【キセイバチ夫婦噺】・4(了)
一人で店を切り盛りしている為、夕方頃になれば料理の下準備で忙しくなる。
妻が出て行ってからはずっとそうしてきた。
しんどいし、寂しくはあるが、暖簾を出せばそうも言ってはいられない。
飛んでくる注文にてんやわんや。常連客と馬鹿話をするのは結構楽しくて、美味い美味いと言ってくれりゃこっちも嬉しい。
青線での毎日は充実している。
時折、満員の時でさえ広く感じてしまい、隣を横目で見てしまうけれど。
それでも十分じゃないか、そうと彼は思う。
がらり、引き戸の開く音が聞こえた。
悪いがまだ開店前だ。
咄嗟に言わなかったのは、無遠慮に店を訪ねる誰かに覚えがあるから。
なら鍵を閉めておけばいいだろうに、そうしないのは何故だろう。
理解できないままに、ちらりと視線だけを動かせば、やはりというか。
見たいような見たくないような、複雑な相手がそこには居た。
「……なにか、用か」
居酒屋『こまい』の店主、哲史は一段低い声でそう言った。
また、金をせびりに来たのか。
細められた視線に女……小舞の表情は強張り、逃げるように俯いてしまう。
それが奇妙と感じられる。
ここへ来るときはいつもこちらを見下した目で、冷たい態度を崩さなかった。
なのになぜ今更そんな態度を取る?
彼は二の句を継げず、向こうも何も言えず、店内に嫌な沈黙が腰を下ろす。
どれだけ、そうしていたか。
一瞬、或いは長らく。時間の感覚があやふやになるくらいの静けさの中、女はおずおずと封筒を差し出した。
「これは?」
やっとのことで絞り出したのはそのくらい。
それでもようやくの言葉に固まった空気が何処かへ行ってくれた。
多少呼吸も楽になって、まごつきながらも伝えたかったことを口にする。
「あなたから頂いた、お金。一円も使っていません」
小舞はこの店に来るたび、金をせびっていた。
生活に困っていたのか、遊び金欲しさか。分からないが渡し続けた。
もしも拒否すればもう二度とこないと思った。心に虫の巣食う彼女でなく、彼もまた歪だった。
歪なまま、歳月ばかり重ねてきて。
「まだ家に幾らか。それも、持ってきます。だから、その。持ってきても……いいですか?」
けれどまるで、その歳月を踏み越えていこうとするような。
返せばいいという問題ではない。勝手に出て行って、酷い態度を取り続けて。妻としての役割はとっくの昔に放棄してしまった。
それを偶々に嫉妬がなくなったからと、今ならやり直せるかもしれないなんて、都合がいいにもほどがある。
分かっていても、小舞はここに来た。
間違えてしまったけれど、尊敬の念も、大好きという気持ちも、確かに本当だったから。
ほんの僅かな可能性にも縋りたいと、欲を出してしまった。
「とりあえず、座っとけ」
ぶっきらぼうに哲史はそう言った。
思うところは勿論ある。
何を今更、散々こちらを馬鹿にしておいて。妻に出て行かれた夫が過ごしてきた日々は少しばかり長すぎた。
虫なんて関係ない。
あの頃のほのかな愛情なんて、降り頻る歳月に晒されて、形も色もあやふやになってしまっている。
ただ、彼は金を払い続けた。急の来客でも入れるよう、準備中でさえ店の鍵は開けていた。
その意味は、多分本人もよく分かっていなくて。
しかし気付けば彼女を引き留めていた。
「長いこと店を続けてきてな。腕だって上がった。酒も旨いがメシもいけるって、これでも人気なんだ」
妻がいなくても、どうにかこうにかやってきた。
青線での暮らしは充実している。
お客は大抵スネに傷を持った輩だが、毎晩毎朝、酒をかっ食らって大騒ぎ。お節介な常連もいて、退屈する暇なんてないくらいに忙しい日々を送っていた。
そこに、嘘はなく。
それでもぽっかりと空いた胸の中と、隣。
埋まることはもしかしたらないのかもしれない。
だけどほんの少しの可能性にも縋りたいと。有り得ない夢を見てしまったのは、彼だって同じだった。
「……っ、はい」
