【一畳】④
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控え室の中、黙祷していた一ノ瀬は静かに目を開き、壁際に立っているセコンドの平上藤士郎と目を合わせて呟いた。
「範士」
「おう、何だ」
「範士には感謝しています。あなたの助力と人脈無しで僕はここまで来れませんでした」
「殊勝じゃねえかバカヤロー。何だ急に? 怖くなってきたか?」
「いえ」
一ノ瀬は一呼吸置いてから眉の端を下げて応える。
「感謝はしていますが、今煙草吸うのはやめてください」
「お、悪い悪い。爺にもなると無意識に火ぃ付けちまう。これも型みたいなもんだな」
平上は慌てるように口から煙草を離し、金属製のライターを未練がましく手の内で遊ばせていた。
その様子に少し緊張が解れた一ノ瀬は笑みを作りながら溜め息を吐く。
「どうして範士は古流を勧めてくれたのですか?」
一ノ瀬は今更ながらに範士の胸の内に問いかけてみた。
小枩原泥蓮に負けた後、平上は古流諸派を紹介して剣道から離れることを提案してくれている。
その後の撃剣大会までのお膳立ても全て彼の絵図の中だ。
「どうして、って言われてもな。魔が差したと言えば納得するか?」
「魔が差した、ですか」
「おうよ。剣術の時代なんてものは明治の前に終わってるんだよ。今や剣の正道は剣道。ごった煮の剣術を洗練させ、時代の価値に合わないものを淘汰させ、安全に健全に心気を練れるよう熟成させた一世紀越しの大吟醸酒だ。俺は戦前生まれだが、剣を取ったのは戦後さね。剣道が新しい時代に相応しい剣の在り方だという想いは今も変わらねえぜ」
刀の時代は終わった。
そう言ったのは土方歳三であったか。
鳥羽伏見の戦いで薩摩藩の銃砲撃は数で勝る幕府軍を撃退している。その中には新選組もいた。
剣術が形骸化することでしか存続できなくなる時流の発端をその目で見ていたのだろう。
手持ち無沙汰にライターの火を点けてからしばらく眺めていた平上は、スナップで蓋を閉じて室内に甲高い金属音を響かせた。
「ただ、おめえがあのガキに負けた時、ふと思ったのさ。時代がもう一周しちまった、ってな。またぞろスポーツは児戯だと罵り、地肌だの急所だの狙って勝ちゃいいと宣う邪な連中が台頭し始めてさ、参っちまうね」
戦争が終わり銃刀法が制定されると、また人々にとっての身近な脅威が刃物に回帰しつつある。
しかしそれで剣術にスポットライトが向けられても、剣道はもはや別個の価値観を遵守する競技であり、比べることすらおこがましいと平上は言いたいのだろう。
剣術側に立っている一ノ瀬を責めるように哀しく笑う顔が向けられていた。
「僕が剣術を覚えるのは反対だったのですか?」
「反対というか老い先短い身だからな。俺だけは頑迷固陋のままおっ死んじまえばいいと高括ってたんだよ。若者の悩みとかめんどくせえしな」
「人が悪い」
呆れるように息を吐きながらも平上への尊敬が揺るがないことを一ノ瀬は再確認していた。
いつでも飄々と生きているが思想の核となる軸がある。
道を見失い、迷い移ろう者よりも指導者として適切な人材であろう。
「剣の道も半世紀かかってまた変わり始めてるんだろうな。俺にゃもう時間がないからさ、落ち込んでたおめえを未来の剣道の為に利用してやろうと思っただけだよ。御大層な流派とやらを守り通してる知り合いも多いしな」
「未来の剣道……」
改めて声に出すと良心の呵責のような羞耻心が心底に湧いた。
それは捨てた道などではなく、あくまで地続きの一本道として背後に残る足跡なのだ。
「新も旧も正も邪も別け隔てなく見聞を広めるといい。どうせバカ真面目なお前さんはまた剣道に戻ってくるんだ。そん時に新しい剣道の在り方でもじっくり考えてみろや」
死闘の幕開けを待つ室内に、平上の乾いた笑い声だけが響いていた。
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人生をやり直したいと思うのは、今の自分に満足できていないから。
全力で生きず、苦難を糧に成長することを放棄しているから。
故に、たとえやり直せたとしても未熟な者はまた同じ後悔を繰り返すことになる。
――などというレトリックで不可逆な願望を否定されるのは心底腹が立つ。
今の小枩原泥蓮を小枩原泥蓮足らしめているものは、もはやこの想いしかない。
この想いが消えれば細胞の結合が崩れて自分を保てなくなる。
あの日、川で溺れなければ、
あの日、刀を持ち出した兄を止めることが出来れば、
あの日、病を押して鍛錬を続ける兄を厳しく諌めることが出来れば、
こんな胸締め付けられる人生を送ることはなかった。
しかし、そんな愚かな願望に身を委ねられるほど子供でもない。
だから選ぶ。
より現実的な手段を選ぶしかない。
晩年の兄、有象は言った。
『俺たちの槍にはまだ先がある。終わりが見えないくらいの奥底、未だ手応えすら感じないが確かにまだ何ががあるんだ』
一叢流当主である不玉を以てしても勝てないと言わしめる深奥の境地に立っていた彼は、まだ道の途上にいた。
ならば、泥蓮に出来ることは唯一つ。
兄の技を、思考を、足跡を辿り、自分の中に落とし込む。
やがて兄に成り代わり、彼が本来到達した地点までこの身体で連れて行くのだ。
その道に立ち塞がる者は全て突き斃す。
同じ泥濘に引き摺り込んで腐敗させ養分にする。
そう決めて生きている。
あの日、兄を敬い慕う純朴な少女、小枩原泥蓮は死んだ。