【来訪】③
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鉄華が帰宅すると、家の前に見慣れない黒のセダンが停まっていた。
玄関に入ると同じように見慣れない靴が並んでいる。
母の客人であろうか。客間からは談笑の声が漏れ聞こえている。
「鉄華、こっちに来なさい」
音を殺して自室に戻ろうとする鉄華を呼び止めたのは母、華苗の声であった。
母の知人に挨拶するのは気が引けるが、特に断る理由もないので客間に顔を出すと、そこには母と長髪の女がソファに座っていた。
「どうも、鉄華さん。私は篠咲鍵理と申します。初めましてではないのだけれど、覚えているかしら?」
篠咲という女が名乗る。
――絶対的な自信。
何らかの知識、技術に精通していてその知見を武器に生きている。それがもたらす強さへの信頼が余裕となって顔貌から滲み出ていた。
彼女の放つ自信の前では、身なりや容姿、喋る言葉はただの小道具でしかないようにさえ思える。
「ふふ、まぁ仕方ないですね。私は貴方の試合で審判を務めていただけですから」
鉄華は記憶の隅で女の顔を覚えてはいたが、剣道関係者というヒントで完全に思い出した。
「あ、一般女子で優勝した人ですね。お顔しか覚えてなくて、すみません」
「謝ることなんてないですよ。こうして話すのは初めてですから」
丁寧な物腰ではあるが、女子剣道に於いて最強の女がここにいる理由を考えて、訝しむ気持ちの方が強くなった。
剣道を辞めたこと、剣友会のこと、一体何を聞かれるのか。内心、身構えずにはいられない。
「単刀直入に言いましょう。あなたのお爺様である春旗鉄斎先生が所有していた刀、『蓬莱』を譲って頂きたいのです。もちろん買い取らせて頂こうと思っています」
篠咲の提案に鉄華は虚を突かれた。
祖父の刀? 買い取り? 剣道の話ではない?
思いが錯綜するが、何よりも先に確認しなければならないことがあった。
「……なんで知っているんですか? 祖父は登録もせずにずっと隠し持っていたのですよ?」
「あなたが相続した後は登録をされていますよね。それを調べられる立場にあるということです」
篠咲は笑顔で応えたが、これは普通ではないと鉄華は察した。
銘で絞った刀剣所持者の個人情報を調べられるというのは異常だ。
嘘でも祖父の知り合いだと名乗ればそこで終わる程度の質問なのに、謎を被せて考えさせるよう誘導している。
つまり彼女の剣道歴とは別の、もっと強力な後ろ盾があることを暗に示している。
「買い取りと言いましたが、そうですねぇ、十億円でどうでしょう?」
「じゅっ、……十億……」
途方もない金額を提示されて言葉を失った。
隣では母、華苗も談笑の笑みが消し飛んで驚きの開口を晒している。
「はい。保存状態にもよりますが美術的価値で言えば精々百万といったところでしょう。それでも私にはとても意味のある刀なのです。こういった交渉では段々と値を釣り上げて買い叩くのが常ですが、同じ剣道家同士、化かし合いは無しにしましょう。十億が私に出せる限度額です」
無茶苦茶だ。どうしても欲しい物だとしても、適正価格と言うものはある。釣り合っていない。
篠咲は鉄華が考えるよりも先にどんどんと話を進めていく。
「失礼ですが、この随分な構えの邸宅は維持費も嵩むことでしょう? お母様もご苦労されているようですね。私も母子家庭でしたから母の苦労を間近で見て育っています。尤も、こういう視点は大人になって初めて見えるものなんでしょうけどね。私と鉄華さんは共通点が多いという点で、少なからずあなた方の助けになればと思っての提案でもあります」
話しながら篠咲はセカンドバッグから取り出した小切手に手慣れた様子で文字を書き込んで、それをテーブルの上に差し出した。
金額には「金壱拾億円也」、振出人には「財団法人 撃剣武術振興協会 会長 篠咲鍵理」と書かれている。
鉄華も華苗も小切手を見たことがない為、それが正式なものかどうか判別しようがない。
「突然の提案で驚かれているのも無理はないでしょうけど、詐欺ではないのでご心配なく。自分で言うのもなんですが、私はそれなりの有名人ですのでその知名度や社会的地位が担保だと思って頂いて結構です」
何もかも演技にしか見えないが、それ故に掴みどころがない。
鉄華はこんな切迫した交渉で祖父の刀を譲るつもりはなかったが、家に直接訪れて母を引き合いに出された時点で選択の余地はなかった。
売却を断ったとしても十億も使えば非合法な手段による強奪も十分可能だからだ。
冷静さを失わせる金額の提示、組織力を匂わせる脅し、その両方を兼ねている迂遠な脅迫である。
