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第一幕『目が覚めると、十年前だった』

 田舎では二十二時に信号が点滅し始める。

 それを見上げて歩くのにも慣れた。

 背の低い家しかない町並みも、所々にある空き地も、寂しいと思わなくなっていた。

 引っ越し初日の夏の夜だった。

 蛇口からは茶色い水が出て、庭の草は伸び放題。愛猫ペトロニウスの夜鳴きでアパートを追い出された僕が、管理することを忘れられたような一軒家に転がり込んだのは、親戚の温情があってのことだった。

 風を通して掃除をしてくれたら無料で貸してあげる。

 とんでもない好条件だ。

 家を買うなんて貯金もない僕は、アパートに搾取される他に道はないと思っていた。それを思えばこの条件は渡りに船だ。


 歩いていると、この地方に戻ってきた時のことを思い出す。

 町を眺めるだけで胸が締め付けられた。あのビル街の思い出と比較して、現状が切なくてたまらなかった。

 僕は敗残者であり、負け犬だった。大学生になる頃に、都会を夢見て飛び出して、その場所に適応できずに帰って来たのだ。

 その後も何度か地元を飛び出したが、それも全ては過去のこと。


(受け入れるのが上手になるのが、大人になるってことなのかな)


 なんてことを、最近思う。

 地元での仕事にも慣れた。激しい派閥争いの中で誰にもぶつからないように忍び足で歩くような日々。それでも、愛猫とともにくつろぐ時間は悪くはない。

 コンビニでダイエットコーラ二本とペット用の鮭を買った僕は、家へと戻った。

 ともかく、男一人で住むには勿体無い一軒家である。十個の部屋があるその和風住宅は、持ち主が認知症になってグループホームに預けられてからは放置されたままだった。

 玄関の鍵を開けて、中に入る。

 目に入るのは、誰が置いていったのかわからないバーベル。冬用タイヤ。何を考えて購入されたかわからない車の座席。新聞紙の束。書類の山。

 どうも、元の持ち主が去ってからその息子一家が物置に使っていたらしい。

 今では足の踏み場がある部屋のほうが少ないという惨状だった。


 ネットやテレビ関係の工事に踏み切れないのも、この散らかり具合が原因だった。

 昔の僕ならば、こんな家とんでもないと飛び出していただろう。

 けれども、年を経るということは偉大だ。今の僕には、アパート代のほうが惜しい。少しの手間でアパート代が節約できるなら、それに越したことはないと思うのだ。

 愛猫ペトロニウスが階段を降りてやって来た。

 僕が鮭の袋を音を立てて振ると、目を輝かせて飛んでくる。

 この愛猫ペトロニウスは、バレンタインデーに産まれた黒猫だ。チョコレートの日にチョコが食べれない猫が産まれたというのもナンセンスな話だが、母親が誕生日が曖昧な彼の話を聞いて、どうせならばバレンタインデー産まれが良いと提案したのだ。

 最初はコンビニの手ぬぐいと同じぐらいの身長だった彼も、今では立派な成猫である。

 コンビニの袋の上に鮭を置いてやる。

 ペトロニウスは小さな口で、時に鮭を咥えて持ち上げ、時に落としながら、必死に食べ始めた。

 その横を通り過ぎて、二階へと上がった。


 この家でただ一つ綺麗な部屋があるとしたら、それは僕の部屋だろう。八畳の和室で、小説や漫画本は全て押し入れの中に放り込んである。

 ノートパソコンと扇風機とテーブルがあるだけの質素な部屋だ。

 窓の傍には広辞苑が置かれている。これは祖父の形見で、ただ一つ彼から残されたものだ。


(こんなもんを使って何をさせようと思ったのかね……)


 思わず、心の中で独りごちる。社長になったような人間の上昇志向というのは僕には理解し難い。

 結局、祖父とは関係が拗れたまま死に別れてしまった。

 今でも思い出す。祖父が危篤だと言う連絡が入って、僕は当時都会にいた婚約者と新幹線に飛び乗った。一つ乗り継ぎをして、地元に辿り着いた。

 祖父は都会で、僕が結婚するものだと思ったまま死んだ。

 その後、婚約者と僕は破局してしまったので、それを見ずにすんだとも言えるのかもしれない。


(結婚、かぁ……)


 学生時代の友達とは基本的には疎遠になっている。

 職場に同年代の人間がいないでもないが、そういう話になった試しはない。そもそも、派閥争いで軋んでいる職場だ。


(受け入れるのが上手になるのが、大人になるってことなのかな)


