きたいな」


 なのに、彼女だけが軽やかに、最後の言葉を。




 * * *




”私、いい娼婦になれる?”

”ああ、勿論だ。お前さんならなれるよ”


 ああ、やっぱり駄目だったか。

 落胆はしたけれど、そうなると分かっていたから、涙は零れなかった。

 いい娼婦になれる?

 返す答えによっては、身の振り方を変えるつもりだった。

 でも彼が「なれる」太鼓判を押してくれた。だったら頑張ってみようと思う。

 ……ちょっとだけ、残念だなって気持ちは、やっぱりあるけれど。


「ありがとうね、弥太郎さん。私、あなたに逢えてよかったって、心から思う」


 盗みに失敗して助けられて、借金で縛られて攫われた。

 運命の出会いというには少し締まらないけれど。

 逢えてよかったと。その言葉に、込めた心に嘘はない。


 がめつくて、食い意地の張ったクズに、私は救われた。

 

 変わろうと色々と努力したのは結局それが理由だ。

 救われたから。いい娼婦になれると褒めてくれたから。

 彼の目に狂いはなかったと証明したかった。

 そんなことを考えてしまうくらい、私は彼が。……まあ、そういうこと、だったのだ。


「ああ、そうだ。最後にもう一つだけ、聞きたいな」


 だから最後に、一つだけ聞きたい。

 弱くて脆い日々は壊れてしまった。

 それでも、二人には、ちゃんと意味があったのか。

 もう戻れないと知っているから、せめて、彼に伝えたい。


「私は、あなたの───」




 * * *




 案外、亜成虫だったのかもしれない。

 紗子にとって、弥太郎の下での暮らしは。


 曖昧だから成り立つ、弱くて脆い二人の生活は。

 しかし少女が水から空へ、子供から大人へとなる為に、必要なものだった。

 だって、ほら。

 彼女はまるでカゲロウのように、儚くも美しい微笑みを滲ませている。




「私は、あなたの氷になれましたか?」




 ……つまり、気付くのが少しばかり遅かったのだろう。

 少しずつ変わっていく姿に目を囚われて、肝心なところを見逃していた。


 弥太郎自身の言葉だ。

 心地よさに濡れて溶けても、朝になれば消えてしまう一夜の涼。

 いい娼婦というのは、熱帯夜の氷だと。


 紗子は、そう在ろうとした。

 この奇妙な共同生活が、二人重ねた日々が。

 いずれ失われるとも、あなたにとって、ひと時の慰みであるように。


 少女は、本当はそうなりたかったのだと言った。







 それから先の話は語るまでもない。

 女衒に売られた紗子は、後のナカゴ屋へ身を寄せる。

 そして熱帯夜の氷の如く男達を癒す、池袋でも人気の娼婦としてその名を馳せることになる。


 以後も弥太郎と紗子は、それなりにいい関係を維持していく。

 かつてと同じように。

 色々なものを、曖昧に誤魔化したまま。 







 ◆







 そういう少女の時を過ぎ、七年が経ち。

 昭和三十年、池袋は花座横丁。

 小さな娼館『ナカゴ屋』には、紗子という人気の娼婦がいるらしい。


 語り終えた紗子は、ほぅ、と緩やかに息を吐いた。

 懐かしさに目を細め、緩やかに微笑む。

 本当に大切だと。纏う空気だけで、遠い日々を、奇妙な共同生活を今も大切に想っているのだと分かる。


「別に、男女の関係はありませんでした。普通に女衒と売られた女、ただそれだけ。期待はずれだったでしょうか」


 昔は一緒に暮らしていた。

 彼が『いい娼婦になれる』と褒めてくれた。

 だったらなろうと、そう決めた。

 弥太郎と紗子の過去は、たったそれだけ。

 男女の関係はなく、そもそも惚れた腫れたの艶っぽい話もなかった。


「そんなことはないけど。ただ、なんか、分かり難いというか」

「そうですか? 単純な話だと思いますが」


 さらりと言ってくれるが、紅葉の印象からすれば、“単純な”で済ませられるものではない。

 というよりも理解し難い部分が多い。

 当然だろう。紗子は最後まで、自身の心を明かそうとはしなかった。

 それは今の語りだけでなく、かつての弥太郎に対しても、である。


「あの、さ。好きだったの、あいつのこと?」

「もちろん好きですよ。男女の、という意味でなら違いますが」


 驚くくらい、あっさりとした否定。

 でも、と。静かに目を伏せる。

 纏う透明な色。麗しい娼婦に、いつかの少女の面影か重なったような。


