【カゲロウ慕情】・3
昭和二十年。
大日本帝国はポツダム宣言を受諾し無条件降伏、連合国軍による占領を受け入れた。
初めての植民地支配。
侵略戦争を仕掛け、その上で負けた国だ。焼野原で貧困に喘ごうが、誰に文句を垂れる筋合いもない。
例えお偉い方々が勝手に為したことであれ、太平洋戦争以前は戦勝の景気でいい暮らしをしていたのだから、無関係は通らず。
つまりは日本国民の皆々様は、惨めな負け犬らしく下を向いて暮らせと、何処の何方もが仰られる。
そういう時代にあって、前を向いていたのがヤミ市という場所だ。
腹が減った? なら食い物を売ろうじゃないか。
戦後は食料品を売るのも犯罪? 関係あるか、米軍からの横流し品でもどんどん売ってやらぁ。
断っておくが、彼らの多くは悪人とは程遠く、ごくごく普通の市民だった。
違法な取引も別に後ろ暗い感情の発露ではない。
ただ法を逸脱しなければ、生きるさえままならなかったというだけ。
必要に差し迫られ、ヤミ市では違法な品々が普通に取引されていた。
それを後代の歴史は悪しきと語るだろう。
しかし誰もが俯いていた時代、ヤミ市で管を巻く者達こそが、国民のお腹を満たしてくれたのだ。
……だとしても勘違いをしてはいけない。
どれだけ言葉で飾っても、ヤミ市は非合法のもの。違法行為の横行する場所には、必ず“ならず者”が紛れ込む。
品の良くない荒っぽい。そういう手合いが集まるのだから喧嘩や盗みも日常茶飯事だった。
「はぁ、はぁ……っ!」
そして昭和二十三年。
戦後も三年ほど経ち、少しずつまともな建物の姿も見えてきたが、バラックや掘っ立て小屋も依然として存在する。
まだまだ道も舗装されていない。花座横丁が出来上がる前の池袋は、見事にごちゃごちゃ、混沌とした景観を形成していた。
「待ちやがれ、小僧!」
「誰が、待つかっての……!」
頬に当たる風は冷たいよりも痛い。しかし足は一瞬たりとも止めない。
違法な品々に惹かれ群がる人の群れ。
その間を抜けて走る小さな影が一つ。
所々破けたズボンに、小汚い上着。目深にかぶった帽子のせいで顔は分からないが、いかにも食えていないといった痩せた体。
腕に抱えた食べ物を見るに、どこぞの店で盗みを働いて追われている最中なのだろう。
けれどこのご時世珍しくもない。親が戦死した子供の生活は悲惨だ。おそらくそう言った手合いだと、ほとんどの者は興味を持たなかった。
「ふざ、けやがってっ!」
しかし盗まれた側は別。
せっかくの売り物をまんまと奪われた。例え相手が子供でも、黙って逃がすわけにはいかない。
品物を取り返して、折檻の一つもしなけりゃ気が収まらねえ。
人混みの中での追走は長く続いた。子供の体力では大人に及ばず、代わりに小さな体はするりと人混みを抜けていく。
繰り返すうちに開いていく距離。盗人は出来た余裕に微かな笑みを浮かべた。
よし、これで逃げられる。
自然、足にも力が入り、一気に走り抜けようというところで。
「ぎゃ!?」
通りすがる瞬間、誰かに足を引っかけられて、物の見事にすっ転ぶ。
逃げ切れると気を抜いた矢先、上手く受け身も取れないで地面に突っ伏し、当然後ろからは追っ手が迫っており。
「小僧……どうなるか分かってんだろうな?」
駄目だ、追いつかれた。
外気に晒されて、血の気が引いて、急激に寒気が襲ってくる。
立ち上がれない盗人を見下す男は、ぴくぴくと怒りに表情筋を引きつらせている。
これから何が起こるかは想像するまでもなく。盗みを働いた自分が悪いと知っていても、暴力への恐怖に背筋が凍った。
「おうおう、随分物々しいじゃねえの」
