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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ


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【カゲロウ慕情】・1




 もしも運命というヤツが本当に存在するのなら。

 俺の運命を握っているのは、やはり女なのだろう。


“呪いをかけてあげる”

“私を踏み躙って生きていく貴方が”

“どうか報われないまま、孤独を抱えたまま死に絶えますように”


 弥太郎が初めて売り飛ばした女は、最後に呪言を遺し去っていった。

 だから、その時から、弥太郎は考えていた。

 もしも運命というヤツが本当に存在するのなら、自分にとってのそれを握るのは。

 ……終わりを告げるのもまた、女なのだろうと。


 事実、彼の転機には常に女性の姿があった。

 昔語りをするほど年老いたつもりはないが、今も時折思い返す。


 たとえば一つ。故郷の農村で暮らしていた頃、何も出来ず死なせてしまった母。

 二つ。この身に呪いをかけた、初めて売り飛ばした女。

 三つ。紗子とかいう生意気な小娘との出会いも。

 弥太郎にとっては誰もが忘れられない、今の彼を形作った大切な女性ひと達だ。







“あなたは、最期には。あなたの大切なものに呪い殺される”


 そして四つにして最後の。

 否、最期・・の女……神の娘。


 いつかの呪いを肯定した彼女こそが。

 おそらくは─────







 花に惑いて虫を食い『カゲロウ慕情』







 夜も深まる頃合い、電球の灯りに滲む狭い室内。

 紗子さえこは男の体にそっと、しなやかな指を這わせる。

 お相手はそれなりに体格の良い三十代半ばの男性。肉の付きはよい、いい物を食べているのだろう。

 肉の付きはよい、その評価は向こうも同じだったらしい。

 にたと表情は緩み、彼女のしっとりとした肌を、豊満な肢体をまさぐる。


「お願いです、御慰みを」


 抵抗などせず、潤んだ瞳で情欲を受け入れる。

 戦後の時代、非合法の青線地帯、小さな娼館。

 およそ真っ当な場所ではなく。だというのに出てきた女は美しく、立ち振る舞いは淑やかで、甘やかな声で囁かれれば男の留め金は外れた。


 娼婦の蠱惑的な微笑みに絡み取られた姿は、まるで虫のようだ。

 けれど逆らえず、逆らう気もない。

 貧しさに荒れる者も多い時代に、“甘やかしてくれる女”というのは極上の娯楽。

 薄暗い部屋には電灯の僅かな光、照らされた女の顔は艶めかしく、覚束ない輪郭が現実感を奪う。

 紗子は男の頬に触れ、そのまま優しく引き込んで口付けた。


「いいですよ。あなたの、お好きに」


 ぴちゃりと、粘ついた水音。

 ふと視線が絡み合う。女は何も言わず、ただ微笑んだ。

 柔らかいと、男はそう思った。

 重なり合う肢体は勿論のこと、もっと奥。包み込むような柔らかさを味わう。

 娼婦との逢瀬にしては些か優しすぎる、睦み合いと表現するような行為。

 それが心地よくて。男は夜の夢に溺れていった。





 ナカゴ屋。

 花座横丁の通りを脇道へ外れ、入り組んだ狭い道の先に立つ小さな娼館。

