【キセイバチ夫婦噺】・2
キセイバチ。
特にヒメバチ科に属するキセイバチには、アゲハチョウに寄生する種が存在する。
この種は、まずアゲハチョウの幼虫に卵を植え付ける。
卵は幼虫の体内で孵化。
キセイバチの子供は、宿主の体を内側から食べて成長していくのだ。
生かしたまま維持し、決して殺さず。
キセイバチは宿主がサナギになるまで、生かさず殺さず、体内の肉を食べ。
そしてサナギになれば、もう用済みだと、今度は死ぬまで貪り尽くす。
結果、サナギから生まれるのは。
美しいアゲハチョウではなく、幼虫を餌に育ったキセイバチだ。
こういった宿主を必ず殺してしまう寄生のこと『捕食寄生』と呼ぶ。
キセイバチの多くは、この捕食寄生者である。
◆
横たわる夏に、息苦しいほどの熱気。
それも日が落ちれば多少は過ごしやすくなる。
橙色が滲んで藍に変わる頃合い。
東京は池袋、花座横丁はここからが本番。けばけばしいネオンのピンクが通行人を照らし、下品な喧騒が辺りを包み込めば、青線地帯としての池袋……一夜の夢と消える非合法の花街が顔を覗かせる。
盛夏の夜に微かながら漂う、鼻腔を擽る特有の蒸れた甘い香り。
ところどころで小奇麗に着飾った娼婦が客引きをしている。
ようやっと開き始めた店屋を冷やかしながら、弥太郎は夜の花座横丁を歩く。少し後ろからは、りるもとてとてついてくる。
「おう、弥太郎。いつの間にガキこさえた?」
「うちの新顔だよ」
「は、相変わらず珍妙な趣味してんなぁ」
容姿は整っているがちと幼く、肌といい髪といい真っ白。
やはり娼婦としては奇妙には見えるようで、道すがら声をかけてきたご同業も今一つしっくり来ていない顔。
まあ、そこは仕方ないか。弥太郎は小さく苦笑を落とす。
「すごく、人が、多いです」
「はは、伊之狭村じゃお目にかかれない混雑だろ?」
「は、い」
りるの方は煌びやかな青線の夜に目をまん丸くしている。
田舎の集落で軟禁されて二十年、こうも人が集まる通りなど初めて。きょろきょろと辺りを見回す様は、本当の子供のようだ。
弥太郎が気遣い、迷子にならないよう少しだけ歩く速度を落とすのも自然の流れだった。
「あんま離れんなよ」
「分かり、ました」
「よし。で、今日の晩飯は俺の行きつけで食おうと思ってな。『こまい』つって、酒も旨いが飯もいけるんだ」
先日の約束通り、『こまい』の店主に紹介がてら遅めの夕食。
ついでに前回は妙な女の乱入もあったので、あちらさんの様子も確認しておきたかった。
「紅葉、さんは?」
「ああ、今夜はお仕事だ。一緒に行くのは次の機会だな」
紅葉は一緒に行かないのか、りるがそう尋ねる。
数日で同居人に気遣う程度には人との付き合い方を覚えた、ということ。その辺り、やはり彼女は基本的に聡い。
僅かながら成長の片鱗、これもいい肴になりそうだ。
そういえば二十歳ならこの娘も酒は飲めるのか、などと考えていると、すっと視界に入り込んだ影。
立ち止まり目を向ければ、雑踏の中、とある女性の姿を見つける。
「あれは……こまい、だったか?」
一度見ただけだが、印象が強かったから覚えていた。
もちろん悪い方に、ではあるが。
確か名前は、小舞。
以前、居酒屋『こまい』に訪れた、冷たい印象の三十半ばくらいの女だ。
「弥太郎、さん?」
いきなり固まった弥太郎を不思議に思い、りるも視線を辿る。
どうやら向こうも気付いたらしく、人の流れに沿いながら、小舞は小さく頭を下げた。
もちろん話し込みはせず、そのまますれ違うだけ。別段親しくもない相手だ。当然と言えば当然だった。
「あの、女性……」
「あぁ、なんでもないんだ。悪いな、行こう」
そう、なんでもない。
少しだけ、もやもやとしただけのことだ。
弥太郎はすぐさま目を切ったが、りるはまだ気になるのか長くあの女を見詰めていた。それも急かせば素直に従い、二人は再び歩き始める。
しばらくすれば馴染みの暖簾も見えてきた。
今夜の目的、居酒屋『こまい』である。