そこに割り込んだのは、他でもない、今さっき足を引っかけてきた通りすがりの人物。
テメエのせいでこうなってんだ、とは勿論言えない。何故かは分からないが、そいつは盗人を背にして立っていた。
「お、おぉ。“蓼虫の弥太”、だったか」
「おや、俺も有名になったもんだな」
騒動にちょっかいをかけてきたのは、蓼虫と揶揄される悪辣の女衒。
弥太郎その人だった。
「すまんな、助かった」
「いやいや。で、こいつ、なにしたんだ?」
「見ての通り、食料泥棒だ。うちの店の食材盗んでいきやがった」
「あらま、このご時世によろしかねえな」
追っ手の言葉に改めて“小僧”を見る。
返ってくる憎々しげな視線。足を引っかけられせいで、転んだせいで。とどのつまりは弥太郎が余計なことをしたからこうなっているのだ。恨み言の一つや二つ湧くのも仕方ない。
ただそれを申し訳ないと思うほど殊勝な性格はしておらず、むしろニヤニヤと楽しそうに見下す。
「そのガキは貰ってくぜ」
「ちなみに、どうするんだ?」
「そりゃ物を取り返して、仕置きの一つや二つは」
「あぁ、そりゃ可哀相だな。殴られ蹴られ、痛ぇだろうなぁ」
わざとらしく肩を震わせておどけてみせる。
多少大げさな振る舞いだが追っ手の方は然程気にせず、しかし小僧はそんな動作でさえ恐怖を煽られるほど追い詰められている。
盗みに失敗して、暴行を受けて。もはや逃げられないと分かっていた。
「んじゃ、俺が払ってやるよ」
だから続く言葉を、両者は全くもって予想していなかった。
「は? なにを……」
「こいつが盗んだもん、俺が買う。そんなら捕まえる理由もなくなるだろ?」
話の流れからも分かるように、弥太郎はそもそも何ら関係ない。
だというのに、身銭を切るから盗みに関して見逃してやってくれと言い出す。
ヤミ市に出入りするような輩がまるでお人好しのような真似。怪訝な目で見られるのもある意味当然だろう。
「そりゃあ、金さえ払ってもらえれば文句はないが」
「決まりだな。いくらだ?」
「あ、あぁ」
応じれば、これまた驚いたことに、本当に全額払ってくれた。
店側としては損失もなくなるので文句はない。何かを言って「やっぱりやめた」となっても困るし、多少怪しげなものを感じながらも、代金は徴収したと渋々と去っていく。
「あんた、なんで……」
取り残されたのは、勝手に盗みの罪をなかったことにされた盗人だ。
自分の足を引っかけた男が、何故代わりに金を払ってくれたのか。
現状をうまく把握し切れず、なんでどうしてと疑問符を浮かべている。
「さて、と。食いモン盗むくらいなら腹は減ってんだろ。うどんでも食いに行かねえか?」
混乱から抜け切れずにいると、弥太郎はそう言ってにやりと笑った。
「おっと。なあ、“お嬢ちゃん”、名前は何て言うんだ?」
びくりと体が震えた。
ズボンに上着、目深にかぶった帽子。
追っ手はずっと小僧と、男だと勘違いしていた。
けれど弥太郎は女衒。女の良し悪しを見るのも仕事のうち。
だからか、僅かな遣り取りの間に盗人が女であると見抜いていた。
「……紗子」
助けてもらった恩がある。
短い逡巡のあと、驚くほど素直に盗人───紗子は名乗った。
それがもう七年も前。
弥太郎が池袋に移り三年ほど経った冬のことである。
◆
……そういう話を、今頃は聞いているのだろう。
昨夜、紗子と約束を取り付けた紅葉は、昼を少し過ぎたくらいにナカゴ屋へ向かった。
幸いにも休みは貰っていた。暇潰しがてらと言い訳をしながら、結局は弥太郎の過去に興味を惹かれたのだ。
勿論その辺りの事情は、弥太郎には話していない。