「でも私は、氷になりたかったのです」


 紗子は、本当に単純な話なのだと、実に軽い調子で言う。

“花”が弥太郎にとってどういう存在だったのかは分からない。

 聞きもしなかった。だって特別な相手なのは間違いなく、踏み込んで傷付くのも、傷付けてしまうのも怖かった。

 だから、彼女は氷になりたかった。


「あの人が、寝苦しい夜を、安らかに過ごせるように。傍らで、一夜の涼となりたかった」


 きっと誰もが辛い現実を抱えているから。

 せめて夜を安らかに眠れるよう、ひと時の慰みを与えられる女で在りたかった。

 そして、出来るのなら。

 傍らで寝息を立てる誰かが、彼であってほしかった。

 結局、上手くはいかなかったけれど。

 かつて紗子は、確かにそう願っていた。


「不思議ですね。恋とは程遠く、間違っても愛してなんかいなかった。けれど感謝や情、馬鹿な言い争いとか、戯れも。色々なものを積み重ねてきたから。誰よりも近く、傍に居たかった」

「それって結局好きなんじゃ……男女の意味で」

「違いますよ。……あの遠い夜。話の流れでは、そうなってもいいとは、考えていましたけど」


 例えば、娼婦になると言った時。

 引き留めてくれたなら、彼の為に生きてもいいと思うくらいには好いていた。

 しかしそうはならず。

 そのまま娼婦になったが、別段罪悪感はなく今の生活も結構気に入っている。

 そんなさっぱりとした感情は、恋だの愛だのと呼べるもんじゃない。


 だから、たぶん。

 遠い夜、彼に傾けた熱は、カゲロウだったのだろう

 まるで儚く美しい虫のように、生まれては一夜のうちに消えていく慕情。

 そういう想いも、きっとあるのだ。


「昔の話です。ただ時折考えたりもします。できればもう少し、バカな子供のまま弥太郎さんの下で暮らしていたかった、なんて」

「やっぱり、分かり難いよ。あんた。……あれ? もしかして、あたしに当たりが強い理由って」

「そんなの決まっているでしょう? 腹立つじゃないですか、かつての私が望んでいた場所に居座っておきながら、態度の悪い女性とか」


 こいつ、ぶっちゃけやがった。

 しんみりとした雰囲気を吹き飛ばされて、紅葉はあんぐりと大口を開ける。


「え、なに? じゃあもしかしないでも、八つ当たりでお小言もらってたの?」

「まあ、有り体に言えば。ちなみに今後も態度を改める気はないので」


 しれっとそんなことまで付け加える始末。

 本当に、性格悪い。長々と昔話を聞いたが、最初に抱いた印象は間違いでないと確信する。

 

「だいたいですね、私が監視役に選ばれた理由、分かっていますか?」

「そりゃあ、あんたを信頼してるからじゃ」

「そこは、そうなのかもしれませんが」


 少しだけ嬉しそうに口元を緩ませ、しかしすぐに不満げな顔。


「大方は貴女の為ですよ。一人前になった暁にはナカゴ屋へ売るつもりなのでしょう。その前に先輩になる娼婦と面識を作っておきたかった、というところだと思います」


 尖らせた口に、紗子の内心が思い切りぶら下がっている。

 ズルい、そんなに気を遣ってもらって。

 自分の時はそこまでやっては貰えなかった。

 そこは単に弥太郎の手際が昔より良くなっただけ。分かってはいるが、甘やかされてズルいと思う。

 もちろん、そんなもの紅葉にはどうしようもないのだが。


「今迄の、全部嫉妬とか……」

「別に嫉妬ではありませんよ?」

「いや、うん。もうさ、端的に聞くけど」


 嫉妬じゃないとか、否定するにしても無理があるだろう。

 ついでにこの際、氷とか一夜の涼とか抒情的なものではなく、もっと簡単な言葉ではっきりと聞きたかった。


「じゃあ、紗子さんは。“今は”あいつをどう想ってるの?」

「そんなの、決まっているじゃないですか」


 紗子は今迄の滲むような微笑ではなく、朗らかに表情を綻ばせて。


「私は……」




 ◆




 今になって思う。

 あの奇妙な共同生活は、触れれば壊れてしまうくらい、弱く脆かったけれど。

 それでも紗子が子供から大人へと成長する為に必要だった、惑いの時期なのだろうと。


 誰もがサナギように明確な変化の時期を迎えられる訳ではない。

 幼虫から亜成虫、成虫へと。

 重ねた日々に少しずつ変わり、いつかは空へ辿り着く。

 そういうことも、きっとある。

 