「よう、大将。邪魔するぜ」
いつもは閉店間際なので殆ど貸し切り状態だが、さすがに夜も浅い時刻、さほど広くない店は結構な客入りだ。
ちょうどカウンターの端が空いたので、店主の手振りに従ってそちらへ滑り込む。
「らっしゃい。蓼虫、そいつが新顔か?」
ことん、目の前に置かれた多少くすんだガラスのコップ。
注がれた水を喉に流し込めば、体の熱も軽く落ち着いてくれた。
「ああ。りる、ってんだ。聞かれる前に言っておくけど、日本人だし二十歳だよ」
「ほぉ。相も変わらずキワモノ趣味だな」
「別に趣味って訳じゃないんだがなぁ」
ただキワモノばかり取り扱っている自覚はあるので、あまり強くも反論できない。
にへらと笑って誤魔化して、とりあえずそこで話を打ち切り、今夜の本題とりるに挨拶を促す。
「さ、りる」
「分かり、ました。弥太郎さん、の下で。娼婦となりました、りると、申します。どうぞ、よろしく、お願いします」
声の方も容姿と同じく幼く高め。
たどたどしくも丁寧にお辞儀をすれば、店主は笑ってそれに応える。
「こらどうも。俺はこの店のしみったれたオヤジだ。まぁ、同じ町に住んでんだ。なんかあったら頼れ」
「は、い。……オヤジ、さん?」
「呼び方はそれでいいさ。蓼虫にいじめられたら言えよ」
花街の飲み屋ではあるが、『こまい』の店主は気のいいおっさんだ。こうやって顔繋ぎをしておくのは、りるの今後の為になる。
この時点で目的はほとんど達しており、後は気楽に晩飯を食うだけ。
「誰がいじめるかっての……。あ、大将。今日は飯食うつもりで来たんだ。白米と、おかずになりそうなもん幾つか頼むわ。酒はなしな」
「あいよ」
「おっと、お値段は高くなり過ぎないようにな」
「いや、今日は俺の奢りだ」
「おお?」
そいつは随分と気前がいい。
どうしたんだと視線で問えば、店主は居心地悪そうに肩を竦める。
「前は、迷惑かけたからな。詫びと思ってくれ」
“前”というのは乱入してきた、先程ちらりと見た、小舞とかいう女のこと。
実際には迷惑なんぞかけられた覚えはないが、晩飯一食分で店主の罪悪感が軽くなるというのなら、そこは有り難く奢られておく。
「あー、そいつぁ……聞いてもいいって、ことか?」
そして本当は、わざわざ話題にしなければ、弥太郎は前回の件は「何もなかった」で済ませるつもりだった。
お互いに花街の男だ、その作法は十二分に理解している。
過去を問うなど無粋の極み。いかな経緯であろうと流れてきたなら受け入れるのが花街だ。
店主とあの女の関係も、話したくないならそれでいいと思っていた。
「あいつ。こまいは、妻だよ。もう別れたが」
「妻?」
「生活が苦しいのかな。時々、金をせびりに来る」
しかし店主はそれだけ零した。
答えた後は調理に戻る。問い掛けても、もう何も返ってこないと分かった。
前回の礼にあの女が何者かだけは明かす。これ以上は踏み込んでくれるな。
その意味を弥太郎は違えない。
だから後はただの客として、料理が出てくるのを待つ。
「こういうところの、ごはん、楽しみ、です」
「おお、楽しんでくれてるなら何よりだ」
無邪気なのか、気を遣ったのか。
足をぶらぶら揺らしながら浮かれている、りるの存在が今はありがたかった。
夕食を終えて表に出れば、相も変わらず夜の花座は騒がしい。
けばいネオンに、花街らしい独特の活気、ぬるい風。心地よいとは言い難いが、これも風情というものだろう。
「ごちそう、さま、でした」
居酒屋のメシはりるの舌に合ったらしい。
表情は変わらないまま、しかしお腹をさする姿は実に満足そうだ。
「おう。腹は膨れたか?」
「十分、過ぎる、ほどに」
「ならよかった。んじゃ、帰るかぁ」
本来ならこれからが花街の時間だが、りるを連れてそういう訳にもいくまい。
ここは素直に自宅へ戻る。まったく、蓼虫の女衒が健康的な。なんとなく面白くて鼻を鳴らす。
二人並んで歩く夜道は、夕食が美味かったおかげか、随分緩やかに時間が流れる。