単に「紗子にお呼ばれしている」とだけ伝えれば、何故か妙に上機嫌で送り出してもらえた。
「さて、午後はどうするかね」
そんなこんなで今日は自宅に弥太郎とりるの二人きり。
まだお初の仕事は何も考えていないし、ナカゴ屋での文書処理は昨日のうちに終わらせてある。
つまり丸一日やることがない。なら出かけて酒の一杯でもひっかけるか、いやいやこの娘を放り出してというのも。さてはてと考えながら居間で茶を啜っていると、りるが真正面にちょこんと座った。
「弥太郎、さん」
「ん?」
「私も、お話が、聞きたいです」
紅葉は遠慮か躊躇か、それとも女衒と娼婦という立場からの引け目か、直接は向かい合えなかった。
しかし、りるにとって弥太郎は自分を虫篭から助けてくれた人。怖くもないし嫌なヤツでもなく、むしろ感謝すらしている。
そういう相手だから、なんの遠慮もなくまっすぐに、あなたのお話が聞きたいと伝えることができた。
「モモタロさんか、ウラシマとかでいいのか?」
「そう、ではなく。あなた、のことが」
「俺の?」
「はい。紅葉さんは、紗子さんのところで。昔の話を、聞いて、います。ですから、私は、本人にと」
その上、非常に素直だった。
まっすぐ過ぎて頭が痛くなるほどに。
「あーと、そいつは」
「弥太郎さんと紗子さんの過去が、どういうものか、知りたかった、ようです。勿論、私も」
「いや、俺の過去なんざ隠すようなもんでもなし、聞かれたら話すがよ? 紅葉の方は隠しておきたかったんじゃねえかな……」
弥太郎に過去を探っていると知られたくないから、わざわざ紗子を訪ねたのだろうに。
妙なところで内緒の行動を暴露された紅葉に同情しつつ、よく分かっていない様子の見た目少女の二十歳をちょいと嗜める。
「りるや。正直が美徳ってのも時と場合によりけり。気遣いってのも、ちょいと考えてやってくれ」
「気遣い……です、か?」
「ああ。なんでもかんでも喋っちまうのはよろしくない。女の秘密を男に伝えるなんて、もっての外だよ」
りるは長い軟禁生活で、人と接する経験が致命的に足りていない。他者への気遣いは苦手な分野だろう。
だからこそ失言というのも多くなる。そこに注意して欲しいのだが、どうもぴんと来ないらしい。表情の変化こそあまりないものの、なんとなく不思議そうな顔をしているように見えた。
「私とて、誰彼に、明かす訳では、ありません」
「そこを弁えてくれてるなら嬉しいね。だったら」
「でも、弥太郎さんを、信頼するのは、いけないことですか?」
「ん? ……ああ、そういう観点なのか」
窘めるつもりだったが、途中で勘違いに気付く。
気遣いが出来ず不用意な真似をしてしまったのだと思った。
しかしりるに失言したつもりはない。単に紅葉よりも弥太郎に重きを置いた結果、話してもいいと判断しただけ。
彼なら知られても責めないし、態度は変えない。
そういった信頼ありき、それを叱責するのは少し違う。
「悪い、これは俺が的外れだった。お前さんは、別に迂闊じゃなかったな」
その点に関してはちゃんと謝罪する。
どうやら、りるを少し見くびり過ぎていたようだ。
「私も、いつまでも、虫篭のお姫様じゃ、いられませんので」
「はは、言うじゃねえか。自分でちゃんと判断基準をもって、話す話さないを決めるのは、いいことだと思うぜ。まあ俺が信頼に足るかは別だが」
りるはりるなりに、ちゃんと考えてはいる。
だが人と接する経験が足りていない事実には変わりがなく、そこは話をしておかねばなるまい。
「りるとしちゃ、紅葉も俺相手ならそこまで嫌がらないと思ったんだよな?」
「は、い。紅葉さんは」
「そっから先は言わないでいいぞ」