 だから弥太郎からすると、特に悔やむような過去ではない。

 一緒に居て、距離が近すぎたから、些細な変化を見逃してしまった。

 しかし大きくなり、翅を広げた彼女の美しさは知っている。

 それでいいのだろうと、今になって。……今なら、素直に思える。


「弥太郎さんは、紗子さんを、どう想って、いたのですか?」


 同じように古い話を終えて、りるも同じような問いをぶつける。

 弥太郎は、紗子をどう思っていたのか。

 一番気になるのは、やはりそこだ。

 しかし何度も繰り返すが二人に男女の関係はなかった。

 だいたいからして、情のある遣り取りなんて、遠い夜の一度のみ。

 彼女が大人になった今も普通の友人関係。偶にからかうような戯れがあるくらいで、惚れた腫れたの艶っぽい話は一切出て来ない。


「まあ、なんだろな。憎からずは、想っていたんじゃないかな、たぶん」

「たぶん?」

「だって、ずいぶん昔のことだぜ?」


 あの頃の想いを取り出すには、ちょいとばかり時間が経ち過ぎている。

 だけど、まあ。


『あなたの氷になれましたか?』


 いつかの少女の願いに、込められた想いがなかったと切って捨てるのは卑怯だし。

 それを受けて何も思わなかったと言ってしまうのは、かつての紗子と、かつての自分に申し訳ない気もする。

 だから弥太郎に言えるのは、結局この程度。


「……結局な。カゲロウだったんだと思うぜ、お互いに」


 神の娘は語った、紗子はカゲロウだと。 

 つまりは、それが全てだ。


「紗子の胸には、カゲロウがいるんだろ?」

「は、い」

「なら、そういうこった。男女のそれかはともかく、お互い特別な想いはあったのかもな。けど出会いから何から歪だったもんで、そもそも長続きするようなもんじゃない」


 子供の勘違いという気はないけれど。

 救われた感謝とか、同居して湧いた情とか。恋慕には程遠い親しみがいくつもあった。

 そういうのが終わりの際にちょいと盛り上がって、それでおしまい。


「羽化しても数時間には死んじまう。俺達が向け合ってたのは、そういうカゲロウの慕情だよ」


 弥太郎自身がそうなのだから、実際はそんなもんだろう。

 かつての想いなんて、とうに何処かへ行ってしまった。

 きっと紗子の胸にも、カゲロウの死骸がちらほらと見えているに違いなかった。


「じゃあ、今は」

「いい友人だよ。俺も、あいつもな」


 掛け値のない本音だ。

 軽い冗談を交わすような距離感。

 それが互いに心地よく、男と女になれば失われると知っている。だから二人のことは何処まで行っても冗談に過ぎない。

 そんな関係が弥太郎は気に入っていた。


「カゲロウは、カゲロウでは、ありません、よ?」


 けれど何故か、りるはきょとんとしてそう言った。




 さて、ここでカゲロウについて少し触れる。

 カゲロウは、カゲロウ目の昆虫の総称で、不完全変態の中でも『亜成虫』という形態をとる珍しい昆虫である。

 有名な特性はやはりその寿命。

 カゲロウの成虫は口が退化していて、栄養を摂取することが出来ず、僅か数時間で死を迎える。

 この点と、うっすらとした翅の優美さが合わさって、カゲロウは儚さの代名詞となっている。


 ただし、勘違いしている人は多いが、ウスバカゲロウは別である。


 ウスバカゲロウは、実はアミメカゲロウ目に属する別種の昆虫で、カゲロウと系統的には大きく異なる。

 成長過程は完全変態であり、ちゃんとサナギも作る。

 なにより寿命が長く、三週間ほど生きる個体もいるのだ。

 ただ名前が同じで、容貌も似ているものだから、一見して間違える人も出てくる。


 それがカゲロウに見えても、数時間で死ぬほどに儚いかは、知識がないと判別するのは難しい。

 短命だと思っていたものが、実は長生きするということだってある。

 もっとも、だからどうということもない。

 単に虫の話をしただけ。カゲロウの慕情の真実とは、まったくもって関係ない。

 

 ……紗子の胸に、虫がいたとして。

 それが彼女の想いの象徴なのだとして。

 一夜に消えるカゲロウなのか。

 或いは、長生きするウスバカゲロウなのかは、神の娘以外に知る者もなく。


「ん? そりゃ、どういうこった」


 意味が分からず、弥太郎は眉を顰める。

 りるの言葉は省きすぎて理解し難く、そうでなくても彼はカゲロウとウスバカゲロウの違いなど知らないのだから、過不足なく聞いたところで結果は同じ。 

 まったくもって、なにを言っているのか分からない。

 答えを求めてじっと見つめたが、返ってきたのは予想外のものだ。


「ひみつ、です」


 りるは人差し指を唇の前で立てて。

 教えてあげない、と。

 悪戯っぽく、なにやら意味ありげに微笑んでいる。

 弥太郎はその仕草に小さく肩を竦める。

 ……ああ、そういやこれ、俺が言ったんじゃねえか。


「あー、早速実践してくれてるようで、なんとも教え甲斐のあるこった」


“なんでもかんでも喋っちまうのはよろしくない。女の秘密を男に伝えるなんて、もっての外だよ”