 そんなことを、再度思う。

 その時、スマートフォンの着信音が鳴った。

 画面を見ると、少し前までルームシェアをしていた男の名前があった。

 僕は受信ボタンを押して、スマートフォンを耳に当てた。


「もしもし」


「よう。ライン見た。茶色い水とかマジありえねえ」


 笑いを噛み殺すように彼は言う。

 斎藤豊。僕の中学生時代からの悪友である。


「そう言うなよ。二時間ほど出しっぱなしにしてたら透明な水になった。多分、沸かせば飲めるだろ」


「ガス通ってたっけ」


「電磁調理器がある」


「お前、ヤカン置いてってなかったっけ」


「買わなきゃだな」


「ペトロニウスは元気か?」


「興味津々で冒険してるよ。ダンボールの隙間に入ってって何処にいるかわかんない」


「本当にゴミ屋敷なんだな」


 豊ときたら、まったく面白がっているような口調だ。

 僕は、苦笑するしかない。


「そう言うなよ」


「で。旅行だって? 急だな。ペトロニウスなら数日なら預かれると思うが」


「ああ。京都へ行こうと思ってな」


「京都、好きな」


 呆れたように豊は言う。

 京都。

 僕達が大学時代を過ごした地だ。


 その地で、僕は初めて人の温もりに触れた。そして、生涯の伴侶となるはずだった人と出会った。

 何故、今更その地に行こうと言うのか、自分でもわからない。

 あの地を去ってから十年も経つというのに。

 ただ、近所トラブルで疲れた時にふと思ったのだ。京都へ行きたい、と。


 再び、あの地に住みたいと思うわけではない。そう思っていた時期もあったが、当時の情熱は既に燃え尽きた。

 僕は大人になることで、妥協を覚えた。地元で暮らすことへの諦めを受け入れたのだ。

 けれども、ふとした時に心に蘇るのが、京都での思い出だった。


「ま、騒音も数日なら我慢してもらえるだろ。ゆっくりして来いよ」


「ああ、ありがとう。恩に着るよ」


 その後、適当に話して、電話を切った。

 そして、スマートフォンの電話帳を眺める。

 しばらく、坂本由美子という名前に視線を止める。

 坂本由美子とは二年ほど付き合った。

 京都に住んでいた頃と、彼女の故郷の仙台で過ごした一年ほどの間、同棲していた。

 もしも上手く行っていたら、僕は今頃仙台で家庭を持っていたのだろう。

 仙台や京都は所詮地方都市ではないかという声もあるだろう。しかし、田舎暮らしとは雲泥の差だ。店の数が違う。若者の数が違う。観光者の数が違う。町の活気が違う。

 初めて京都へ行った時の僕なんて、歩いている大学生のグループが多いのを見て、今日は祭りでもやっているのかと思ったほどだった。


 それも、過去の話だ。

 僕は電気を消して、ゆっくりと目を閉じる。

 明日も仕事だ。明後日も仕事だ。明々後日も仕事だ。

 安い給料でなんとか老後の暮らしを考えなければならないし、家も片付けなければならない。

 愛猫ペトロニウスが鳴き始めた。

 それもいつものこと。

 僕は気がつくと、意識を手放していた。

 華やかな時代は、当の昔に過ぎ去っていた。



+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



 バイブレーションの音で、目が覚めた。

 しばらくして、違和感に気がついた。

 朦朧とした意識の中で、その違和感の正体を探る。

 畳の上で寝たはずだ。それが、ベッドの上で寝ていた。それも、毛布に包まっている。

 周囲を見回すと、漫画本で散らかった洋室に、点きっぱなしのデスクトップパソコン。パソコンの画面では見覚えのあるキャラクターがアイテムを売っていた。

 頭上でバイブレーションを鳴らしているのはガラケーだ。こんな古い機種、どこから拾ってきたのだろう。


(なんだ……?)


 ゆっくりと体を起こして、床を踏みしめる。

 違和感が増す。職業病の腰痛がない。体が軽い。

 周囲の景色が、記憶のある光景と一致する。


(実家……?)


