【キセイバチ夫婦噺】・3
たぶん、キセイバチに、卵を植え付けられたのだ。
◆
「おいおい、冗談きついぜ」
弥太郎は苦々しく吐き捨て、自然りるの手を取っていた。
あれは、確かに蜂だ。
であれば、いつでも逃げられるようにしておきたかった。
「元とはいえ旦那のだろうが。それを苦しめたいだけだってか」
「ええ。信じられないなら、これが証拠になりますか?」
小舞は懐から封筒を取り出して、中に入っていた紙幣を乱雑にばらまく。
言うまでもなく居酒屋の店主からせしめた金だ。
こんなものはゴミだ、必要ない。
店主が毎日必死に働いて得た金を、なんの価値もないと彼女は捨てる。
表情は憎悪とも狂気ともつかない。歪みながら力はなく、負の情念よりはある種の諦観を思わせた。
「もういいですね。私はこれで失礼します」
散らかした紙幣を踏み躙って、小舞は冷めた目でこちらを一瞥し背を向けた。
呼び止めようとは思えない。あんまりな態度に唖然として、なにより蜂女と平静に話ができる自信はなかった。
「あんたは結局、旦那のこと、どう思ってんだ?」
それでも一つだけ聞きたくて、背中に問いかける。
「女衒のくせに、女心の分からな人ですね」
立ち止まった彼女は首だけで振り返り、たぶん、本音で答えてくれた。
「尊敬してるし、大好きに決まっているじゃないですか」
蜂ではなかった。
幻視した獰猛な蜂の顔ではなく。
涙をこらえて、それでも必死に笑ってみせる、夫を想う妻の微笑だった。
胸が締め付けられるくらいの想いを見せつけて、今度こそ小舞は去っていく。
かける言葉は、もうなかった。
「なあ、りる……」
「キセイバチ。とても、大きく、育って、います。……大好きだと。言った時が、一番蠢いて、いました」
腐った心には虫が集る。
もしもキセイバチが、彼女自身の生み出したものならば。
そこにこそ、大切な想いがきっとあるのだ。
◆
花座横丁を脇道へ外れたところにある、二階建ての一軒家。
元々は普通の住宅だが、中身を少し改装してネオンの看板も掲げて、今は娼館として使われている。
『ナカゴ屋』と呼ばれるこの店は、規模こそ大きくないものの、池袋でも評価が高い。
というのも、ナカゴ屋は人気の娼婦である紗子が身を寄せている娼館だった。
「あら、弥太郎さん?」
「ん、おぉ。紗子か」
神社でのいざこざの翌日。
朝も早く、りる達が寝ているうちから自宅を抜け出した弥太郎は、居酒屋『こまい』を訪ねるつもりだった。
その途中通りがかったナカゴ屋の店先ではちょうど紗子と出くわした。
娼婦の本番は夜、おそらくは一仕事終えて客を見送った後、後はゆっくり休むだけというところだろう。
肌の色に疲れが見て取れ、しかし紗子はこちらを見つければ、嫌な顔一つせずに迎え入れてくれた。
「浮かない顔ですね」
「そうかい?」
「ええ、何かありましたか」
「あー、どうだろな」
問われて濁したのは言い難かったからではない。
隠すつもりもなく。なのに言い淀んだのは、明確な言葉に出来るような理由もなかったからだ。
「俺もよく分からん」
「なのに、会いに来てくださったのですか?」
「いや、別に会いに来たって訳じゃ……あるんだろう、なぁ」
ナカゴ屋は別に通り道ではない。
わざわざ遠回りまでしたのは、偶然にでも紗子に会えないかと期待したからだろう。
小舞の酷い態度を見た。その後の、得も言われぬ表情も。
嫌な女と断じるには去り際が頼りなさすぎた。
どうにも、すっきりとしない心地で。
『ありがとうね、弥太郎さん。私、あなたに逢えてよかったって、心から思う』
だから、なんとなく、彼女に会いたくなったのかもしれない。
「多分な。妙な女と喋ったから、いい女に会いたくなったんだ」
「あら、嬉しい。なんでしたら、一夜を共にしましょうか?」
「気分転換は十分できたさ」
艶っぽい誘いを流して、軽く肩を竦める。
紗子の方も色よい返事は最初から期待していなかったらしく、無碍にされても気を悪くした様子はない。
むしろ友達同士で軽い冗談を交わすような距離感。
それが互いに心地よく、男と女になれば失われると知っている。だから二人のことは何処まで行っても冗談に過ぎない。
「実際、ちっと気は楽になった。ありがとな」
「ふふ、勝手な人」
