【共闘】⑤
◆
「私ですか?」
突如指名された鉄華は驚きながら見知らぬ老婆を観察した。
白いワイシャツに裾の広い黒のボトムス、白い長髪を後で三つ編みにして纏めている。
顔は穏やかではあるが、老齢での骨格の変形もなく凛と立つ姿はどこか威圧的にも思わせた。
「刀自よ、悪いが見知らぬセコンド同士二人っきりというわけにはいかぬぞ」
「あらまぁ、刀自だなんて。私のことは百瀬と呼び捨てて頂いて結構です」
不玉とのやり取りで鉄華は朧気ながらに老婆が大会参加者のセコンドであったことを思い出した。
「ほぉ。柿本某というのは偽名か? 食えぬではないか老婆よ」
「ええそうです。それと老婆と呼ぶのだけはおやめなさい、小娘」
「それは失礼した。しかし儂を小娘と呼ぶのは許可しようぞ」
小娘と呼ばれることに幾らか上機嫌の不玉が笑う。
老婆と呼ばれることに憤慨した百瀬も続いて笑う。
少しずつ高まる緊張感を察した鉄華は、話題を戻すために口を開いた。
「話ならこのまま聞きます。私に何の用ですか?」
「……まぁいいでしょう。あなたのお祖父様、鉄斎先生の話です」
「先生、ですか」
「私はかつて鉄斎先生の元で武術を学んだ者です」
鉄華の感想は驚きよりも訝しみの方が先行した。
老齢で古流に関わる者ならばありえない話ではないが、先生と慕うほどの弟子の話がこれまで全く浮かび上がってこなかったことに違和感を感じている。
仮に既知の仲だとしても篠咲静斎のように敵対していた人物である可能性は捨てきれない。
「晩年の先生ならば、孫娘のあなたがこのような道に進むことを許しはしなかったでしょう。あなたは何故この場にいるのですか?」
百瀬の言葉は鉄華を責めたてる厳しさがあり、そして鉄斎の性質を正確に言い当てている。
つまり鉄斎の後悔を知っているということだ。
「祖父が学生運動の最中に人を殺したというのは本当でしょうか?」
「そう聞き及んでいます。相当に悩まれたことでしょう。自分に厳しく他者に優しいお方でしたから」
篠咲の証言の真実味が増したことに、鉄華は幾許か悲しみを覚えた。
鉄斎は後悔の果てに終の住処に帰還し、小さな幸せを守りながら贖罪の思いを抱えて生涯を閉じていったことになる。
しかしそれでも尚、鉄華は道を降りる気はない。
「私は縁あってここにいます。私の人生が救われる時は、いつも古流が傍にありました。祖父の残した結果が過ちであっても、そこに至る努力や覚悟が間違いであったとは思っていません」
人は経験したことを主観で語ることしか出来ない。
故に他者から見た善悪と競い合う必要などどこにもないのだ。
鉄華は過去を知った今も尚、鉄華の知る春旗鉄斎を信じている。
その強い眼差しを見た百瀬は少女の覚悟を試していたかのように穏やかに笑い、ポケットから取り出した木片を机の上に差し出した。
「そうですか。では、あなたにこれを渡しておきましょう。元々鉄斎先生へ譲る予定の物でしたから」
警戒しながらも木片を受け取った鉄華は細部を視覚と感触で確かめ始めた。
台形型の木片はどこか将棋の駒に似ていて、所々黒ずんでささくれる程に年季が入っている。
表面に掘られている図形のようなものは、大きな絵の一部だと推測できる。
「見た目はただの割符ですが中には暗号鍵を保存したチップが入っています。符号化すれば数十兆円規模の遺産金にアクセス可能です」
「す、数十兆ですか。……信じられませんね。そもそも私に暗号を扱う技術なんて無いですし正直要らないのですが」
「割符なので全部揃わなければ価値はありませんが、この大会の主催者なら幾ら払ってでも欲しがるでしょう」
大会の本来の意味が垣間見えた鉄華は無意識に息を潜めていた。
話が真実なら、割符が揃えば篠咲と能登原は一気に世界一の富豪になれる資産を手に入れることになる。
刀の買取額で提示した十億円も、破綻している大会の賞金も、最初からこれが目的であったとすれば納得できる気前の良さだ。
「遺産金と言っていたが、一体誰の遺産じゃ?」
「人ではなく我々というべきでしょうか。かつて赤軍と呼ばれていた組織の軍事資金です。私は金庫番の一人でした」
「そう言えばどこかで見た顔と名前じゃな。なんじゃ、随分と面白いことになってきたの」
傍観者であった不玉だが、事態の大きさに扇子の後ろで笑みを作り興味を向け始めていた。
「当時、日本全国の大学自治会から集めた金、M作戦と称し銀行から盗んだ金、アラブ諸国からかき集めた支援金、それらを分散管理し今も投機で増やし続けているので私でも全容は定かでありません。もはや活動は停止してしまい人脈も途絶えているので、存在を知っているのは割符を持っている者だけでしょう」
割符にして残したのは『来るべき時』に備えてのことだろう。
出自も黒ければ、使用目的も黒い隠匿金。