“大切な想いの中には、本人が言わなきゃ意味のないものもあって。そいつは不用意に喋っちゃいけないってだけの話だ”


 どちらも、ついさっき弥太郎が教えた言葉だ。

 それを律儀に守って、りるは紗子の大切な想いをちゃんと隠していらっしゃる。

 素直で大変よろしいことではあるのだが、もう少し融通利かせてくれよと思わないでもない。

 だが、りるはなんか物凄く自慢げ、自信満々な顔をしている。というか「褒めて褒めて」とでも言いたげで、非常にツッコミし辛かった


「……ま、いっか。よし、りる。ちゃんと言ったこと覚えてて偉いぞ」

「日々、成長、です」

「ははっ、ご褒美にアイスキャンデー奢ってやるよ」


 だからという訳ではないが、無理に聞き出すのはしない。

 りるの折角の成長を無駄にするし、なにより紗子の想いをこんな形で明確にするのは無粋だ。

 

 僅か一年にも満たない同居生活。

 あれは何だったのかと問われれば、弥太郎も上手い返しは出てこない。

 

 それでも、あの遠い夜に見たカゲロウを美しいと感じたから。

 曖昧なままでいい。

 あやふやで、どっちつかずで。

 だけど優しい、柔らかな思い出として、彼女とのことはとっておきたかった。



 ◆




 長くなった昔話を終えて、弥太郎はりると花座横丁へ出かけた。

 強い夏の日差しに目が眩みそうになるが、ちょうど遠くからチリンチリンとハンドベルの音が聞こえてくる。

 早くにキャンデーの引き売りをやっている自転車と出会えたので助かった。弥太郎らは早速とばかりに購入し、道端で味わう。


「すごい。冷たくて、甘いです」

「はは、アイスも初めてだったか」


 りるの反応に気を良くして弥太郎はからからと笑った。

 初めての時は彼も似たようなものだった。

 最近では手軽に食べられるが、わりばしを刺した円柱状のアイスキャンデーは、戦後の甘みに飢えた時代たいそう持て囃された。

 だからか、あの鈴の音を聞くと今でもちょいとばかり心が躍ってしまう。


「あら、弥太郎さん」

「お、紗子じゃねえか」


 りると二人でアイスキャンデーを食べていると、偶然にも紗子たちに出会う。

 あちらも昔話を終えての帰りだろう。若干気まずそうに紅葉が目を逸らすものだから、結構色々聞いたんだろうなと思わず苦笑する。


「どうだい、お前さんらも食べるか?」

「ありがとうございます。ご馳走になってもいいですか?」

「もちろんさ、今回はちゃんと俺のおごりだよ」


 折角だし彼女らにも涼味のおすそ分けを。

 いつかのうどんの時みたいなことはしねえよ、と口には出さずからかってみれば、紗子は「もう、そんな昔なことを」と柔らかく目を細める。


 ……例えば、あの頃の彼女だったなら、どういう反応をしただろう。

 活発な笑みを見せてくれたか。

 はたまた冗談をうまく受け止められず怒ったか。

 今となってはもう思い出せない。


 それだけ、紗子との日々は昔になってしまって。

 しかし寂しいと思うことはなかった。


「ほれ、紗子。紅葉も」

「頂きますね」

「……ありがと」


 紗子は喜んで、紅葉はぎこちなく、買ったばかりのアイスキャンデーを受け取った。

 暑い夏の日にこの冷たさは堪らない。甘さと涼しさがよく染みてくれる。


「あー。やっぱ、暑い時は余計に美味えな」

「はい。ひんやりとした氷は、心地良いです」


 アイスではなく氷と。 

 何気なく零れた感想には、たぶん言葉面以上の“なにか”が込められている。

 だとしても、取り立てて問うこともない。相変わらず弥太郎は、紗子も、色々なものを曖昧にしたままだ。


「偶にはこういうのも悪くないだろ?」

「ええ、本当に」


 結局、二人は、それでこそよかったのだろう。

 通じ合うだけが想いではないし、傍に居ることが全てでもない。


 ふと見渡せば夏の色。

 出会いの冬は遥かに遠く。

 相変わらず蓼虫の女衒は、花座で管を巻いていて。

 少しぶらつき、小さな娼館『ナカゴ屋』を覗けば、人気の娼婦が笑顔で迎えてくれる。 

 

 そこにはきっと、誰にも理解されない、ほんの少しのくすぐったさがあって。


 なんだかんだ、それでよかった。

 そういう想いも、きっとある。




【カゲロウ慕情】・



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