 一軒家を改造した、お世辞にも立派とは言えず。しかし池袋でもこの場所はそれなりの評価を受けている。

 紗子という娼婦が身を寄せるナカゴ屋には、夜毎に客が訪れる。

 蓼虫と呼ばれる女衒が商った女は、これがどうして美しく、豊満な肢体を持ち、なにより心根が素晴らしいともっぱらの評判だ。

 嘘を売る娼婦の心根など鼻で笑ってしまうような話だが、彼女を買った男は皆満足して帰る。

 なんと言おう、紗子にはなんでも受け入れ許してくれるような、優しいよりも“甘やかす”雰囲気があった。

 それが荒廃した時代の客には刺さったらしい。

 子供のように甘え、男の情欲を満たし。だから紗子は青線地帯、池袋の娼婦の中でも人気が高い。


「なあ、紗子。娼婦から足を洗う気はないか?」

「どうしましたか?」

「君を身請けしたい。いっしょに、来てほしい」


 娼婦になって六年。

 定期的に身請けをしたいという話が来るほどに、彼女にはまり込む男は多い。

 けれどいつも、誰が相手でも返答は同じだ。


「申し訳ありません。私は、この生活が性に合っているようで」

「だが」

「そのお気持ちを、嬉しく思います。けれどこのままでいさせてくださいな」


 柔らかいけれど固い意志。それを覆せたものはいない。

 男は諦めきれたわけではないだろうが、言葉を続けなかった。紗子が優しく、けれど困ったように微笑んだからだ。

 彼女ほどの娼婦ならもっと大きなところに、赤線でも“売れる”だろうに。

 余程この小さな娼館に恩義でもあるのか。


「ごめんなさい。貴方の優しさに、報いることができずに」


 そういった思考も、崩れた言葉遣いで謝られ、頬に掠めるような口づけをされれば、またたくまに消え去った。

 今のは娼婦でなく、彼女の素のように思えた。特別扱いされている、というのはやはり気分がいいものだ。

 また次も紗子のところへ。

 そう思ってしまうくらいには、彼もこの柔らかな女に入れ込んでいた。






「……うん、今の手管は中々でしたね。覚えておきましょう」

 

 帰った後。

 そんなことを言いながら。ぺろりと舌をだす紗子の姿なんて、当然知る由もなかった。




 ◆




 時刻は夜、場所も変わって駅前の安ホテル。  


 池袋は非合法の青線地帯。

 夜毎どころか朝毎昼毎、皆さま盛んにサカっていらっしゃる。

 小さな娼館で甘やかな逢瀬があったかと思えば、駅前のホテルでも男と女が絡み合っていた。


 夏の夜は密度が高くて、ふと息苦しくもなる。

 決して綺麗ではない、狭いホテルの一室に押し込められたならば尚更だろう。

 汗のにおいと、もう一つ。激しい水音に付随する香りに少しだけ眩暈がした。


「いいぞ、紅葉……」


 荒い息、名を呼ばれて、けれどこちらに返す余裕はない。

 ああ、違うか。

 返すつもりが端からないのだ。

 蓼虫の女衒に飼われて半年以上が過ぎ、けれどどうやら紅葉はまだ娼婦である自分を肯定し切れていないらしい。

 だからどこぞの嫌な女と違って、媚びた声なんぞ出せやしない。

 けれどその反応こそが好物だと、ぶくぶくと太ったお客は、愉しそうに顔を歪める。

 そうなると行為も激しく。結局さらに二時間、男女の睦み合いは続いた。




 ◆




 紅葉くれはという名は弥太郎が付けた。

 