「あすこは俺の行きつけでな。いい店だろ?」
「は、い」
「なんだかんだ、大将とも付き合いは長い。なんかあったら頼れ。たぶん、無碍にはしねえさ」
これからも池袋で生きていくなら、顔を知っている程度の知人でも増やしておいた方がいい。
しっかり食ったし、目的も一応のこと成功。あれで店主は面倒見がいい。見知った相手なら多少は気遣ってくれる筈だ。
「オヤジさん、いい人、でした」
「まあな。言葉は荒いが、あれで意外と優しいんだよ」
「本当。キセイバチを妻にしたとは、思えないくらいに」
「だろ? ……………ん?」
時間が緩やか過ぎて、一瞬そのまま流しそうになった。
しかし、りるは、今。
何か妙なことを口走ったような。
「おい、りる」
「どう、しました、か?」
「どうした、もなにも。今、妙なこと言ったろ?」
弥太郎は顔を引き攣らせて問い詰める。
神の娘。その異能は、十分理解していた。
「こまい、さん。というのは、先程見た女性、ですよね?」
呟きをちゃんと聞いていたらしい。
間違いはない。
居酒屋『こまい』に行く前見かけた女。あれが“こまい”。店の名前に付けるくらい店主が想いを注いだ、かつての妻だ。
そういえば、りるはしばらく彼女を見詰めていた。
何がそんなに気になるのか、あの時は理解できなかったが。
今にして思えば、つまりそういうことだったのだろう。
「あれは、キセイバチ、でした」
神の娘は、心に巣食う虫を視る。
ならば店主の妻……こまいの心には、キセイバチが巣食っているのだ。
◆
居酒屋『こまい』、その店主である哲史のこれまでは非常に簡単だ。
命からがら戦争を生き延びた。
帰ってきたら故郷の池袋は焼野原だった。
生き残ったなら、生きなくてはいけない。
なら歯を食いしばって生きていこうと、ヤミ市で食い物屋を開いた。
食料の商いを選んだのはそれだけ需要があったから。
終戦したばかりの頃は、皆が皆、とにかく腹を空かせていた。
だから多少無茶をして米だのうどんだのを仕入れては、ぎりぎりの安い値段で売る。大した儲けにはならなかったが、メシを食って元気になる人々の顔が嬉しかった。
『すまんな、こまい』
『いいえ。それが哲史さんですから』
そういう生活を支えてくれたのが妻、小舞だった。
もともとは親の紹介での見合い結婚。それも戦時中のことである。
しかし以前から家族ぐるみでの交流があり、年齢も然程変わらない。
最初からお互い憎からず思っており、滞りなく二人は結ばれた。
『お前には、苦労ばっかりを掛ける』
『苦労だなんてことはありません。今は皆が大変な時なのですから。さあ、明日も頑張りましょう』
『ありがとうな。あい、あー、愛して……いや、なんでもない』
『ふふっ』
国難に翻弄されながらも戦争を生き残り、戦後には池袋で肩を寄せ合って。
荒い口調の割に哲史はお人好しで、自分が食う分も売りに出す始末。おかげで食卓はいつも乏しかったが、二人は確かに幸せだった。
───それが狂ったのは、いつの頃だったか。
『この店は、“こまい”だ。それしか思い浮かばなかった』
『少し、恥ずかしいですね』
『何言ってんだ。俺の自慢の女房だ、誰に恥じることもねえよ』
少しずつ日本の復興は進み、焼野原だった池袋も見られるようになってきた。
そんな頃、花座横丁の一角に居酒屋が暖簾を出す。
店主はたいそう愛妻家で、店の名前も妻にあやかるくらい。
居酒屋『こまい』。
安くてうまい、営業時間は夜から朝にかけて。
花街に彩り添えるその店は、焼野原だった頃から池袋を支えてきた店主の人柄もあって、当初から住民に親しまれていた。
小さいながらに一国一城の主。
毎日は忙しいが心地よくもある。
空から爆弾は降ってこないし、仕事があって稼げて飯も食えて。
なにより愛しい妻が、いつだって傍らには居てくれる。
子供は中々生まれなかったが、二人だけの暮らしも幸福で満ちていた。
『哲史さん』
『ん?』