女子高生個人がまともに太刀打ちできる相手ではない。
鉄華が何よりも優先しなければならないのは自身と母の安全確保であった。
「……分かりました。お譲りします。但し、一つ聞かせてもらえませんか?」
「と言うと?」
「あなたにとって意味がある刀だと言っていましたがそれはどういうことですか?」
鉄華の質問に鍵理は少し眉を吊り上げた。売却を決めてから価値を伺うのは本来なら順序が逆だ。
それは脅迫の含みが十分に伝わっていることを示唆している。
鍵理はここに来て初めて、鉄華個人に興味を持った。
「刀に刻まれた鵜戸水泉の銘をご存知でしょうか?」
「……はい」
「鵜戸水泉というのは刀工としての名前であって、本名は守山蘭道。『昭和の剣聖』と呼ばれたお方です」
守山蘭道。
鉄華は初めて聞くその名前を心の中で繰り返して記憶した。
刀と引き換えではあったが、祖父との繋がりを示す重要な情報が得られた。
「もう亡くなられていますが、あらゆる流派の垣根を超えて技を修められ、近代剣道の成り立ちにも大きく関わっている歴史的人物です。そんな方が打ったという刀ですから、私のような剣の道を嗜んでいる物好きには価値ある物、ということになります」
篠咲は恐らく嘘を言ってはいない。しかし、鉄華には動機である部分が弱いように感じられた。何かを隠している。
美術品に歴史的価値を付加して資産として運用するというのはよく聞く話ではある。或いは、祖父の刀には既に十億を超える価値があるのかもしれない。
そうなると一介の女子高生が所有するには過ぎた物で、きちんと管理できる人間の元にある方が良い。
もし刀に宿る魂があるとするなら、その方が浮かばれるようにも思えた。
◆
陽も落ち午後八時を過ぎた頃、刀の売却が終了した。
華苗は始終放心した様子で、終いには腰の力が抜けて立てなくなっていた。
そんな様子を眺めながら鉄華は母の心中を察する。
明日からでも隠居して余生を過ごせるだけの金が転がり込んできたのだ。無理もない。
十億は母と折半して振り込まれる形だが、鉄華にとっては何の実感もない孝行となってしまった。
「唐突な訪問で夜分までお付き合い頂きありがとうございました。刀についてはいずれ財団の博物館で展示されることになるでしょう。その折にはまた連絡させて頂きます」
見送りで玄関先まで付いて来た鉄華に礼を言った後、篠咲は刀が収められた桐の箱を小脇に抱えて車に向かう。
その帰りしなにふと足を止め、「そういえば、」ともう一度振り向いた。
「鉄華さんは剣道を辞めたそうですね」
「はい」
「理由を聞いても?」
篠咲の質問は他愛のない世間話のように聞こえたが、その視線は何かの覚悟を試すように冷たく相手の芯を捉えていた。
身長は鉄華とほぼ同じで、共通点が多いと言った彼女の言葉を思い出す。
――かなり強い。
鉄華は直感的に感じ取った。
泥蓮と対峙した時に近い緊張感がある。
研ぎ澄まされた闘気を皮の下一枚に押し留め、どんな瞬間でも備えている。
「私はあなたのようにはなれませんから」
「なるほど。剣道に飽きてしまったのですね」
「……」
見透かされる。
予想通り、普通ではなく異質に位置する女だ。
「今は何の部活をしているのですか?」
質問は終わらない。他人の心中を無遠慮に深く掘り下げる。
答える必要性を感じなかったが、鉄華は篠咲の反応を試したくなってしまった。
「今は古武術部という文化部に籍を置いています」
「古武術……お爺様の影響ですか」
――やはり、この女は祖父を知っている。
しかし鉄華が問いただすよりも先に篠咲が続けた。
「あなたは今、熱に浮かされているだけです。そんな曖昧な立ち位置では何もお教えできません」
篠咲は笑みと哀れみの間のような顔で鉄華を見つめた後、鼻で笑いながら背を向けた。
車に乗り込むと祖父の刀「蓬莱」を助手席に括り付けて固定し、それからエンジンをかける。
鉄華は立ち尽くすしかなかった。
恐らくは、剣道も古流も覚悟も決別も、何もかもが中途半端だと責められたのだ。
成長過程で迷い、自分なりの解答を探している十五歳に大人が投げかける言葉ではない。
強い上に性格も悪い女だと気付き、今更ながらに腹立たしく思えてきた。
車の暖気が終わった後、篠咲は立ち尽くす鉄華に向けて窓を開き「これはサービスですよ」と口を開く。
「辞めるのであればきっちりお辞めなさい。放棄した目標に未練や良心の呵責を感じ続けるのは愚か者のすることです」
黒のセダンが勢い良く走り出し、鉄華はそのバックライトが夜の闇に消えるまでずっと見つめていたのであった。