『名前、どうするよ? そのまま本名でもいいし、抵抗あるなら別に付けるが』

『なら、別のがいい』

『そうか。んじゃ、今日からお前は紅葉だ』


 娼婦になる際、昔の名前を捨てる女は割合いるそうだ。

 だから「お前はどうする」と聞かれ、「じゃあ変える」と答えて紅葉という娼婦になった。

 適当で、簡素な遣り取りだったと思う。

 それも仕方ない。だいだい、親がくれた名を捨てることに感慨は欠片もなかった。

 顔の火傷は父のせい。売られる時には、「金が入る」と母も笑顔。

 そういう両親を持つ彼女にとって、本名など執着するようなものではなく、なんなら忌々しくさえある。

 正直なところ弥太郎の提案は渡りに船。これであいつらと縁を切れると喜んだくらいだ。


「おぉ、紅葉。起きたか」


 それに、嫌いな響きではない。

 顔の半分が火傷で爛れた、お世辞にも美しいとは言えない。その上結婚も就職もできなかった娘だ。

 生家では『あれ』だの『お前』だの酷い扱いだったし、本名を呼んでさえ苛立ちとか侮蔑が混じる。

 その頃に比べれば“紅葉”の待遇はよく、起き抜けに気楽な挨拶があるのも悪くない気分ではあった。


「今、何時?」

「五時をちっと回ったくらいだ」


 昨夜はお仕事。花座のホテルで一晩中頑張った。

 かなり疲労していたようで、朝方に家へ戻り、夕方までぐっすり。

 起きてから居間に顔を出せば、弥太郎とりるがお茶を啜りながらくつろいでいた。


「寝すぎた、かい?」

「なぁに、構わねえさ。昨日は疲れたろ? どうもあの御仁、お前さんを気に入ったらしくてな」


 弥太郎曰く、『手慣れた、恰幅も金払いもいい旦那』。

 紅葉からすれば『ぶくぶくに太った、娼婦遊びが趣味の金持ち』。

 前にもお相手をしたことはあったが、どうやらお眼鏡にかなったようで、再びのご指名を頂戴したのだ。

 火傷の女に執心なんて趣味の悪い……などとは勿論言わない。適度に買ってもらえるのは、娼婦としては喜ぶべきだろう。


「しっかし、ホントに大変だったみたいだな。飯も食わずに。泥のように眠ってたぜ」


 ただ件のお客はねちっこい抱き方をする男で、一晩で精魂尽き果てて、弥太郎の家に戻るや否やすぐさま眠ってしまった。

 それが午前の九時前だから、正味八時間以上か。

 疲れていたとはいえ途中で起きもせずよく眠ったものだ。


「ま、今晩は仕事いれてねえからゆっくり休みな。風呂も沸かしてある、汗流しとけ」

「正直あんたのそういうところは助かるよ……」

「おや、褒められたぞ」


 せっかくの商品を使い潰さないよう、これで弥太郎は結構気を遣うタチだ。

 紅葉にもその恩恵はあり、食事は三食しっかり、風呂も入れて、疲れの度合いを見て休みだって定期的にくれる。

 人身売買を生業とする女衒、ゲスな男というのは間違いない。

 しかし、こうやって気安く接しても罰どころか叱責さえ与えられないことも含めて、彼の下は結構働きやすかった。


「おはよう、ござい、ます」


 遅れてりるが挨拶し、同時に湯呑が一つ。

 台所で紅葉の分もお茶を淹れてきたらしい。

 東京に出てくるまで家事などまるでやったことのない彼女が、ここまで気を利かせられるようになった辺り、この共同生活はちゃんと意味があったようだ。


「ありがと。……ん、ちゃんと淹れられてる。おいしいよ」

「よかった、です」

「茶菓子が欲しかったら買い置いてあるから好きなの選びな」

「さすがに、起きぬけじゃそこまで入らないって」


 女性陣二人の関係も良好、家主も中々に寛容。

 ここが女衒の家で、紅葉は娼婦、りるも見習いではあるがそういうお仕事をすると決定している。

 その辺りを無視すれば、それなりに和やかな一時と言えるかもしれなかった。


「さて、出かける前に起きてくれて助かった」

「どこかへ行くのかい?」

「おお。ナカゴ屋の旦那にちっと頼まれごとしててな」


 ナカゴ屋。

 あのいけ好かない娼婦、紗子さえこのいる小さな娼館だったか。

 考えた時点で顔が歪んでいたらしく、あからさまな態度に弥太郎は苦笑する。


「気持ちは分からんでもないんだが、あんま嫌ってやらないでくれよ」

「そうは言っても、ね」

「あれで結構可愛いところもあるんだがなぁ」


 紅葉は池袋に来てまだ一年足らず、紗子の方は娼婦になって六年経つと聞いた。

 今から六年前と言うと、まだ戦災復興もままならず、ヤミ市が開かれていた頃だ。

 そういう苦境の時代を共にした為か、弥太郎はあの女に対して好意的である。


「ずいぶん肩を持つじゃないか」

「まあ、知らねえ顔じゃねえし、それなりにはな」


 二人は同じ境遇の娼婦。

 つまり蓼虫の女衒に目を付けられ、一時期は彼の下で花街での振る舞いを学び、娼館に売り飛ばされた。

 違うのは、そういった経緯を辿ったくせして、妙なくらい弥太郎に親しげな点。