こうして、かつて夫婦だった二人は、取り敢えずの区切りを迎える。
出て行った妻が帰ってきた、言葉にすればそれだけのこと。
別段騒ぎ立てるような話でもなく、なにより本当の苦難はこの先にこそある。
妻は自身の行いを許せるのか。
夫は本当の意味で彼女を受け入れられるのか。
間違えてしまったけれど───いつかは、夫婦に戻れるのだろうか。
分かる筈がない。
だって想い合っていると、始まりは好意でも愛せる筈だと、勘違いの果てに破綻した二人だ。
不安はそこら中に転がっていて、いつ足を取られてすっ転ぶのか、怖くて怖くて仕方がない。
でも今はただ耳を傾ける。
とんとんと、食材を切る音。くつくつと、鍋の煮える音。かちゃかちゃと、食器の触れ合う音。
眠くなりそうなくらい暖かい響きが耳を擽ってくれるから。
少しだけ、このゆるりとした夕暮れの時間に浸っていたかった。
◆
「……別に、虫を食ったからって死ぬ訳でもないんだな」
うまくいかなかった夫婦の一つの区切り。
物陰から様子を窺っていた弥太郎は、なんともいえない表情で視線を切った。
りると二人、気になって来てみたが、収まるべきところに収まったようだ。であればいつまでも覗き見は趣味が悪い。
とりあえずは夫婦がああやって話せるようになったこと。
そして小舞が死なずに済んだことを喜ぼう。
小舞は心に巣食う虫を食われ、そのまま地に伏した。
しかし意識を失ったのもつかの間、命に別状はなく、しばらくすれば普通に起き上がった。
憑き物が落ちた、とでもいうのか。
顔を上げた彼女には、獰猛な蜂の姿は重ならない。話の筋は覚えていたようだが、何故あそこまでの醜態をさらしてしまったのかと恥じ入るくらい。
日を跨げば、こうやって居酒屋『こまい』を訪ね、謝罪までも。
嫉妬を食われるだけでこうも変わるのかと、正直驚きはかなり強かった。
「虫は、あくまで、歪んでしまった、心の一部。それを取り除いたからと、死ぬ訳では、ありません」
彼女の異能は『人の心に宿った“よくないもの”を虫の形で認識し、干渉する』。
だからといって心そのものを砕ける訳ではなく、あくまでも形になった虫を除去する程度が精々。
苦悩が人の心を食らい、りるはそれを美味しくいただく。
こういうのも食物連鎖って言うのかね。人死にがなかったこともあり、弥太郎は気楽な感想を抱いていた。
「お悩み相談程度の効果しかないってことか」
「それでも、心の一部、です。失えば、影響は、出ます」
たとえば、醜い感情を生きる支えにしてきた、彼女の父親のように。
結局、目に見える形に具象化して尚も、人の心というヤツは理解し切れるものではないのだ。
「心の汚い部分ってのは、つまりそいつ“らしさ”が一番現れた部分だからなぁ」
「……取り除いてはいけない、悪いものがあるのだと。父が亡くなるまで、考えも、しません、でした」
「そうやって学べただけ上等だよ」
りるの父にとって屈辱は全てだった。
己を苛むあらゆるものに対する反骨が、彼を支えてきた。
だからそれを失くした時、生きる活力すら失ってしまった。
けれど本来、虫は心の一部に過ぎない。
小舞にとって嫉妬はあくまでもそういうもの。
食われたって彼女でいられる。
夫への想いは心を構成する一部でしかなく、それが全てという生き方はしてこなかった。
なにやら寂しい話だ。
だが、その方が健全だろうと弥太郎は思う。
死に至る恋慕やら愛情なんて、できれば勘弁願いたい。そこまで重いのは飲み干すと胃もたれしそうだ。
「まあ、死ぬよりゃ生きた方がいい、なんて気楽に言える時代じゃねえがよ。今回は、めでたしめでたし、でいいのかね?」
りるがキセイバチを食べたことで、小舞は長年抱えてきた嫉妬を失った。
今ならきっと素直に夫とも向き合える。
そこから何を積み上げるのかは、あの夫婦の勝手。
ちゃんと愛情を重ねられるのか。
或いはまた歪んで、虫が集るようになるのか。
