【馬庭念流:安納 林在】③
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土の匂いがする。
土の匂いは馬庭念流という流派そのものだ。
かつて農民の間で広まった武術は、扱う技も理念もどこか土臭い。
花法美観とは程遠く、じっくりと大地に根を下ろし心気を練り上げる執念が形になったような流派である。
師である父、安納海星を倒した日、湧き上がった感情は『落胆』である。
少年がいつの日か年老いた父を追い越すように、年齢による衰えで勝敗が付いただけであった。
まだその四肢に往年の術理が宿る内に追い付くことが出来なかったのだ。
ずっと見ていた背中のその先には、何も見えない空間が横たわっている。
土に塗れ、泥を被り、人生全てを捧げる努力をしたのに、実力ではなく時間という手段で目標を達成してしまった後、何をすればいいのか見失ってしまった。
師は最後に「もう型に囚われるな」とだけ言い放ち笑っていた。
自分だけステージから降り、観客側から含みのある問答を投げかける姿勢に心底腹が立った。
比べる相手の居なくなった世界で最強を名乗る虚しさに耐えきれず、安納林在は立ち位置を明確にしてくれる相手を欲して家を飛び出したのだ。
そして巡り来た異国の地で、また土の匂いを感じている。
馬乗りになったビーが容赦なく顔面に拳を振り下ろしている。
大地を背中で感じながら鼻骨を砕かれた安納は、手から木刀が離れていることに気付く。
血飛沫が一メートルくらい撥ねてビーの顔を染め上げていく。
意識が飛んでいる間に数発いいのを貰っていたのか右眼がうまく開かない。
――これが求めていた結果なのか? 誰かに敗北することを求めて旅していたのか?
視界の端に映るアールシェが試合を止めようと動き始めたのを確認した安納は、反射的に「止めるな!」と叫んでいた。
「へい、まだ元気いっぱいだなサムライ。もしただの強がりなら死ぬぞお前」
「手が止まってるぞ。マッサージを再開してくれよ」
両拳に粘つく血糊を付けたビーは勝利を確信して嗤っていたが、強がりとも言える安い挑発に目を細めパウンドを再開する。
ビーの手に二対の棒は無い。グラウンドの超近距離では邪魔になると判断したのだろう。
だが、肝心のグラウンド攻防が不慣れである。
マウントポジションではあるが、体重をかけすぎている。
巧者は体重をかけず、敢えて相手に逃げ道を作ることで関節技の選択肢を増やすが、ビーは打撃が主体で殴ることに終止していた。
体重を預けるということは重心を明確にすることであり、安納林在の領域である。
ビーは笑う安納の口元に右の掌底を放った時、吸い込まれるように視界が反転するのを見ていた。
そして下腹部に走る強烈な痛み。
余力のある身体が跳ねるように藻掻き、不幸中の幸いか偶然にも安納を蹴飛ばすことで距離を置いていた。
安納もビーもふらつきながら地面の武器を取り、戦いはまたもスタンド状態へと移行している。
観客のざわめきの中、ビーは何が起こったのか追認していた。
掌底を放つ右肘を捕まれたのと同時に、首を引き寄せられてマウントを返されている。
ブリッジで空間を作り、エビのような動きで右にスルリと抜け出しているが、一旦左に抜けるフェイントも入れていた。
ポジションを返しながら流れるような動きで膝を股間に放っている。
重心の操作に長けていて組み付きの攻防では安納に利があることにようやく気付いた。
ビーは金的の痛みが一時的なものであると思い込むことにした。
アドレナリンも充分に出ている。長引くことはない。
安納も平衡感覚を取り戻すのに多少の時間を必要としている。
利害が一致した気配をお互いに感じた瞬間、安納は口元を緩めた。
「俺は29.3センチなんだよ」
「何がだ?」
「靴のサイズ」
回復までの時間を会話で繋ぐにしては突拍子もない話題に、ビーも笑みが溢れる。
「ずっと収まりが悪くてな。靴屋には5の倍数しか置いてないだろ?」
「ここに来て靴で言い訳か? 見苦しいぞアノー」
「そうじゃない、ようやく収まったんだ。ありがとうビーさん。俺はもう自由だ」
そう言うと、安納はカリンの木刀を左手で、腰に差していた小刀を抜いて右手で構えた。
ビーと同じ二刀流。
真似事で乗り切ろうとする大道芸人の浅知恵に落胆を見せるビーだが、安納は確信を持ってその構えを取っていた。
――付け焼き刃ではない。
手の内に宿る確かな実感。これは地続きの術理でありこの場での最適解だと分かる。
馬庭念流に二刀術は無いが、源流である念阿弥慈音の念流にはある。
安納は戦いの最中、自身が全てを捧げた流派を離れようとしていた。
――ビーの言うように、心中は言い訳ばかりだった。
蹴られた時、もし木刀ではなく真剣だったならと言い訳を探していた。
現役を退いたロートルという見た目に囚われなければ、挑み返されるようなアウェーの闇試合でなければと、言い訳を教訓に変えようと必死だった。
しかしそれももう終わりだ。