 そこが媚びているように見えて、普段の刺々しい態度もあり、つまり紅葉は紗子のことが苦手だった。


「それは置いといて、だ。狭い界隈、世話になったり世話したりすることもある。内心どう思っても構やしないが、あんま敵は作らない方がいいぜ?」

「まあ、そりゃ、そうだろうけど」

「仲良くしろとまでは言わねえさ。ただ、お前さんもこれから娼婦として生きていくんだ。心ン中で舌出しても、笑顔でお喋りできるようにならなくちゃな」

「……嫌な話だね」

「そこは同意するがよ」


 しかし弥太郎の言にも一理はある。

 如才なく立ち回れるようになるのが紅葉の為なのは事実。

 頭ごなしに怒鳴り散らすのではなく、ちゃんと諭すように言ってくれるのも有難いと思う。

 だから素直に従ってもやりたいのだが、どうにもあの上から目線が引っ掛かり、実際に接した時うまく応じれるかは正直分からない。


「努力は、してみるよ」

「おう、頼まぁ」

「ん……こっちこそ、その。ありがと」


 しぶしぶといった雰囲気に弥太郎は肩を竦める。

 馬鹿にしたのではない。若干噛み合わないお礼が今の紅葉の精一杯だと分かるから、微笑ましかったのだ。


「……?」


 もっとも、りるにはこの手の曖昧な遣り取りがあまり理解できていないようだ。

 傍らで不思議そうにしている姿は本物の子供みたいで、とてもではないが紅葉よりも年上には見えない。


「紗子の話だよ。紅葉が苦手だって言うから、あんまり喧嘩しちゃダメですよ、ってな」

「さえ、こ……ああ」

「ん、どうした、りる」


 そういう彼女が弥太郎の耳元に顔を近付けこそこそと内緒話。

 髪の色も顔立ちも全く違うのにまるで親子みたいで、それが女衒と娼婦見習いという立場を考えれば殊更奇妙にも感じられる。


「ほう、あいつは、そうか。だが多分これからも顔を合わせる機会もある。ちゃんと、紗子って呼んでやってくれるか?」

「は、い。分かりました」

「しかし、意外と用心してくれてるみたいでよかったぜ」

「弥太郎さん、が。他の人、とは違う。変わった人だというは、ちゃんと、知っています」

「あっはっは、お前さんにゃ言われたくねぇ」


 何事かを耳打ちされて、お父さんが窘めて、娘は素直に頷く。

 今度は紅葉の方が微かに眉を顰めた。肝心なところを聞いていないのだから当然だが、二人の遣り取りは全くもって意味が分からなかった。


「ま、ちっとは安心したよ。これで心置きなく出かけられるってもんだ」


 けれどこういう時、弥太郎は絶対に説明はしてくれない。

 それを知っているから、大した話ではないのだろうと紅葉は軽く流した。

 実際、何事もなかったように弥太郎は出かけようとする。

 多少もやもやとするが不満はない。同居しているとはいえ深追いはせず。そういうものなのだ。


「おっと、晩飯代は渡しとくから好きなもん食っときな。特に紅葉はしっかり栄養とって、よく寝ておくこと」

「はいはい。あんた、時々過保護になるね」

「これも職責ってやつさ」

「職責なら、娼婦だけで自由にさせるのはどうなんだい?」

「あー、確かに。なら二人とも、逃げんなよ」


 適当な注意が追加される。信頼されている、のだろうか。

 どこまで本気なのか、飄々とした態度を崩さず、今度こそ弥太郎はナカゴ屋へ向かった。 

 まあ元々逃げるつもりはない。紅葉も、りるも。とっくに帰る場所はなかった。


「晩ご飯、どうする?」

「『こまい』で。お酒なし。お米に合う、おかずを、適当に」

「ふふ、じゃあそれでいいか」


 女衒というのも意外に忙しいようで、りると二人で残される機会も時折ある為、今更緊張するようなこともない。

 どうやらこの年上の後輩は居酒屋メシがお気に入りの模様。

 すんなりと夕食も決まった。これも息抜き、せっかくだから楽しもうと、紅葉たちは夜の花座横丁へと向かった。







 あの時、耳打ちした言葉。


『紗子、というのは。カゲロウ、の人、ですよね?』


 周囲と違うものは排斥される。

 虫篭の集落で育ったりるは、それを十分理解していた。

 だからちゃんと弥太郎にだけ伝えた。



 紗子という娼婦は、カゲロウだと。







【カゲロウ】

 カゲロウ目に属する昆虫の総称。

 ほとんどが小型種で、体も翅も脆い、非常に“弱い”虫。

 

 不完全変態。

 その中でも亜成虫と呼ばれる形態を経る、前変態という特殊な生育過程を持つ。

 成虫は口が退化して食事ができない為、僅か数時間で寿命を迎えてしまう。

 ただし幼虫期間に数年を要する種類も多く、合計の寿命で考えれば虫の中でも短命という訳ではない。

 またウスバカゲロウはカゲロウ目には属しておらず、分類上は別種である。




主人公とカゲロウの娼婦の過去話です。

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