【共闘】⑥
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目蓋を透過する光が夢の終わりを告げ、身体中に纏わり付く倦怠感が強さを増してくる。
燃えるような復讐心も、己が最強であるという自負心も、まだ戦えると息巻いていた虚勢も、手術台の上で麻酔を投与されるまでの記憶。
僅かな時間を置いて鎮火した心に残ったものは、あろうことか『安堵』であった。
これが敗北者の末路かと、戸草は病室の天井を眺めながら静かに涙した。
「先生! 大丈夫ですか?」
ベッドの側で薬丸自顕流門弟の荒川彦一が声を上げる。
その隣には自分を負かした老人、赤羽清雪が立っていた。
二人は試合の道着を着たままであり、壁の時計は正午を指している。
死闘から五時間ほど経過していることを理解した戸草は、筋肉の弛緩を確認するように胸を上下させた後、人工呼吸器の管を取り外した。
「敗者をなじりに来たのですか?」
「おうよ。俺が負けてたら、そらもう詐欺だのインチキだの世間にボコボコに言われてたろうしな。倒した奴の顔見てニヤつくくらい許せや」
赤羽は言葉通り腕組みしながらニヤついていたが、それが本心でないことくらいは戸草にも理解できた。
数時間後の覚醒のタイミングに偶然居合わせたわけではない。ずっとこの場で見守ってくれていたのだ。
しかしそんな情けをかけられることすら、心を抉る悪意に思えてしまう。
想像以上に弱気になってしまっている自分に気付いて戸草は小さく笑った。
「悪いが聞かせてもらったぜ。長波の顛末をな」
その言葉を聞いて戸草は荒川を睨んだ。
部外者の赤羽に流派の問題を話してしまった門弟は萎縮するように「すみません」と呟く。
「そう凄むな。俺と長波とは旧知の仲よ。晩年はただのスケベ爺になってて呆れたが、まさか女に斬られる程鈍ってたとはな」
「師を愚弄するのはやめて頂きたい」
「よせよ。おめえさんだって分かってたろ? 最強を名乗りながら淫蕩に耽り鍛錬を止めてしまえば必然的にそうなる」
「……」
認めたくない事実を突き付ける赤羽に、戸草は言葉に詰まってしまう。
長波は刀を抜いていた。
篠咲は少なくとも不意打ちで勝利したのではない。
「さて、敗者の顔も拝んだことだし俺はそろそろお暇するわ。……戸草の、おめえは今日負けちまったが生き残ることもできた。まだまだ続いてく人生で何を成すべきかしっかり考えることだな。但し――」
病室の扉に手を掛けながら赤羽は立ち止まる。
――大きい。
戸草は齢八十を超える老人の背の大きさに驚いていた。
比喩ではなく、鍛え込まれた背筋が胸筋のようになだらかなカーブを描いている。
人はここまで強さを維持できるものなのか。
年齢という現実を虚像とし、正確な強さを見誤らせる狡猾さ。
赤羽は紛うことなく現役で、流派最強の男であると感じずにはいられない。
「旧友の仇くらいは死に損ないの爺が背負ってやるよ。じゃあな」
往年の、最強にして最優の師と似た存在感。
赤羽の背に自身の道の続きを見た戸草は涙を拭い、門弟に語りかけた。
「また初めからやり直しだな、彦一」
「……はい、先生っ」
師に人生を救われ、今では自分を慕ってくれる弟子もいる。
負けても生き残り、それを振り返る時間がある。
これほど幸せなことはない、と戸草は先の人生に思いを馳せるのであった。
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偉大なる父がいた。
剣技ではもう父を超えているのかも知れない。
それでもまだ届かないと思わせる、アルプスの偉大なる絶壁。
アルフォンソは大会の参加に最後まで反対した父を思い出して、握りしめる拳から手汗を滲ませていた。
『強いというのは、誰かを叩き伏せることではない』
父が説くのは、人間同士の小競り合いではなく巨大な自然の中で生き残る為の強さである。
単純な暴力というものは武器を持てばどんな相手でもほとんど拮抗するのだ。
勝敗に差が付くのは心力に他ならない、と父は言う。
心力の比べ合いはギャンブルに近い。
できるだけギャンブルを回避するのが父の言う強さの定義である。
それでもアルフォンソはスポーツではない世界に踏み込んでしまった。
言い訳なら幾らでもできる。
困窮する牧場を守るため、剣道家として期待を向けてくれる欧州のファンのため、一家に伝わる偉大な流派の強さを証明するため。
しかし実際のところ、アルフォンソは自分の本来の強さを確認したいだけであった。
千葉を古流で下した篠咲を見た時、ようやく比べる場が現れたのだと歓喜していた。
父に見抜かれた以上隠し続ける意味はなく、心中にある暴力への渇望と向き合わなければならないのだ。
ある者はこの渇望を醜い制圧欲求だと言う。
ある者はスポーツでトップに立てなかった末の見苦しい逃避だと言う。
ある者は知能に乏しい人間の理性を放棄した原始的行為だと言う。
それでもいい、とアルフォンソは思った。
金でも勲章でもなく、純粋で無邪気な欲求に名前を付ける気もない。
ただ強くなりたい。
この四肢でどこまで羽ばたけるのか確認せずにはいられない。
善悪を決められるのは当事者だけである。
「アル、ここまで来たなら俺は応援するだけだ。迷うなよ。お前は狼より強い。何でもありの舞台で人間に負けるわけがない」
セコンドを引き受けてくれた兄、エンリコが口を開く。
反対する両親との板挟みの中でも弟を庇ってくれた兄は、痩せこけた顔でいつものように笑っていた。
「ありがとう兄さん。俺は……強い。そうだな。俺は強いんだ」
背中を押してくれる兄がいる。
心力の隙間を補う家族の絆がある。
そう思うだけで迷いは消え、軽やかに羽ばたける。
納屋から勝手に持ち出してきた父のロングソードは、戦う場を見出した喜びで鏡のように輝いて見える。
全てが最高のコンディションを発揮している実感を噛み締めながら、アルフォンソは控え室を後にした。