また聞いてはいけないことが飛び出しそうだったので、やんわりと止めておく。
そうしてなるたけ優しく、叱るよりお願いといった調子で言葉を続ける。
「うん、まあ、俺に色々話してくれるのは有難いが。それでも紅葉が隠そうとしているなら、融通は利かせてやってほしいところだ」
「融通、です、か?」
「今回のことだけじゃない。……心に巣食う虫が見えるお前さんは、きっと本人よりも深く、そいつの想いを理解してやれる。だからこそ、口にする時は気を付けないとな」
本当のことって、時々嘘よりひどい暴力なんだ。
そう付け加えれば、自身の重ねた日々に思い至り、ゆっくりと静かに一つ頷く。
素直な反応に弥太郎は少し安心した。
“虫”が見えるから、本当に大切な想いの在処も、りるは漠然と理解している。
であれば不用意な発言は周囲だけでなく、なにより彼女自身を傷付けてしまう。
だからそれくらいなら、俺に嘘を吐いてもいいのだと。
まあ大仰に飾ったが根本は単純。“余計なコトいうヤツは痛い目を見る”ものなのだ。
「難しい、です」
「なぁに、かたっ苦しく考えなくていい。大切な想いの中には、本人が言わなきゃ意味のないものもあって。そいつは不用意に喋っちゃいけないってだけの話だ」
もっとも状況によりけりだが、後は追い追い。今はそこだけ注意してくれればいい。
隠し事の暴露から妙な方向に話が転がってしまった。とはいえ、これが彼女のこれらの”足し”になりゃ万々歳。
単純な表現が功を奏したようで、りるはもう一度頷いてくれた。たぶん人の群れは虫篭よりも暮らしにくいから、少しずつでも慣れていけたならいいと思う。
「それで、弥太郎さんと紗子さんの、昔話を、聞きたいです」
「あ、そこは忘れてないのな」
話が一段落つくと最初に戻る。
こんなおっさんの昔に何の興味あるんだか。意外と前のめりなりるに小さく溜息をついて、しかし隠すようなものでもない。
「まあ、どうせ同じ内容を紅葉も聞くんだし、知りたいってんなら話すけどよ」
「あ。それは、紗子さんは、嫌がらない、ものですか?」
「さっそく気遣ってくれてありがとよ。だが藤吉さん辺りも知ってるし、そもそも紗子も隠してねえから安心しな」
昔語りをするほど年老いたつもりはないが、望まれたならばここで一席。
それはもう七年も前。
弥太郎が池袋に移り三年ほど経った冬のことである。
初めの商い……“花”を売り飛ばした後、せっせと人身売買に精を出し、“蓼虫の弥太”なんて呼び名が定着し始めた頃。
泥まみれで薄汚く、けれど力強い。
紗子という女に出会った。
◆
池袋にあって、弥太郎の名はそこそこに通りがいい。
なにせ初めての商いから、死病持ちを成金相手に高値で売り飛ばした。
以後もがりがりに痩せ細った、飢えた娘をそのままで。次は左目が潰れているのやら。
どう考えても普通でない女ばかりをどこぞから集めてくる。
死病持ちを物みたいに売る、まあクズだな。
なんつーか、女の好みのおかしい奴だよ。
蓼食う虫も好き好きと言うが、それにしたって悪趣味が過ぎるぜ。
何処の何方がそう呼んで、誰が初めかも分からないが、蓼虫のように辛い葉っぱしか齧らない女衒。
語呂の良さも相まって、“蓼虫の弥太”は彼が池袋を訪れて三年ばかりですっかり定着してしまった。
「あんま慌てて食うなよ」
「えっ、あ、うん!」
悪辣の女衒と人の言う。
そういう男は、今は奇怪にも人の良い顔をして、食料泥棒相手に適当な屋台でうどんなんぞを振る舞っていた。
盗みをするくらいだ、腹は減っていたのだろう。
件の泥棒……紗子は一心不乱にうどんをすする。寒い冬にはこういう暖かいものがよく染みるだろう。