その辺りは今後の二人の暮らし次第。弥太郎らには関わりのない話だ。
ならば“一応の区切りが付いた”で終わらせおくのが正しいに決まっている。なのに弱音の虫が囁いて、彼は小さな溜息と共に言葉を零した。
「……それでもキセイバチに食われた幼虫は、戻らないんだろうがな」
小舞の始まりだった純粋な好意は、キセイバチに食い荒らされた。
たとえこれから積み上げていく感情が彼等にとって好ましいものであれ。
出会った頃の想いが戻ることは決してない。
彼女のわだかまりが消えた今、彼が許しさえすれば、二人はそこそこに上手くやっていくのだろう。
それは、失われた幼虫の“代わり”を育てるに等しい。
かつての心には戻れず、よく似たなにかに縋り。
夫婦はこれからも勘違いを重ねていく。
「生き辛い世の中だね、どうにも」
死ぬよりは、生きる方がいい。
だとしても大切な想いを失ってまで続けていく命の価値は如何ほどか。
弥太郎にはその是非は下せない。
何も知らない小舞自身も同じ。彼女は問題の全てを棚上げにしたまま、続いていく日々を過ごす。
それを本当に「めでたしめでたし」で締めていいモノなのだろうか。
「……?」
りるはきょとんとしたままこちらを見ている。
心に巣食う“よくないもの”を取り除き、どうせなら食べた。結果誰も死ななかった。
彼女にとって今回の顛末はそこで終わり。
軟禁され、他者とも殆ど触れ合わず。だから弥太郎の胸中は読み取れない。機微を測れる程の経験がない。
代わりに戦時も戦後も飢えず暮らしてこれたのだ、憐憫も同情もしなかった。
しかし思うところはないでもない。自然と手は彼女の頭に伸びて、子供にするような弱さで二度三度撫でる。
「ま、今回は大将の心労が軽くなった、くらいで良しとしておくさ」
「は、い?」
「生きてくなら、どっかで折り合いを付けなきゃいけないって話だよ。付けられたからって、偉いわけじゃねえけどな」
やはりよく分かっていない風で、その反応が花街の女衒には少し眩しい。
折り合いを付け過ぎて真っ直ぐに生きられなくなった男だ。講釈を垂れるような御身分ではないと重々承知の上。
それでも、この娘だって、いつまでも虫篭の中のお姫様ではいられない。
正しいものが正しくて、間違っているものが間違っているのではないと。そういう当たり前を教えていくのは、コオイムシ代理である自分の役目だろう。
「さて、この話はここでお終いだ。あとは一度戻って、紅葉と三人で晩飯でも食いに行こう。虫も美味かろうが、東京には食いモンがいっぱいある」
「『こまい』、ですか?」
「勘弁してくれ。愚痴は苦いし、惚気は甘すぎる。酒の肴ならともかくメシの供にゃならねえよ」
正直、今はあそこで飯を食べる気にはなれない。
うへぇ、と舌を出して弥太郎はその場を離れる。りるも倣いとてとてと歩き出し、二人とも振り返りはしなかった。
居酒屋『こまい』はまた次の機会に、落ち着いた頃合いを見計らって訪ねればいい。
その時に、夫と妻が並んで働いているのなら、からかいながら酒の一つも楽しむとしよう。
「今日は洋食屋だな。集落じゃ食ったことないだろ?」
「ありま、せん」
「……お前さんにゃ、まだまだ味わってほしいもんがいっぱいあるんだ。その中に、虫より旨いって思えるもんがあるといいな」
その言葉の意味も多分彼女は分かっていない。
当然だ。何故そんなことを言ったのか、弥太郎自身把握し切れていなかった。
誤魔化すようにふと見上げれば、夏の夕暮れは過ぎて、空の色味は薄い藍へ。
誰そは彼と問おうにも、薄暗闇とは程遠い。
花街の夜は寧ろこれから。ピンクのネオンが灯れば、喧騒というには落ち着いた、独特の熱が辺りを包む。
その中には、夫婦で営む居酒屋が一つ。
長々と語って、散々悩んでも、最後に落ち着くのはその程度のところ。
別に珍しくもなんとない。
出て行った妻が帰ってきた、遅くなったが夫を支えて。
ただそれだけの、夫婦の話。
【キセイバチ夫婦噺】・了