「これが俺の剣だ」
自身に言い聞かせるように安納は言葉を紡ぎ、両手を持ち上げ両刀の刃を外側に寝かせて相手に向ける。
奇しくも二天一流の二刀中段構えと同じであるが、安納は内から湧き上がる新しい術理に従っているだけであった。
痛みが引き、冷静さを取り戻したビーは臆さず前に出る。
顔を腫らして虫の息の相手が吐く戯れ言に付き合う気は毛頭もない。
クラビー・クラボーンは二刀流に非ず。
両手両肘両足両膝全てが必殺の武術である。
組技で遅れを取っても、打撃戦では遠距離、中距離、近距離全てに対応する古式の技がある。
見た目からは想像もできないほど軽やかに飛び出したビーは、向けられた二刀の間に割って入るように前蹴りを飛ばした。
安納はそれを両刀を交差させて柔らかに受け止める。
ビーは足裏に体重をかけて安納の両手を叩き潰そうと両手の棒を振り下ろす――が体重をかけた瞬間、安納は擦り抜けるように右側面を回り込んでいた。
抜き胴。
安納の左の木刀がビーの右脇腹に埋まる。強く圧し斬るように肋骨を砕いていく。
その胴打ちを脇を締めて捕らえてから、ビーは笑った。刀の切断ではない。痛みなら耐えられる。
ビーは左手の棒を手放し、首相撲で安納を引き寄せると同時に膝を顔面に叩き込もうと地を蹴っていた。
そして違和感に気付く。
大腿部に添えられた安納の右手。
振り上げるはずの膝は添えられた手にゆっくりと力が籠もっていって初動で止められていた。
まるで真綿を蹴るような感触。
重心の変化から膝蹴りを先読みされていたのだ。
ビーは首相撲を解いてそのまま顎部を狙う肘打ちへと変化させるが、それよりも早く安納の肘打ちがビーの肩を打って初動を潰される。
肩を打たれた勢いを受け入れてビーは間合いを離そうと後退を開始するが、同時に大きく踏み出した安納の右足がビーの股の間に入る程深く接近していた。
右脇で挟んでいた木刀を解放して今度は右の肘打ちを狙うビー。
ほぼ同時に木刀を手放し肩への鉄槌でまたも初動を潰す安納。
【三殺】。
間合いを殺し、太刀を殺し、技を殺す馬庭念流の基本理念。
今やそれは、安納の身体の全てに宿っていた。
ビーが全身を武器化して戦うように、安納もまた両手両肘両足両膝全てで続飯付を実行する。
起こりと重心を支配され四肢を完全に封じられたとビーが実感し始めた時、安納の頭突きが鼻先に埋まっていた。
正面からの頭突きではなく頭部の側面を擦る付ける粘りを効かせた一撃。
視界が白み、自分の血糊で朱に染まり、やがて暗転していく。
闘技場の覇者、ビーが倒れて動かなくなると観客の喧騒は一瞬で静まり返った。
そして少しずつ誰かが声を上げ始め、やがて全員が叫び出し森中に響く狂騒へと変化する。
紙幣と歓声の舞う野外の簡素な闘技場。
勝負の最後に立っていたのは、下馬評のオッズを覆した日本人の剣士であった。
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三日後。
所狭しと走るバイクがけたたましくクラクションを鳴らして行き交うチェンマイの路上。
二人の男が握手を交わしていた。
「君のおかげで懐が暖かくなったよ、ありがとうアノー」
インド人のアールシュが最後に即物的な謝辞を述べている。
一応は安納の勝利に賭けていたらしい。
「俺も君に出会えてよかった。一時はただの詐欺師だと思っていたことは秘密だぜ」
「じゃあわざわざ言うなよ」
二人の乾いた笑いがバイクの排気音に掻き消されていく。
握手はまだ解かれない。
安納はアールシュの目を見ながら「ところで、」と続ける。
「君は戦わないのか?」
沈黙。
喧騒の路上、二人の空間に静寂が広がる。
握手が少しずつ緩んでいくのは、開始の合図のようにすら思えた。
――が、次の瞬間アールシュは両手で強く握り返した。
「始めは楽勝だと思っていたんだけどね。どうやら今はまだ君に勝てそうにないな」
「……そうか。君のカラリパヤットも体験したかったが、仕方ない」
今はまだ。
アールシュの瞳が燃えている。
背中を追われるのも悪い気がしない安納であった。
熱に当てられないよう手を離し手荷物を肩で抱えてから、安納は異国の友人に最後の笑顔を向けた。
「俺が弱くなる前に追いついてくれよ。人生ってのは思うより早く暮れていくんだ。冬の日みたいにな」
向かうは次の国、フィリピン。
これまで辿ってきた国々でも小さな別れのドラマがあったが、この時ほど惜しんだ別れはない。
ビーもアールシュもタイという国も、新しい剣の道を教えてくれた師匠のようで思い入れ深いものがある。
無鉄砲に飛び出した修行の旅だったが、出会いと別れの繰り返しが強さとして蓄積されているという実感を初めて感じていた。
「アノー、フィルミレンゲ!」
背後からアールシュがヒンズー語で別れを告げた。
その言葉は『さよなら』ではなく『また会おう』という意味が込められている。
それを知っていた安納も同じく「フィルミレンゲ」と返し、自分の旅へと戻っていくのであった。