服装に短い髪、痩せた体も相まってぱっと見は少年のようだ。食べ方の方もお淑やかとは程遠く、見ていて気持ちよくなるくらいの食べっぷりだ。
「足りないならおかわりするか?」
「いいのか……?」
「そりゃ、俺に確認する必要はないだろうよ」
「あんた、いい人だな!」
更に追加でもう一杯。
元気よくおかわりすれば、弥太郎は隣で妙にニコニコとしている。
彼のことをよく知らない紗子が、何やら勘違いしてしまうくらいには穏やかな態度だ。
「随分腹空かせてるが、お前さん親は」
「いない、空襲で死んだよ。別に珍しくもない話だけどさ」
「そりゃそうだわな。んで、それからは一人か」
「……うん。盗みとか、物拾いとかでなんとか。だから、こんなにいっぱい食ったの久しぶりだ」
昭和二十三年、十月。
世の主婦たちは“しゃもじ”を旗印とし、配給だけじゃ食料が足りねえとお上に訴えるデモを開始した。
そのくらいに飢えていた時代。両親のいない子供が、一人で三年も生き永らえるのは相当の苦労だろう。
「そりゃ凄えな。その根性は俺も見習わにゃ」
「怒らない、のか?」
「怒るってなにに」
「だって、盗み……」
「んなの咎めるようなお上品な奴なら、こんなとこにいねえよ」
ヤミ市に出入りする女衒が、どの面さげて説教するというのか。
やってることは弥太郎の方が遥かに外道である。
「お前さんは、一人で必死に生きてきた。そいつは単純に凄いことだと俺は思うぜ」
「……そう、かな」
「そうさ」
たぶん、両親が死んで以来、自身を肯定されたことなどなかった。
紗子は困ったように、けれどどこか嬉しそうにはにかんだ。格好は男に見えるが、零れた表情はちゃんと少女のそれだった。
「おし、じゃそろそろいくか。勘定、ここにおいとくぜ」
「あっと、ごちそうさまでした! さっきもお金払ってもらったし、なんかすごいお世話になっちゃった」
うどん二杯に、盗品の代金まで。
ヤミ価格だ、結構な値段がするだろうに、見ず知らずの相手にここまで出費をさせてしまった。
ありがたいが申し訳なくもあり、弥太郎に続いて席を立つと、紗子は大きく頭を下げた。
そこにはしっかりと感謝が表れており。
ただ、ちょいとばかり的外れではあった。
「いやあ、別に構わねえさ。んじゃ、百円な」
「……は?」
「だから、うどん三杯とその食料品の分、合わせて百円だよ」
後から徴収するつもりだったから、そう感謝されても困る。
手を出して「ほら、さっさと」なんて急かしてくる弥太郎に、一瞬遅れて紗子は驚愕から思い切り叫ぶ。
「奢ってくれたんじゃないのかよ!?」
「誰がんなこと言った。立て替えただけだよ。ささ、払いなさいお嬢ちゃん」
「そ、そんな大金持ってるわけ……っていうかサラっとあんたが食ったうどんの分まで!?」
「それはお助け代みたいなもんだよね。あん、払えない? おいおい、そいつぁ通じねえぜ」
そもそも紗子は勘違いしている。
ヤミ市で食べ物を売っている店屋の主と、女を売っている女衒。
どちらがタチ悪いかと言えば、考えるまでも後者。そういう輩に無警戒のまま付いてきた時点で間違いである。
「で、でも」
「とまあ、お金持ってねえのは分かってる。今すぐ払えたぁ言わねえよ」
「ほ、ほんとか!?」
「仕事紹介してあげるから、そっちで稼いで返しなさい」
「はぁ!?」
言うや否や、がっしりと紗子の肩を掴み、本人の意思など関係なく無理矢理に背を押して歩かせる。
ふざけるな、とか。やめろ、とか。喚いても弥太郎が聞く筈はなく、周囲の人間も止めたりはしない。
その一幕を見て。
ああ、かわいそうに。