そんじゃ行かせてもらうわ。
軽く片手を挙げて、去り際は実にさっぱりしたもの。
これくらいが二人にはちょうどいい。
鬱屈とした気分も、それなりには晴れてくれていた。
次に控えている話し合いも、多少は力を抜いてやれるだろう。
そうして、居酒屋『こまい』。
毎度ながら閉店間際に滑り込み、しかし今日は酒を注文せず、まずは店のカウンターへ無造作に封筒を放り投げる。
「なんだこれは」
「あー、大将が嫁さんに払った金だよ。あ、“元”だっけか」
小舞が神社で捨てた紙幣を一枚一枚拾い集めた。
いくらかは風に飛ばされてしまったが、そこは勘弁してもらいたい。ともかく、この金は店主に返すべきだと思った。
「あいつに、なにしやがった」
「なんもしてねえよ。ちょっと話したら返してくれたんだ」
「……本当、か?」
「まあな」
最初の反応は感謝よりも怒りで、妻が無事と知ればそれも治まる。
まあ若干の嘘は混じっているが、話して金が帰ってきたのは事実だから大した問題ではない。
こちらの言を信じようが信じまいがどうでもよく、弥太郎はカウンターの席にどかりと腰かけた。
「……悪かったな」
「気にしちゃいねえさ」
少し落ち着けば、店主はぶっきらぼうながら謝罪をした。
金を取り返してくれたのにあんまりな態度だった。そう思えるくらい冷静になれたなら、一歩踏み込んだ話もできるだろう。
「言ってたぜ。旦那のことは尊敬してるし、大好きだってよ」
「そう、か」
「嘘じゃねえ。そんで、生活費にも困ってねえらしい」
けれど幾度も金をせびりに来て、あの冷たい目も本物。
去り際に見せた、表情だって。
好意も嫌悪も混じり合って上手く形にならない。
きっと小舞の心は虫に食い荒らされて、ぐちゃぐちゃになっている。
「しっかし、大将も難儀な嫁さん貰ったなぁ」
「うるせえよ」
不機嫌なのは馬鹿にされたと取ったのか。
まだ、あの女に想いを注いでいるからか。
どちらにせよ難儀なのは妻だけでなく店主の方もらしい。
「もともと、見合い結婚でな」
いくつかの空白を跨いで、重々しく店主は語る。
「といっても、家族ぐるみで付き合いがあったから、滞りはなかったよ。お互い顔を知っていて、憎からずは思っていた。多分向こうもな」
過去を問わぬが花街の在り方。
弥太郎も店主も十分理解している。
だというのに一歩を踏み込んで、だというのにそれを受け入れた。
「戦時中だ。向こうの家としちゃ、娘の面倒を頼みたかった、ってのもあったんだろう。ま、俺は気にしなかったし、割かし仲良くはやれてたんだ」
案外、肩の荷を下ろしたかったのかもしれない。
合わない焦点と、弱々しい声。もう疲れたのだと、そう言っているようにも聞こえた。
「なかなか、子供は出来なかった。あいつはそれを謝ることもあったかな」
子供ができない
その意味は平成の頃とは違う。当時、子を産み育て、お家を繋いでいくのは嫁の役目だった。
だからこそ子供が産めないというのは、女として重圧だったろう。
「だけど俺は気にしていなかった。始まりは見合いだったが、何年も連れ添ったんだ。なんなら小舞と二人きりの暮らしだってよかった。……愛して、いると。そう言えるようになったんだよ」
けれど責めるつもりなんてなかった。
始まりは見合いで、抱いた感情も最初は単なる好意だった。
けれど歳月を共にした。
二人で過ごして、楽しい日々を積み上げる程に、彼女を好きになれた。
醜い幼虫はサナギをつくり、いつしか美しいアゲハチョウとなって空を舞う。
それと同じ。
夫婦となった後に、彼は妻に恋をして。
いつしか愛するようになったのだ。
「だけど、あいつはそうじゃなかったんだろう。ったく、男と女ってな難しいなぁ……」
後の話は弥太郎も知るところ。
仲睦まじいと思われていた夫婦。しかし妻は出ていき、時折訪ねてきては金をせびる。
二人で紡いだ想いなど全て錯覚に過ぎなかったと見せつけられ、おしまい。
今日も明日も店主は一人で居酒屋『こまい』を切り盛りする。
それが全てだった。
「悪い、妙なこと愚痴っちまった」
「なあに、クロダイ食わせてもらったしな。聞く程度はしますよ、っと」
「安い男だな、おい」
「安くて結構、その方が手に届きやすい」
これで話は終わり。