 ゆっくりと歩いて、一階へと降りる。そして、テーブルに用意されていたトーストを口にした。


「おう、きちんと目を覚ましたな」


 そう声をかけてきたのは、父だ。

 違和感が増す。父が黒髪なのだ。最近の父は白髪だらけで、もうすぐ頭髪の全てが白く染まるだろうことは目に見えていた。


「……なんか若返ったね、父さん」


 少し驚きながら、そう返す。


「そうか? 父さんも満更じゃないかな」


 そう言って、彼は満足げに席に座った。


「今日はお前が京都に行く日だからな。駅までは送ってやるよ」


「ああ、うん。けど、まだ新幹線の予約取れてないんだ」


「ん? そんなはずはないだろう」


 そんなはずはないと言われても、事実だから仕方がない。


「仕事の休みも貰ってないし。そんな日数取れるとも思ってないけど」


「仕事? お前、バイトなんかしてたか?」


「一応正社員だよ……給料は安いけど」


 父と子が、しばらく困惑した表情で顔を見合わせる。


「寝ぼけてるみたいだから顔を洗え。お前は明日試験があるんだからな」


 寝ぼけているのは父ではないかな、と思いつつ洗面所に向かう。

 いきなり髪の毛を黒くして若作りして、ちょっと変になったんではないかと思う。

 それにしても、なんで実家にいるのだろう。酔っ払った覚えもないのだが、記憶が途切れている。

 そして、鏡を見た。

 しばらく、唖然としていた。

 自分の顔に触れる。


「……若い」


 思わず、呟く。

 ほうれい線もないし、肌もきめ細やかだ。髪の毛も豊かで、生え際の心配は当分無さそうだ。


「え……?」


 思わず、自分の顔を触りながら、もう一度呟く。


「え? は? え?」


 混乱して、まともな言葉が出てこない。

 若返っている。

 父だけじゃない。僕まで若返っている。


「準備しろよー。明日はお前の大学入試の試験の日なんだからな」


「え?」


 思わず大声で返事をする。

 そして、家の外へと飛び出した。

 辺りは白く染まった雪景色。

 時間が飛んでいる。これは、悪い夢なのだろうか。

 慌てて、新聞紙をポストから引き抜く。十年前の冬の年月日が書いてある。


 状況から推察される結論は一つ。僕は、なんの因果か二十歳の大学受験の日を向かえている。


(夢……だよな)


「ほら、早く準備しろ」


 父の声が背後から飛んでくる。


「頑張ってね」


 母も応援してくれているようだ。

 かつての光景の焼き直し。

 僕は戸惑いながらも、受験の準備を始めた。荷物は既にまとめてあったので、着替えるだけだ。


「じゃ、行くぞ」


 父に促されて、車に乗る。

 そう言えばこの頃は黒のワンボックスカーに乗っていたっけ。なんてことを思う。キーレスもなく、テレビもついていない。過ぎていく景色の中で、ラジオの音が車内に響いていた。


「今日は全国的に雪が降るそうです」


 僕は、呟くように言う。


「今日は全国的に雪が降るそうです」


 ラジオが、僕の言葉を繰り返す。

 父は、気にした様子もない。

 だんだん、愉快になってきた。

 これは面白い夢だ。人生で一番輝いていた時期の繰り返し。きっと良い目覚めになるだろう。

 それにしては、妙にリアリティのある夢だった。


 新幹線に乗って、僕は京都駅に辿り着いた。

 そして、出た途端に高い天井に心を奪われる。


「これよ、これ!」


 そして、新幹線から出てすぐの場所にある電光掲示板を指差す。


「こんなちょっとした場所にも電光掲示板完備!」


 過ぎ去っていく人々が、怪訝そうに僕を振り返る。数十人がいるだろう。こんな景色、地元ではお目にかかれない。


「人の群れ!」


 僕は人をかき分けて、走っていく。

 階段を上がると、色とりどりの店が並んでいた。


「駅の構内の店!」


 自動改札機に切符と特急券を入れて進んで行く。


「自動改札!」


 そして、駅を見上げる。

 高い天井。空中にせり出した壁から見える店。歩き行く人々。高くまで伸びるエスカレーター。デザインに凝った内装。


「これよ、これ!」


 思わず叫んで、外に出た。

 そうだった、この日は京都でも珍しく雪が降っていた。本当に小さな粉雪だったが。

 京都駅に隣り合ったビルが改装中で、アスベストが話題になっていたので大丈夫なのだろうかと思ったのを覚えている。

 そして、僕は駅の付近のホテルに入り、充てがわれた小さな部屋のベッドで横になった。


「この夢、いつ覚めるのかなあ……。一応、観光しときたいんだけどな」


 そう言えば、明日は試験だ。一応、勉強はしておかなければならない。僕は荷物から勉強道具を取り出して、記憶の活性化を図った。

 そのうち、夜になった。

 そうだ、そう言えばとテレビをつける。

 アニメの蟲師がやっていた。


「そうそう、これよこれ。都会は深夜アニメがあるんだよね」


 僕はテストのことなど半ば忘れたように、テレビに見入っていた。

 初めて深夜アニメを見た時は感動したものだった。田舎では夜にやっているのはコマーシャルばかりだ。そんな時間帯に、他の地域の人は美麗で手の込んだアニメという文化を受け入れている。そんな事実が、少し羨ましく、少し面白かった。

 それにしても、この夢はいつ覚めるのだろう。

 やけに長い夢だった。



次回『その日、彼女と出会う』

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