子供が蓼虫の弥太に攫われていく。
悪辣な女衒の犠牲になる紗子へ、ヤミ市の人間ですら同情の視線を送っている。
ぱっと見少年のように見えても、蓼虫ならそういうのを扱ったりもするかと、嫌な納得のされ方をしていた。
◆
「おう、弥太郎」
「よ、景気はどうだい?」
「お前さんの懐ほどじゃねえ。ちっとは回せ、稼いでんだろ“蓼虫”」
「勘弁してくれよ」
戦後から池袋に移った弥太郎だが、三年もいればそれなりに馴染み、道すがら声をかける者もいる。
悪名高いと言っても、それはあくまで“趣味が悪い”程度の噂。
もともとヤミ市自体が違法だし、女性の売り買いは普通に行われていたのだから、迫害を受けるだとかはない。
ちょいと歩けばひそひそと何やらうるさい時もあるが、まあそこは仕方ないと諦めていた。
「おい、放せよ!」
「なんだ、今度は男か? 相変わらずキワモノばっかりだな」
そういう輩なもので、騒がしい子供を無理矢理に引っ張っても『ああ、また……』程度にしか思われない。
あれである、少年でしか勃たない御仁もそれなりにいる訳で。
ぱっと見男に見える紗子も、弥太郎が商うとなれば合点がいったと頷く。
結果、どんなに暴れても誰も助けてくれる人はいなかった。
「よっす、藤吉さん」
「おや、弥太郎さん」
そうして向かった先は、古い馴染みである藤吉という男の仕事場兼住宅である。
もともと弥太郎は池袋に居付く以前、東京・玉の井のストリップ劇場で裏方をしていた。
藤吉はその頃の先輩……つまり戦時中からの付き合いで、年齢は十歳以上離れているが親しく、戦後は一緒になって池袋へ移るほど良い友人関係を築いていた。
「今日はどうしたんだい」
「おお、紹介したいのがいてな」
当時、藤吉は娼婦数人を雇いあげて働かせていたが、ナカゴ屋という店自体はまだなかった。
加えて懐に余裕のある客も少なく仕事はまちまち。
形態としては、現代の表現ならば“デリヘルの事務所”くらいが近いか。
客に声をかけ、気に入った娘がいれば派遣する。容姿のいい娼婦はそれなりのお相手に宛がって大金をせしめる。
玉ノ井で培った手管のおかげか、戦後の日本にあって藤吉は結構な稼ぎを叩きだしていた。
「はは。“蓼虫の弥太”のおすすめかい?」
「おいおい、藤吉さんまで止めてくれよ」
しかし“蓼虫の弥太”は、藤吉のところにはあまり卸さない。
というのも彼が扱う女性は正直キワモノ、普通の男には受けが悪い。
ただ得てしてそういう娼婦には偏執的な客が付くもので、場所さえ間違わなければより高く売れる。
この頃の弥太郎は、見習い期間を設けるような面倒な真似はせず、仕入れてくればすぐさま質の悪い業者に売り飛ばしていた。
そういった乱雑な仕事振りも、蓼虫の悪評を喧伝する一助だったのだろう。
「紗子ってんだ。面白そうだから拾ってきた」
「面白そうってなんだよ!?」
そんな弥太郎が、わざわざ紹介したいという。
汚れた上着にズボン、目深にかぶった帽子。痩せた体もあり一見少年にも見えるが、藤吉も花街で長く働いている。輪郭に少女のそれを見取り、僅かに目を細める。
「うん、この子は整えれば美人になるね」
「だろ? ちょいと跳ねっ返りだが、そういうのを組み伏せるのが好きな客もいると思うぜ」
本人の上で交わされる不穏な会話。
紗子は迂闊だったが、無知ではない。ここがどういう場所で、弥太郎がどういう男かはちゃんと理解している。
つまり借金のカタにという、お約束のあれだ。
うどん三杯と僅かな食料品。その為に売られるなんてごめんだと、紗子は弥太郎を力いっぱい睨み付けた。
「なんだよ、それ!? ふざけんな!」