お互い茶化し合っていつもの通りを演じてから、弥太郎はおもむろに席を立った。
結局何も注文はしなかった。今はどんなご馳走が出ても喉を通りそうにない。
「んじゃ、今度は飲みに来るよ」
「ああ」
気にしていないと伝える為にも、そう言って店を出る。
不思議なことに、重い空気の中でも時間というのは普通に進むらしい。
外は既に昼中、一歩出た途端に夏の日差しが無遠慮にこちらを突き刺してくる。
なのにぞくりとしたのは、思っても見なかった相手が待ち構えていたからだ。
「弥太郎、さん」
炎天の下だと、白い髪と白い肌が妙に目立つ。
いつの間にやら神の娘は自宅を抜け出して、ここで弥太郎を待っていたらしい。
どうしてここにいると分かったとか、よく道を覚えていたとか、そこら辺はどうでもいい。
聞きたいのは、聞かなくても分かってることだけだ。
「ついてくか?」
色々な装飾を省いた問いに、りるはこくりと頷いた。
店主に然して思い入れのない彼女がこうも能動的なのは、やはり“虫”が関わっているからか。
思惑などは読めないが、別に止める権限もない。そもそも弥太郎自身この件に関しては部外者で、ならば部外者が一人二人増えても同じことだ。
「んじゃ、行いきますかね」
「は、い」
そうして自然、りるの手を取って、真昼の花街を連れ立つ。
見上げれば、忌々しいくらいに晴れ渡る夏の空が広がっている。
雲一つなく抜けるように青く。鮮やかな風物を鬱陶しいと感じるのは、その眩しさに見合う自分じゃないと知っているから。
青線で管巻く虫どもにゃ、当たり前の光さえも強すぎるのだ。
◆
池袋西の須鳴神社は空襲で損壊し、去年ようやく改築が済んだばかりの真新しい神社である。
戦火を食い止められず焼けて、再建も後回しにされた神様のおわす場所。
神仏のご加護など得られそうにもないが、だいたいからして信心深い性格でもない。
単に静かだから気に入っているだけ。小舞はいつも通り、本殿に手を合わせることはせず、境内でぼんやりと時間を潰していた。
ふと過るのはいつも、一方的に別れた旦那のこと。
もともとは見合い結婚。
けれど親同士の仲が良かった為それなりには顔を知っており、接してみれば言葉遣いこそ荒いが優しい人だとも知れた。
戦後の時代、食べ物をギリギリの安値で売ろうとするくらいお人好しで。
そうやって食べてくれる誰かが笑顔になれば、自分のことのように喜ぶ。
つまりは、まあバカな人だったのだと思う。
けれど小舞は心から尊敬していた。
貧しさに荒まず、助け合おうと当たり前のように言えてしまう。そんな人だから尊敬し、そんな人だから好きになった。
始まりは恋でなかったけれど。
今でも彼女は間違いなく夫を大好きだと言えてしまう。
だから、きっと───
弥太郎ら二人は居酒屋からその足で池袋西の須鳴神社を訪ねた。
やはりというか、“彼女”はいる。
りるの耳には嫌な羽音が聞こえているのだろうか。表情からは一切の色が抜け落ちていた。
「よう、蜂女」
取り敢えずと背後から声をかければ、ゆっくりと小舞は振り返った。
今日もまた彼女は須鳴神社にいた。かといって参拝するでもなく、ただ中空に視線をさ迷わせるばかり。
虫でも飛んでんのか、と言おうとして、そういや虫はこいつの方かと気付き弥太郎は小さく苦笑した。
「また、貴方達ですか」
うんざりだと言いたげだが、そこで退くほど面の皮は薄くない。
嫌がられても強引に無理矢理突っ込むのが女衒というもの。不愉快そうな女の反応は無視して隣に並ぶ。
小舞は、逃げようとはしなかった。
変わらずただ虚ろに、ここではないどこかを見詰めていた。
「哲史さんに、何かを言われて此処へ?」
「はは。大将が、んな見っとも無い真似するかよ。こいつは常連客のお節介さ」
「わざわざ子連れで、ご苦労なことです」
「うん、娘じゃねぇけどな?」
軽く言い合っても和やかには程遠い。
小舞の態度は固く、目を合わせようともしない。
「夫婦の中に割り込むのは、無粋と思いませんか?」
「それを言われると辛いねぇ。だがよ、俺ぁ大将には世話になっててな。余計なことで店が潰れちゃあこまるんだ」
「本当に、あの人はよく慕われる」
それが苛立たしいと鼻を鳴らす。
彼女が見せた感情はそのくらいか。後は暖簾に腕押し、端から取り合うつもりもないと、顔色すら一切変えなかった。