『……いえ、なんでもありません』
けれどある日、妻はいなくなった。
前触れもなく本当に突然。店の売り上げを盗んで、小舞はどこかへ消えてしまった。
どうして。
訳が分からない。夫婦は仲睦まじく、知人友人かこぞってからかうくらい。
そりゃあ喧嘩暗い時にはしても、ちゃんと思い合えていた筈だった。
『こまい、お前……!』
『ねえ、哲史さん。お金、恵んでくれませんか』
それも勘違いだったのか。
以後、小舞は時折店を訪ねては、金をせびるようになる。
突っぱねればいいだろうに、哲史は素直に払った。
そうしなければもう二度と来ない。そんな気がした。
勝手に出ていかれ、金をせびられて。
それでも放置していた理由。
結局、彼はまだ───
◆
「なんかよー、まためんどくさいことになりそうなんだよー」
「……それで、何故俺のところに来る」
「だって愚痴聞いてくれそうなのマサ坊しかいねえし」
小舞の心には、キセイバチが巣食っている。
そうと聞いた翌日、弥太郎がまずとった行動は正義に絡むことだった。
花座横丁の通りを掃除している最中、だというのに思い切り邪魔をしている。呆れたような目で見られてもなんのその。道に座り込んでぶつくさと、大したみっともなさだった。
「面倒なら首を突っ込まなければいいだろうに」
「そりゃそうなんだが、なぁ。こっちにも事情が」
普通の男女のいざこざなら放置する。
横槍なんて無粋だし、過去をどうこうなど花街ではご法度。
他人様の事情にとやかく言えるほど立派な人物でもなく、つまり本当は、放っておくのが正しい。
「事情?」
「あぁ……こいつがよ」
問題なのは、渦中にいるのが世話になっている店の大将であること。
そしてなにより、うちの神の娘が、めちゃくそ乗り気であることだ
「弥太郎さん、いきま、しょう」
ぐっと握り拳を作り、無表情でありながら妙に力いっぱい。
弥太郎の隣でりるは「さあ、この件に首を突っ込みましょう」と急き立ててくる。
割合本気で面倒臭い。けれど放っておいたら一人で暴走しそうで、結局保護者面して付いていく羽目になったのだ。
「りると、随分仲良くなったじゃないか」
「こういう仲の良さは、求めてなかったかなぁ」
いや、世話をするつもりではいたし、虫篭の集落から連れ出した以上は責任もあるとは思う。
それでも、こういう振り回され方は予想していなかった。
軟禁されていたとはいえ元箱入りのご令嬢。そこはおとなしくしていて欲しかった。
「それでも付き合う辺りが弥太だな」
「しゃあねえだろ。義理と人情は捨てられねえもんさ、特に俺らみたいなのは」
文句はあるが、一度背負ったなら下ろすつもりもない。
コオイムシの代わりにはなれないが、職責を放棄するのは女衒の一分に反する。
だから正義に零したのは真実ただの愚痴で、そもそも花座横丁へ来たのは、昨夜この辺りで小舞の姿を見かけたからだ。
「あー、ちっとはすっきりした。よっしゃ、りる、行こうぜ」
「は、い。ではこれで」
「結局お前らは何しに来たんだ」
散々仕事を邪魔して後は適当に挨拶し、正義を置いて二人は探索に戻る。
弥太郎は居酒屋『こまい』の常連になってまだ一年、二年。店主の身辺まで知っている訳ではない。
ただあの店は池袋にヤミ市があった頃から続いている。色々と事情を知っている者も多く、ご同業に聞けば結構簡単に情報は集まった。
戦時中に結婚、戦後店を開き、しばらくして妻は出ていった。
今では金をせびる時だけ訪ねてくる。
断ればいいだろうに、律儀に店主は払い続けているそうだ。
この前も金をせびりに来たのだろう。
まあその辺りは二人のどうこう、弥太郎から別段言うことはない。
けれどりるは“虫”が気になるらしく、小舞を追う羽目になってしまった。
もっとも土地勘はないので、先導は当然弥太郎だ。
花座横丁の脇道に入り、小汚い路地を抜けて、しばらくして都市部の復興がよく分かる駅前へぶち当たる。
そこを更に西側へ歩いていけば、辿り着くのは比較的敷地の広い神社。