「お、元気いいなお嬢ちゃん。じゃあ今すぐ金を返してくれるのかい?」
「え。それ、は……」
けれどそう言われたなら威嚇も長くは続かない。
まず前提として紗子は盗みに失敗し、その料金を弥太郎に払わせている。現時点で負債がある状態だ。
そこを指摘されれば俯くしかなく。親を戦争で失くして以来、一人で生きてきた紗子には頼れる者もいない。
つまり既に詰んでいるのだ。
「でも、こんなの」
だけど娼婦なんて。
格好は汚れているが年若い少女、売春に手を染めるなど嫌悪感があって当然だ。
だからと言ってそれを覆すだけの要素など持っておらず、何も言えなくなった紗子は、ただ項垂れるばかり。
「ん、そうか。嫌だって言うんならしょうがねえ」
そのまま、長くて短い沈黙だけが鎮座して。
重苦しい空気の中、最初に口を開いたのは弥太郎だった。
「なら、とりあえず、俺の下で小間使いでもしてもらおうかね。娼婦になるかは、その後で決めりゃいいさ」
あまりにあっけらかんとした物言いに、思わず紗子は顔を上げる。
弥太郎は飄々と軽薄に、しかし何と言おう、懐かしむような淡い笑いを浮かべていた。
◆
時は戻り、昭和三十年。
ナカゴ屋に設けられた紗子の私室。招かれた紅葉は、弥太郎との出会いを教えてもらったはいいが、非常に微妙な顔をしていた。
「時に紅葉さんは、いくらで買われましたか?」
「ええ、と。四十万、くらいだった、かな」
「そうですか。私はうどん三杯と盗んだ食料品の代金で弥太郎さんに攫われました」
「えぇー……」
「笑ってもいいですよ」
紅葉よりもよっぽど美しく、花座界隈でも人気の娼婦が、まさかこんな適当な扱いだったとは。
笑ってもいいというが、笑えるか。
愛想笑いをするくらいが出来た精々だった。
「仕方ないじゃないですか、お腹減っていたんですよ。久しぶりのうどんとか、二杯食べるでしょう常識的に考えて。なのに後になってお金払えなんて、どれだけ性格が悪いのか」
「いや、ごめん。たぶんそこは、紗子…さんが、迂闊なんじゃないかなと」
戦後の困窮した時代、なんで何の裏もなく奢ってもらえると思うのか。
辛辣で上から目線で、今迄は先輩娼婦という立ち位置もあってそういう面ばかりが目立っていた。
しかし空襲で両親を亡くし、一人で盗みや物拾いで生活してきた割に、少し無防備が過ぎる。
実はこの人、本質的には意外と抜けているのかもしれない。
「ともかく、それが弥太郎さんとの出会いです。私はもともと、嵌められて娼婦になりました」
「逃げたりは、しなかったのかい?」
「おそらく、その気になれば逃げられた筈です。そこは貴女も分かるでしょう?」
「そりゃあ、まあ」
実際、こうやって休みを貰えて、普通に出かけることも許されている。
このまま何処かへ逃げようと思えば、多分なんの問題もなく逃げられてしまう。
それを危惧しない男ではなく。けれど高額で買った女に首輪もつけず。
弥太郎の下は普通では考えられない程の好待遇だ。はっきり言って、こちらが不安になるくらい。
「初めは私も、弥太郎さんの下で娼婦の常識を学びました。けれど不思議なことに、私が頷くまで客を宛がいはしなかった。最初は、彼の小間使いみたいなものでしたね」
「ああ。じゃあこういう見習い期間って、昔からあったんだ」
「いえ、それは私が始まりと言いましょうか」
けれど不安を軽く流して、紗子はくすりと、過去の話からは想像もつかない淑やかな微笑を見せてくれる。
「では、話の続きを。ここから先は、長くなりますが、最後まで」
そして、まるで大切な宝物を取り出すように。
そっと優しく、紗子はかつての日々を語り始めた。