「結局、あんたは何がしたいんだ」
「別れた夫にたかる妻。別に珍しい話でもないでしょう」
「自分で言ってて無理があると思わんもんかね」
「どちらにせよ、貴方達には関係のない話です」
とはいえそれも分からないではない。
なにせこちらはゲスな女衒と訳の分からない白い女の組み合わせ。
なるほど、胸襟を開く気にならないのも当然と言えば当然か。我が身を顧みれば怪しいことこの上ない不審者どもである。
「あなたの、心には、キセイバチが、います」
もっとも、うちの神の娘は軟禁生活が長く、その辺りの空気を読む能力が決定的に欠けていた。
不審者らしく不審な発言を、なんの躊躇いもなくして下さった。
「幼虫を食べて、育った蜂。あなたは、なにを、なくしました、か?」
「え……?」
「あなたの心が、食べてしまった、想いが。きっと今も、あなたを、責め立てている」
戸惑う小舞を余所に、弥太郎はその言葉を咀嚼する。
りるは心に巣食う虫を視る。
つまり、当人すら意識していない心の奥底を、抽象的な形ではあるが理解しているのだ。
「面白いことを言う子ですね」
「まあな。だが、外れてもいないだろ?」
「どうでしょうか」
であればキセイバチこそが小舞の真実。
蠢く醜悪な虫は、彼女の想いを食べている。
「ともかく、私はこれまでと変わらずに店を訪ねます。あの人の生活が心配なら、高いお酒の一つでも頼んで売り上げに貢献すればいいでしょう」
「おお? なんだ、今のは妻っぽいじゃねえか。まるで、大将のコト心配しているみたいだった」
「……っ、それが、なにか? 元とはいえ妻ですので。その程度の気遣いはします」
微かに歪んだ表情は、もしかしたら彼女の素だったのかもしれない。
だから決して夫を憎んでいる訳ではないのだろう。
尊敬して、大好きで。きっとそこに嘘はなかった。
「旦那さんはよ、あんたを愛してるって言ったぜ。そっちはもう、そういう気持ちは残ってないもんかね」
だから乱雑に言葉をぶつければ、初めて小舞の声に感情が宿った。
「うるさい。あなた、に……なにが分かるのですか」
痛いところを突かれて、おそらく、”虫”が一際大きく動いた。
保っていた平静は僅かに崩れ、つまりこの辺りが彼女の心の腐った部分で。
”あなたの心が、食べてしまった、想いが。きっと今も、あなたを、責め立てている”
そこを、キセイバチが、食べてしまったのだ。
「ああ、そっか」
だから弥太郎は気付いた。
尊敬の念や好意を抱きながら、勝手に出ていき、今では金をせびるようになった理由。
そこにあった、想いの形に。
「お前さん。もう残っていないかも何も、結局、大将のコト」
───初めっから、夫だと思っていなかったのか。
ひどく適当な、雑談の流れで口にした程度の軽さだった。
けれど小舞は初めてこちらを向き、目に見えて動揺していた。
見えなくても分かる。彼女の胸元にいる虫は、きっと今ざわざわと騒ぎ出している。
「旦那憎しであんな真似してると思ってた。でも違ったんだな」
「なに、を」
「憎んでなんかいなかった。尊敬も、大好きなのも本当。……だけど、夫として“愛せはしなかった”」
「……やめて」
弥太郎の言は小舞の急所を刺した。
毒が回ったせいか。再び、彼女の顔に獰猛な蜂を幻視する。
おぞましい羽音をたてて、がしゃがしゃと顎を開閉し、なのに隣にいるキセイバチは、酷く寂しげに嗚咽を漏らす。
「大将は言ってたよ。見合い結婚だったが、後から好きになって、愛するようにもなったって。でも、お前さんは違った。どれだけ歳月を重ねても……」
「違う、違うの。私は、哲史さんを尊敬しています。今でも、大好きなんです」
見合いをした頃から、その気持ちにずっと変わりはない。
結婚して、歳月を共にすれば。
尊敬や好意はいつか夫婦の愛情に変わるのだと思っていた。
「じゃあ、なんで傍に居なかった?」
「だって! だって、あの人は……私なんかとは違った」
だけど逞しく戦後を生きる夫の姿に思う。
彼はヤミ市だった頃から、池袋の人々の為に食べ物を安く売っていた。
自分が腹を空かせても。誰かが美味しいと言ってくれば喜んだ。
そういう哲史への尊敬は深まり、大好きだという気持ちにも嘘はなく。