池袋西口の鎮守として造営されたが空襲の被害に遭い、去年ようやく社殿が改築されたばかりの須鳴神社である。
「話じゃ、最近はよくここに出入りしているってよ」
金に汚そうだし、信心深そうではないのに。
だいたい空襲を止められなかった神様のご加護は如何ほどか。
罰当たりなことを考えつつ、鳥居をくぐった先、確かにどこかで見た顔がある。
「いま、した」
りるには多分、別のものが見えていて。
もちろん幻聴だが。耳元で、嫌な羽音を聞いたような気がした。
「弥太郎さん、お願い、します」
「あ、矢面に立つのは俺なのな?」
ここまで来たはいいが、実際にあれこれ話すのは弥太郎の役目らしい。
実はほとんど強制で連れてこられただけなので、りるの望む着地点が今一つ分からない。
しかし『こまい』の常連として、言いたいことがない訳でもなし。
ご要望がないのなら、こちらの勝手で進めさせてもらうとしよう。
「どうも、こんちわ」
「貴方は、店にいた……」
乱雑に挨拶すれば、向こうも一応は覚えていたようで、小さくだがお辞儀をした。
ただ声をかけられた理由までは分からず怪訝な顔。
まあ、そういう反応になるよな。
気持ちはわかるのでそこは指摘せず、どう切り出したものかとガシガシ頭を掻く。
「あー、とですね。あの店の、常連です」
「そうですか」
「んでまあ、色々知っちまったもんでね」
ぴくり、小舞の眉が動いた。
色々。それだけで察せるものはあったようで、瞳の温度があからさまに下がる。
「さすが、哲史さんは色々な方に慕われているのですね」
「まあ面倒見は良いし、口は荒いがお人好しだしなぁ」
「ええ、本当に」
おお、怖い怖い。
随分と情念の籠った言葉を聞きながらも飄々と、しかし女衒らしく不敵に口の端を吊り上げてみせる。
「大将の元奥さんで、金をせびってるって聞いたが」
「ええ、間違いありません。いつも哲史さんから少しばかりいただいております」
「どうして、とか聞くのは花街の男じゃねえな。まあ、なんだ。俺ぁこれでもそこそこ名の通った女衒なんだが……蓼虫の弥太って知ってるかい?」
淡々とした声、落ち着いているを通り越して投げやりな態度。
小舞の纏う空気は冷たい。なんで店主はこんな女を妻にしたんだか、そう思ってしまうくらいに。
「いいえ」
「ありゃ、残念。まあそれは良いとして、あんま大将をいじめないでやってくれねえかな。生活費に困ってんのかね? 金が欲しいんなら、仕事紹介できるぜ」
「結構です、そもそもお金には困っていませんから」
やはりというか、冷たくきっぱりと切り捨てる。
金に困っているなら元旦那にたかるのはやめて、娼婦でもやれや。
我ながらクソったれた提案だ。拒否されるのは分かっていたが、彼女の返答に弥太郎は眉をひそめた。
「娼婦が嫌ではなく、金に困っていない?」
「ああ、そうですか。貴方は私が生活に困窮して哲史さんを頼ったのだと勘違いしているのですね」
そりゃあそうだ。
生活費が欲しいからか。或いは困窮していなくても、遊び金欲しさに元旦那から搾取しているのだと考えていた。
しかしそうではないのだと小舞は言う。
「じゃあ、なんでわざわざ」
「わざわざ、金をせびりに行くのか、ですか? そんなの決まっているじゃありませんか」
そこでようやく、彼女は笑った。
「あの人の、苦しむ顔を見る為です」
たぶん、笑ったのだ。
光のない目を見開いて。
口を歪めて、掠れた声を漏らして。
小舞は獰猛に、笑顔に似た表情を作っている。
「必死に働いたお金を奪われて。失望して、それでも逆らえないで。苦悶に歪むあの人の顔を見る為だけに、私は彼に会いに行くの」
ああ、やべえ。
俺もりるに毒され過ぎたか。
おぞましさに、意識せず一歩を退いた。
神の娘は人の心に巣食う虫を視る。
もちろん彼にそんな力はなく、だが“毒され過ぎたのだ”と思った。
だって、虫がいる。
弥太郎には。
醜く歪む女の顔が、蜂のそれに見えた。




