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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十二話
89/224

【共闘】⑦

   ■■■




 闇。

 視界に映るのは唯一つの光点もない漆黒。

 目を開けて闇を見ているのか、目蓋の裏側を見ているのか分からない。


 音もなく、匂いもなく、触れるものもない。

 寒さで軋む身体の痛みも消え失せている。

 吸い込んでいる空気が本当に空気であるかも疑わしい。


 黒インクの海に浮かび漂う不純物、これが死なのだと少年は朧気に理解した。


 意識も記憶も連続しているが肉体の有無が曖昧で、脳に依存しない思考だけが形となり存在が成立している。

 或いは今の状態が魂と呼ばれるものなのかも知れない。


 しかし少年の脳内にあるそれらは一般的な思考と呼べるものではなかった。

 生まれ落ちてから人生の全てはこの仄暗い座敷牢の中にあり、七歳になっても言葉をほとんど覚えていない。

 感情を表現し、状況を把握する記号を持たない少年は、体験を元に独自の言語体系を構築して記憶を積み重ねていた。


 物を食べること。

 排泄をすること。

 体を洗うこと。

 横になって寝ること。


 それが全ての記憶である。

 一日という概念すら無い永遠に思える日常を繰り返していたある日、食事を出されない日が三日間ほど続いた。

 極限の飢餓で少年は覚醒と眠りの狭間を漂っている。

 視力が衰え闇間にうっすら見えていた家具の輪郭すら見えなくなって恐怖するが、今更声を上げようと息を吐いても乾ききった喉が震えることはない。

 もはや壁を叩く気力もなく、爪の剥がれた手でただ撫でるように壁を引っ掻いていた。 


 すると、そこに一筋の光明が差し込んだ。


 窓板の朽ちた木材が剥がれて漏れ出る陽光。

 初めて見る光に吸い込まれるように少年は小さな隙間から外の世界を見た。


 地面には黄金色の乾いた土が、頭上には風に揺れる無数の新緑があり、その奥にはただ青い壁が広がっている。距離感すら掴めない。

 壁一枚隔てた向こう側に脳を揺さぶるほど視覚を刺激する空間があることを知った。

 そして、そこには二人の人間がいる。

 何をしているか分からないが、長い棒を手に持って振り回しているのが見えた。

 しばらく眺めていた少年は徐々に理解し始める。


 ――これは戦いだ。

 棒を武器として扱い、戦っているのだと言語化出来ない思考で結論する。


 少年はその眩しくも荒々しい初体験の記憶を脳に焼き付けながら、見様見真似で動き始めていた。


 光と闇の世界を分けるもの。

 それは戦う力の有無に他ならない。

 戦うことが出来れば陽だまりの中に踏み出せる。


 孤独に押し潰され、狂い、霧散し、闇に溶け込む無意識となり果てる未来を変える為、少年は痩せ細った四肢を懸命に振るい続けた。




   ◆




「密阿弥様、そろそろお時間です」


 背後に立つセコンドの最弦が入場を促した。

 瞑想から覚めた宝生依密は座禅を解き、音もなくゆっくりと立ち上がって応える。


「……最弦。貴方は欲しいものがありますか?」


 光すら吸い込む深淵の双眸を肩越しに向けられた最弦は、静かに目を伏せて誠実さを示すように返した。


「私は俗世を断っていますが、ただ貴方様のお側で全てを見届けたいという想いはあります」

「模範解答ですね。しかし私は……貴方と違い我欲の塊です」


 真白な道着に袖を通しながら教祖は独白する。


「目に映る全てのものが愛おしく恨めしい。全てを手に入れたくもあり、壊したくもある。……時折思うのです。私は陽だまりの下に立つべきではなかったのだと」

「お戯れを」


 最弦は笑みを作る。

 この問いかけが信徒を試す為の誘導でも、ただの独白でも、答えは変わらない。


「密阿弥様の思想、言動は全て神のお導き。我ら俗人はただ(かしず)くのみです」


 演技ではない。教義でもない。善悪すら無い。

 宝生依密という存在への全幅なる親愛こそが己が欲。

 導かれるは正覚か覇道か、或いは化城喩(けじょうゆ)か。

 最後の最後まで見届ける装置であることを最弦は至上の使命だと認識している。


 教祖は愛しくも愚かしい信頼を向ける信徒の頬を両手で挟んで引き寄せた。


「ふふふ……もしかしたら最初に貴方を手に入れたことが私の起源なのかもしれませんね」


 水菓子のように柔らかい唇が重ね合わさり、甘く冷たい舌が最弦の口内に差し出される。

 最弦は受け入れながらも、伝わってくる感情に哀しみを覚えていた。


 宝生依密は誰も信じてはいない。同様に疑いもしない。

 己は未だ彼の道具の一つでしかない。

 愛に見返りを求める程愚かではないが、教祖の封じ込める感情が発露する瞬間を求めて止まない自分がいる。

 

 ――これも我欲か。


 最弦は親愛の証明と、我欲の成就を願う。

 その為ならば幾人の命を摘み取ろうとも構わない。

 降り積もる細やかな想いは、身に宿す狂気へと変貌を遂げつつあった。




   ■■■




「その場で割符を燃やしたのか? そりゃ愉快な話だな」


 百瀬の報告を聞いた由々桐は予想の範疇であると言わんばかりの余裕を見せていた。


「愉快なものですか。あれではわざわざ身分を明かして会った意味が無いでしょう」

「いやいや、あるんだなこれが」


 由々桐は換気扇の下でゆっくりと煙草の煙を吐き出しながら笑みを崩さないでいる。


「能登原が主に警戒しているのはシロ教、薬丸自顕流、一叢流の連中だ。時間に余裕がある公安と違って、こいつらは大会中に仕掛けてくる可能性が高いってことだな。自顕流は消えたが、一叢流は能登原を動かすのに割符の存在を利用するだろう。その瞬間を狙って全部奪うのさ」

「何を奪うのですか?」

「もちろん割符を」

「? 割符はもう意味がありませんよ。今話しましたよね?」


 百瀬は意図を探ろうと思索するが、目の前に差し出された由々桐の手の裏からICカードが出てきた時、それが意味するところを理解して絶句した。


「古い人間だな百瀬さん。今の時代、非接触式のチップなんてもんは数秒で複製できるんだよ。セキュリティーは常に最新のものを導入しないとな」

「貴方……最低です」

「悪かったよ。こっちに割符が無いことを信じてもらうには迫真の演技を引き出す必要があったのさ」

「だから止めなかったのですね」


 先程、絶望で涙したことはただの茶番だと由々桐は言い切り、百瀬は怒りを通り越して呆れていた。


 しかし、これも自分自身で選んだ道である。

 騙され利用され裏切られても、最後に残る判決を受け入れる為に帰ってきたのだ。


「迂遠な方法だが、これでタイミングは奴らが知らせてくれる。能登原が俺たちから目を逸らす瞬間、それがこの茶番の終幕だ」

「そう上手く行くでしょうか……」


 百瀬は春旗鉄華の忠告を思い出しながら瞳を閉じた。


 今も昔も瞼の裏側には焼け野原が写っている。

 その道程の果てに立ち尽くすは、自己を総括出来なかった哀れな老婆。

 彼女が駆け抜けた夢の最終章は既に始まっていた。




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