けれど妻として、夫を愛する気持ちは欠片も沸いてこなかった。
それどころか───
「夫婦になって、彼はちゃんと想いを育んでくれた。なら私だって、愛せると思っていたの。でも、あの人を前にすると、何もできない自分が惨めで……」
見合いには親の思惑も多分に混じっていた。
戦時中だ、面倒を頼みたいと。哲史もそれを分かっていた。分かっていて、何も言わず受け入れた。
そうやって始まった結婚生活。幸せではあったと、迷いなく言える。
夫は優しかった。子供ができないと嘆けば「二人きりが嬉しい」と照れながらも伝えてくれた。
貧困に喘ぐ戦後を、それでも背筋を伸ばして生きる。そういう彼を尊敬もした。
いつしか夫は好意を愛情に変えて注いでくれた。
なのに小舞は嬉しいとは思えなかった。
尊敬していて、大好きな筈なのに。
いつしか、戦後の貧困の中、それでもまっすぐにいられる哲史の在り方が疎ましくなった。
「彼だけが夫になって、私は妻になれなかった。ずっと、大好きだと思っていたのに。愛することさえ、できなくて」
だって彼のようには生きられない。
周囲に慕われて、自分が腹を空かせても周りのために働いて。
醜い心根の女にすら想いを注いでくれて。
なのに、子供なんていらないと言ってくれる彼に、愛情すら返せない。
そんな自分が殊更惨めに感じられた。
「なんであの人ばっかりうまくいくのって。そう思ってしまうくらい、私は彼に、“嫉妬”してた……!」
本音を言えば。
小舞は、自分では持ち得ない“きれいなもの”を見せつける彼に、ずっと“嫉妬”していたのだ。
「……なるほど、こいつはキセイバチだ」
キセイバチ。
特にアゲハヒメバチと呼ばれる種は、アゲハチョウの幼虫に卵を植え付ける。
卵が孵化した後は宿主を食べながら育ち。
サナギの中から出てくるのは、美しい蝶ではなく、おぞましい蜂だ。
彼女も、そうだったのだ。
サナギの中で大切に育ててきた幼虫。
いつかは蝶となって青い空に踊るのだと信じていたそれは。
本当は、美しかった想いなんて、とうの昔に食い荒らされて。
サナギから出てきたのは、目を背けたくなるくらい醜い嫉妬。
『あの人ばっかりうまくいってる。羨ましい、妬ましい』
そんな些細な気持ちが植え付けた卵は、孵化して想いを貪り食い、もう取り返しもつかない程に大きく育ってしまった。
「じゃあ、金をせびってたのは」
「お金になんて困ってない。でも、そうやってひどい妻でいれば、あの人だって私を嫌って、醜く罵ってくれる。そうしたらもう嫉妬しないで済む。あの人が私と同じぐらい醜くなれば、きっと、またやり直せるじゃないですか」
醜く罵って欲しかった。
アゲハチョウの羽が破れて、醜く地面に落ちてしまえば。
キセイバチでも傍に居ていいのだと思った。
「なのに、いつまでたっても、彼は私を責めずに……!」
ああ、やべえ。
こいつ、蜂の毒が回って頭おかしくなってやがる。
弥太郎は、その激情に顔を引き攣らせる。
なんて歪な。
愛情になれなかった執着は、こうもおぞましいものなのか。
「……とても、素晴らしい、です」
けれど、りるの抱いた感想は全くの正反対だった。
美しい景色に感銘を受けるような、透き通った微笑み。
一瞬。僅かに一瞬だが、この状況でさえ見惚れてしまった自分に弥太郎は気づいた。
「おぞましいくらい、自分勝手な、好意」
「長く、育ててきた、醜悪な“嫉妬”」
「あなたの心に巣食う、キセイバチは」
「本当に、美味しそう……」
止める暇もなかった。
りるは、小舞の胸元へそっと手を伸ばす。
そして空を掴んだかと思えば、緩やかにそれを口元へ。
その時、弥太郎は確かに見た。
小さな手、白い指先が、捉えたもの。
がしゃがしゃと動き逃れようとする、蜂の姿を。
「いただき、まぁす」
蜂の外皮が噛み砕かれる音を聞く。
ぶちゅりと、なにかが飛び出した。
汁気たっぷりの身を咀嚼し、しっかりと味わい。
ゆっくりと飲み込む。
「あ、あ……」
その瞬間、糸が切れたように、小舞は倒れ込んだ。
咄嗟のことで支えるのも間に合わない。
神社の境内で、まるで土下座でもするかのように崩れた女。
それをただ見詰める“神の娘”。
現実感のない終わりに、弥太郎は何も言えず、ただ立ち尽くしていた。