鉄華は、百瀬が何故そんな物を春旗鉄斎に託す気でいたのか彼女の思想に興味を持った。
「祖父も、その、いわゆる左翼活動家だったのですか?」
「いえ、真逆ですよ。当時は何度も議論をぶつけ合わせましたが、どちらが正しかったのかは今の時代が証明しているでしょう。私はこの割符の使い道を鉄斎先生に委ねようと思っていました」
百瀬の心中に在るものもまた後悔であった。
政治活動に生涯を捧げ、自身が描く理想と違う発展を遂げていく現代社会に迷い、最後の最後でかつての師を頼ったのであろう。
「割符は全部で幾つあるのじゃ?」
「三つです。残りの二つは左翼のネットワークを辿り主催者の父親に渡ったようですが、どうやら一つは大会参加者が預かっていたようですね」
それは鉄華の予想通りであった。
奏井至方だ。
彼との対戦が大会本来の目的であるとすればマッチングの意図にも説明が付く。
篠咲が直接戦いの場に出てくることもその条件を満たすのに必要なことだと推測できる。
となればその『条件』を作ったのは割符を保有していた人物に他ならない。
「篠咲静斎はどんな人だったんですか?」
「ご存知でしたか。かつて学生運動の裏で武術指導をしていた方です。独自の国防論を持っていましたので我々に合流こそしませんでしたが、リベラルの間での信頼はかなりのものでした」
「娘の篠咲鍵理さんは父親の意思を継いで行動しているのですか?」
「それは……私には分かりません。彼女が割符を集めているのは確かですが、実際に動いているのは能登原の方ですし」
能登原は篠咲の信奉者であり、篠咲の願望を叶える為の道具でしかない。
最終的な着地点はともかく、今のところは静斎の絵図の中で行動していると考えるのが自然である。
「百瀬さん、あなたが大会に参加した目的は何ですか?」
「私はただ日本の地に骨を埋めたいと思っているだけですが、由々桐さんはその前に大会で小遣い稼ぎする気のようですね」
「由々桐さん?」
「大会参加者の野村という男ですよ。私が入国する際、能登原と交渉してくれたブローカーです。我々の被害者の一人でもあるので、贖罪の意味で協力しています」
「じゃあこの割符を渡してしまったらあなた達は殺されちゃうんじゃないですか?」
「ご心配なく。逃げる算段は整っていますし、時間を稼ぐ偽物も持っています」
「そうですか。なら受け取ろうと思います」
鉄華は言質を取った上で、受け取った割符を不玉へと差し出した。
「不玉さん、これ要りますか? 要らないなら燃やしますが」
「なっ」
百瀬が善意で託してくれたことは理解できる。
しかし途方もない金が動く大会の裏に潜む、更に途方もない金である。
もしもの時の交渉に使うにしても、大会が始まってしまった以上、もはや個人で扱える時間は残されていない。
由々桐という男は巧みに譲渡の条件を提示できたようだが、他者の所持が見つかれば問答無用で殺されるだろう。
「ふーむ。よし、燃やしてしまうか」
鉄華の手のひらから割符をつまみ上げた不玉は、一度百瀬へ含みのある笑みを投げかけてから部屋の隅に置いてあるコンロへと向かった。
「待ちなさい。それは紛うことなく本物です。私が半生かけて守ってきた物をそんな軽いノリで消し炭に変える気ですか?」
「今は私の物なんですからいいじゃないですか」
「それはそうですが、しかし」
「往生際が悪いの。それ、着火じゃあ!」
ガスの火を当てられると割符の端から泡のような樹脂が滲み出た。
パチパチと音を立てながら燻っていたかと思うと、あっという間に赤熱の燃焼へと移行する。
やがてフライパンの上に移され、大きな炎と僅かな黒煙を立ち昇らせるただの木炭へと変質していた。
百瀬は嘆きながらもソファから動くことはない。
盲信、自惚れ、闘争、諦め、後悔、これまでの足跡が彼女を縛り付けているのだろう。
積年の理想の終わりを告げる最後の狼煙。
それが無情に換気扇へ吸い込まれていくのを眺めることしか出来ない。
百瀬の乾いた目尻から涙が零れた。
「ああぁ……」
「残念ですが、祖父も同じことをしたと思いますよ。あれを巡って何人死んだのか考えたくもないですね」
項垂れる百瀬に鉄華は祖父の思いを乗せて言葉を投げかけた。
百瀬は同情できるような人物ではなく紛れもない犯罪者である。
それでも自分で区切りをつけることが出来なかった哀れな老婆に、鉄斎の娘としての責務を果たすべきだと思っていた。
「それからこれは若輩者の警告に過ぎませんが、百瀬さんは能登原を甘く見すぎているように思います。最悪の場合を考え、逃亡のプランに警察への出頭も含めておくべきです。死刑になるにしても時間は掛かりますから余生を過ごすには充分だと思いますよ」
焦げた匂いが漂う静かな室内。
世界を揺るがしうる埋蔵金は永遠の闇へと消えていき、追い求める者たちの野望が終わりを迎えた瞬間であった。