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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十三話
91/224

【一畳】②

   ◆




 空が見える。

 イヌワシが大きな翼を広げ、弧を描いて旋回している。

 その影から空を仰ぎ見ていたアルフォンソの視界は滲んでいた。


 「天にましわす我らの主よ。御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを。願わくば彼の者を赦し、救い、照らし給え。彼の者に平穏な時を与え給え。世を去る魂は御手に委ね、体はこの地に還します。土は土に、灰は灰に、塵は塵に。アーメン」


 神父の祈祷が終わると墓穴を取り囲む家族が棺に通したロープ握り締め、ゆっくりと底まで下ろしていった。

 それから聖水を注ぎ、親族の者から順に献花を済ませていく。


 アルフォンソが二十五歳になった春、母親が死んだ。


 家族の負担にならないようにと末期の抗がん剤治療を拒否し、痛みに耐えながら最後まで自然の中で生きて最後は眠るように息を引き取ったという。

 都市部で剣道指導者として就職していたアルフォンソが駆けつけた頃には、既に物言わぬ身へと変わり果てていた。


 母に対しては父以上に特別な想いがあり、今でも時折、愚かしい過去の思い出が戒めのように呼び起こされる。

 それは十歳の誕生日の夜、生まれて初めて家出をした時の記憶だ。


 家出の理由はとても単純で、目当ての天体望遠鏡を買って貰えなかったからである。

 子供のアルフォンソは期待を裏切られた怒りで母を罵倒した。

 母は泣きながら謝っていた。

 愚かな子供は何も知らなかったのだ。

 当時のカルダーノ家は子供が想像する以上にとても貧乏で、僅かな生活保護を頼りに日々食べていくことだけで精一杯であったことを。

 落馬で足を折った父の入院費も重なり、生活は困窮の極みにあったと言える。

 アルフォンソは保護してくれた警察にもひたすら謝り続ける母を、ただどうしようもなく情けない存在だと蔑んでいた。


 記憶が引き出される度に、アルフォンソは後悔と自責の念に押し潰されそうになる。

 牧畜で家計を支えつつ日々の家事もこなす毎日。

 きっと自分の時間は一秒も無かっただろう。

 今なら母の心情を、心労を理解することが出来るのに、彼女はもうこの世にいない。

 もっと早く自分の愚かさや残酷さに気付ければよかったと後悔しても、全ては不可逆な選択の結果なのだ。


 ようやく自由になる金も増え、恩返しが出来ると思っていた矢先の喪失。

 アルフォンソは残された家族だけでも目の届く範囲で面倒を見ようと、父と兄に都市部への移住を提案した。

 農場の管理は母に頼っていた部分が大きく、もはや酪農を維持するのが困難なこともきっかけとして後押しすることになった。


 しかし、その想いは明確に拒絶される。

 母の死で一番堪えていたのは他でもない父、ドミニクであった。

 たとえ一人になっても母の愛した土地と共に死ぬと言い放つしわがれた顔は、往年の生気が欠片も感じられない程痩せこけている。


 父は不器用で感情を言葉や態度に表すことが苦手だが、愛していたのだ。

 妻の死で自分の中の何かが喪失するほどに。

 それを弱さや依存だと誰に責めることができようか。


 葬儀を終えた後、父は農場の隅で夕日を眺めていた。

 強さも自信も失われた小さな背中が震えていた。


 アルフォンソには、それが死の準備に思えてならない。

 パートナーの後を追うようにして死んでいくラブバードのように、生きる目的を失った男は思い出の場所から離れることができず立ち尽くす。

 アルプスの麓であらゆる困難を跳ね除け、自然の一部となり生きてきた強靭な男は人生の終わり方を探していた。


 アルフォンソは――、




   ◆




 密阿弥の突きが中空で静止した。

 寸止めのように喉当てに切っ先を残したまま両者の間合いも動くことはない。

 アルフォンソの右手は未だロングソードを保持していたが、小手打ちで弾かれた先端は地を舐めていた。


 その状態が数秒続くと、観客の誰もが理解した。

 剣士同士、勝負ありの気配を察して追撃を緩めたのだと。

 あとは審判が判定を下すのみだと。


 しかし、刀を引こうと密阿弥が大きく動いた時、拮抗状態の真実を知ることになった。


 寸止めではない。

 引き抜けないのだ。

 緩急つけて腰の旋回を加えても刀は寸止めの位置のまま動かない。

 密阿弥の動きを遮るのは刀身に添えられた左手。


 アルフォンソは迫る突きを左手で掴んでいた。


 それは防刃繊維で編まれた小手を利用した無刀取りであり、本来の実戦で日本刀を前に使えば指を切って落とされるだけである。

 甲冑を身に纏い、切断力の低い西洋剣を扱う流派ならではの咄嗟の選択であった。

 ――が、そんな技術は些細な問題である。

 特筆すべきは問題は中指の根本、中手指節関節が折れた状態での保持という点。

 痛みを無視すれば拳を固めることは可能だが、それは技とは別領域のものである。


 密阿弥のみならず、遠目に観察していたセコンドや審判すらも徐々に顕れた異質に気付き始めていた。

 俯いていたアルフォンソが再び顔を上げて眼前の敵を睨む。

 怨嗟ではない。

 傲慢でもない。

 全てを受け入れつつ押し流していく大河のような激しさが、物理的な気配となって立ち塞がる敵を飲み込もうとしていた。


「……お前は誰だ?」


 密阿弥の口から吐かれた言葉がアルフォンソの突進で押し返される。

 刀身を掴んでいた手を離し、肩口を向けての踏み込み。

 剣道ではない甲冑術としてのショルダータックルである。

 備えていた密阿弥は小さく飛ぶように後ろに退き、相手の肩口に手を当てて衝撃を柔らかに吸収して対応した。

 体重差を活かした体当たりを狙うのは想定の範囲内である。


 だが一点。

 見落としがあるとすれば、肩に隠れたロングソードの行方を追っていなかったことにある。


 アルフォンソの折れた左手から覗く銀色の光。僅かに見える先端。

 西洋剣術は刃の部分を掴んで操作するのだ。

 右手は柄に、左手は先端に。まるでシャベルでも扱うかのような下からの杭打ち。


 密阿弥が体当たりでないことに気付いた時には、脇の下に銀の刃先が埋まっていた。




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