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花に惑いて虫を食い  作者: モトオ
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序章:【墓参の客】


 昭和。

 古き良きなどと言うつもりはないが、泥臭くも活気があった時代のこと。

 夏は、随分と暑かったように思う。 




 ◆


 


 東京は豊島。南池袋の霊園に、その男の墓はある。

 名を弥太郎やたろう

蓼虫たでむしの弥太”といえば、東京近郊ではそこそこに名の通った女衒ぜげんだった。

 亡くなってから既に一年。しかし彼の死を悼み、墓を訪ねる者は然程もいない。

 それも当然か。

 女衒は“女衒おんなうり”。文字通り、どこぞで攫ってきた女を性風俗業者に売りつける。

 人身売買を生業とする男が惜しまれるような人格である筈もない。実際その人となりを知る者ならば誰もが言う。


“弥太郎は意地汚く金にも汚く、女を食い物にし、更にはそれを悪びれもしない”

“つまりは根っからのクズだった”

 

 大日本帝国は太平洋戦争において敗戦した。

 戦後はGHQによる民主化政策が敷かれ、復興が進むと共に社会の有様は大きく変化。人権意識の普及や、古くから続く公娼制度の廃止もまたその一つだった。

 といっても吉原などの花街は「特飲街」と名称を変え、私娼街としてそのまま営業を続けていく。警察も特飲街での売春行為に関してはある程度許容し、これらを俗に「赤線あかせん」と呼び、その営業を黙認したのである。


 赤線地域は売春防止法が完全施行されるまでの短い期間ではあるものの、社会現象となるほどの隆盛を見せた。

 しかし弥太郎の出入りする池袋界隈は、いわゆる“青線”である。

 こちらは警察に黙認された赤線とは違い、完全に非合法なモグリの花街だ。

 蓼虫と揶揄された女衒は青線を拠点とする。つまり弥太郎は昔ながらの、タチの悪い人身売買業者そのものだった。


 けれどそういう古い女衒も、今は物言わぬ死骸となって墓の下にいる。


 重ねて言うが、弥太郎は間違いなく屑だった。

 食い意地が張っており金にも汚い。

 貧しい身の上の女を買い取っては青線の娼館に売り飛ばす。

 そうやって得た金で遊んで暮らしていた男は、最期には自分が売買した女に刺し殺された。

 散々女を食い物にしてきた輩だ、似合いと言えば似合いの末路だろう。


 その人格は他から慕われるようなものではなく。

 けれども彼には墓がある。 

 係累がいないにも関わらず無縁仏とならなかったのは、墓の管理を申し出る者がいたからで、ごく僅かながらに物好きな墓参の客も訪れる。


「……いいざまじゃあないか、弥太郎」


 墓石を鼻で笑う妙齢の女性もまた、そんな物好きの一人だ。

 顔の半面が火傷で爛れた、お世辞にも美しいとはいえない容貌。霊園では幾らか人とすれ違ったが、その度に奇異の視線を向けられる。

 もっとも当の本人は気にしているのかいないのか、顔色一つ変えない。

 だからと言って墓地に相応しい粛々とした雰囲気も纏わない。浮かべるのは哀しみとは縁遠い、侮蔑の混じった嫌な目付きだ。


「散々食いモノにしてきた女に殺されたんだ、本望ってもんだろう?」


 墓前に供える花もない。死者を悼む心なぞまるで感じさせない。

 女の名は紅葉くれは。弥太郎との関係は簡潔だ。彼女の言を借りるのならば、紅葉は「食いモノにされた側」だった。

 戦後の貧しい家庭、食うものにも困る生活。まあ後は在り来たりな流れだろう。

 弥太郎が紅葉につけた値段は四十万。ゆうに二年は働かずに暮らしていける程の大金だ。 

 顔が火傷で爛れた娘、嫁の貰い手なんてある筈もない。両親は諸手を上げて喜び、いともたやすく彼女を売った。

 以来紅葉は青線で春をひさぎ続けている。それでも以前の貧しい生活よりは、飯が食える分マシだろう。

 喉の奥に引っ掛かる何かを無視すれば、ではあるが。


「ったく本当に、苛立たしい奴だよ。あんたのせいでこんな目に遭ってるってのに、勝手に死んじまってさ」


 知らず、指先は火傷の跡に触れる。子供の頃に出来たもので、見てくれ悪くとも痛みは既にない。

 それでもこの火傷があったから紅葉は弥太郎に目を付けられた。

 そう思うと複雑な気分にもなる。墓参りは彼の死を悼むというよりは、未だ紐解けない自身の感情に整理を付けたいからだ。


「なんで、だろうね」


 呟いた言葉は色々な意味が混じり過ぎて、何を指すのか多分紅葉自身よく分かっていない。

 なんで娼婦などになってしまったのか、今の境遇を嘆いたのかもしれない。

 なんで弥太郎は火傷跡の目立つ女なぞを買い付けたのかと、趣味の悪さをあげつらう気持ちもあった。

 なんで態々あんなくそ野郎の墓参りに来てしまうのだろう、掴み切れない感情の話でもあったり。

 後は……なんで、こんなに早く死んでしまったのか、とか。

 つまりはどうにもならない心情の吐露に過ぎず、零れた声はいつものように誰にも届かないまま消えてしまう。

 なんで、といくら自問自答しても分からないものは分からないままだ。


「聞いたら、あんたは答えてくれたかい?」


 そういえば、と思い出す。

 弥太郎は分からないことも聞けば大抵教えてくれた。そういう時は決して面倒臭がらず、無知を馬鹿にしたりもしなかった。それはあのクズの数少ない美点であった。

 だからといって評価が覆る筈もなく、紅葉にとって弥太郎はいつまでも最低の女衒でしかない。ただ、クズ相手にも爪の先ばかりの感傷はある、程度の話だ。


 ふと過った懐かしさに、紅葉はそっと目を伏せる。


 夏の陽炎の先に、少し昔の出来事を映し出す。

 あれはまだ弥太郎が生きていた頃。

 ゆらりと揺れる空気の向こうに見えるのは、くそったれた、お世辞にも幸福とは呼べない。

 けれど逃げ出そうとも思えなかった、青線での日々。



 紅葉はかつて、蓼虫の女衒の下で、確かに笑っていたのだ。



青線の女衒が春を売る街で、歪な愛情に触れる物語。

つまり青春ラブストーリー。

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