【馬庭念流:安納 林在】②
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午後十時を回ろうかという頃、安納はアールシェの後に付いて町外れの山道を登っていた。
「アールシュ、君は俺の都合というものがまるで勘定に入っていないんだな」
「はっはっは、そう言うなよ。常在戦場ってやつだろ?」
インド人の口から日本語の四字熟語が飛び出したのに少し驚いた。アールシェは日本の古流にも造詣が深いのかも知れない。
彼に流派名を名乗らなかったのは正解だったと心中で安堵を漏らす安納であった。
それにしても用心深い。
人目を避けた場所での立ち会いは予想の範囲内だが、屋外の山中に連れてこられるのは慮外である。
或いは、誰かが死んでもそのまま埋めてしまえばいいという思惑なのかもしれない。
安納はアールシェですら味方とは思わず不意の事態に備えていたが、手持ちの武器は短い木刀と調理用のナイフだけである。
いざとなれば荷を捨てて森へ逃走できるよう、パスポートだけは懐中に忍ばせておくことにした。
茂みを掻き分ける獣道を歩き始めてから二十分、ようやく変化の兆しが見え始める。
前方の草葉の隙間から明かりが漏れていた。
そして人の声。一人二人ではなく何十人もの喧騒が虫の音に混じって聞こえる。
間断なく響く規則的な低音は太鼓のリズムだ。
近づくに連れて抑揚のあるピー・チャワーと呼ばれる古典楽器の笛の音も聞こえてきた。
ワイクルーだ。
ムエタイの競技前、戦士は師への礼と闘神への祈祷を捧げる目的でワイクルーという伝統舞踊を踊る。
急遽呼び出された安納と違い、向こう側は準備万端のようだ。
茂みの最後の高草を踏み倒して開けた場所に出た時、その場を照らす剥き出しの電球が見えた。
クリスマスツリーで使うような数珠つなぎの電球が頭上の木々の間に掛けられている。
その簡素な照明の下、小屋と言うには粗末な、壁を取り払った木組みの屋根があった。恐らく周囲の枝葉を利用して建てられたものだろう。
屋根の真下には試合場として均された土があり、屋根を取り囲んで設置されたひな壇には三十人程の観客。彼らは遅れて到着した安納に声援とも怒号とも取れる声を向けている。
観客の間を歩く男がもぎりのように紙の切れ端を配っているのは、今から始まるのが賭け試合であることを意味していた。
どうやら僻地の山奥で地下闘技にも似た裏の試合が運営されているようだ。
予想以上にしっかりした試合を組まれていたことに安納は驚きを隠せなかったが、一番の問題は対戦相手の男である。
闘技場の中央、上半身裸でワイクルーを舞っているのはムエタイジムのトレーナーであるビーであった。
額に汗を浮かべたビーは到着した敵を一瞥することなく、シャーマンのように踊り集中力を高めている。
安納はビーが二の腕にハヌマーンの刺青を入れているのは知っていたが、上着を脱いだ胸元や背中にもびっしりと虎の絵や幾何学模様が埋め込まれていることを今初めて知った。ジムで見た若い頃の写真には無かったものだ。
サクヤンは宗教的な意味合いの強い護符の一種で、描かれた図形から神の恩恵を得られると強く信じられている。
加齢で衰えたように見えるビーだが、プロの全盛期を過ぎてから掘られたであろうサクヤンが未だ衰えない戦士としての側面を強調しているように思えた。
ワイクルーを終えたビーは拍手喝采の中、ただ静かに安納を睨んでいる。
ジムで見せていた笑顔の片鱗も見えず、闘争心をそのまま押し出した顔貌。連日顔を合わせていた安納に挨拶する素振りすら見せない。
それでようやく安納は理解が追いついた。
始めから仕組まれていたことなのだ。
ビーのバックボーンは元々古式の方であり、表に見えていたものは生活の為の仕事でしかない。
何も知らずやって来た異国の挑戦者を日々間近で観察し、強かに戦う瞬間を探り続けていたのだろう。
馬庭念流という流派は知らなくとも筋力、体幹、反射神経を値踏みする時間は充分過ぎるほどあった。
その上で、こいつになら勝てるという確信を得て対戦を承諾したのだ。
舐められたものだ、と安納は自虐的とも攻撃的とも取れる笑みを返して上着を脱ぎ捨てた。
「さて、アノーの得物だが、ここには色々あるから好きに使うといい」
アールシェが指し示す机の上には長さの違う木の棒が十本ほどあり、中には槍を意識した三メートル程の物もある。他にも斧を模して削られたものや金属の枠で円形に纏められた木盾も並んでいて、幅広い武器術を考慮しているのが分かる。
安納はその中から反りが入った一本を手に取った。形は間違いなく日本の木刀ではあるが、材質は赤が美しいカリンの木。東南アジアの木材である。
アールシェの配慮なのか、この闘技場に元からあったものか判断がつかない。
安納はカリンの木刀を手に持ち、自身が持ち込んだ短い黒樫の木刀を腰に差して闘技場に立った。
ビーの両手にはそれぞれ五十センチほどの棒が握られている。
クラビー・クラボーンの二刀流、【ダーブ・ソン・ムー】で戦うということだ。
「審判は俺、アールシュが務めるよ。とは言え、ここでは明確なルールは無いようだがね。生死に関わる状況は止めに入るけど、勝敗に関しては君たちに任せようと思うのだが、どうだろう?」
アールシェの問いかけにビーは鼻息で口髭を揺らして応えた。
「私は誇りある流派の代表者だ。負けたと思ったら偽らずに申告しよう」
安納も続けて「同じく」と宣言し、高めの中段【体中剣】で構えた。
◆
アールシェの掛け声で試合が始まると、ビーは二対の棒を前傾姿勢で構えた。
足を前後に大きく開き、徒競走のスタートのように飛び出す兆しを見せる構えは、古式で最も古い【ムエ・ロッブリー】の構えだろう。
拳撃で目や喉を狙うという術理は、キックの評価点で争う現代ムエタイでは考えられない選択肢だ。
構えだけでビーの躊躇のなさが伝わる。
武器を用いた古式の戦闘経験も見え隠れしてくる。
安納が気圧されないよう息を深く吸い込んだ瞬間、ビーは地を這うように前進し安納の左前に転身していた。
流れるような動きで左の棒で木刀を叩いて押さえ、右手はバックハンドで柄部を顔面に叩き込もうと身を捻る。
だが安納はその双撃を体中剣の構えのまま受け止めていた。
相手が打突を打ち切る前に張り付いてベクトルを弱めて逸らす。
流派に於いて米糊付、または続飯付と呼ばれる技法である。
重心を見極めることに長けた安納に近接距離の押し合いは通用しない。
身を捻る途中に張り付かれて体勢を崩したビーの脇腹目掛けて木刀が奔る。
安納もビーと同じように躊躇はない。肋骨を砕くのではなく肝臓を圧し潰す粘りを込めて左胴を薙ぐ。
その殺意すら籠もる切っ先を、ビーは二対の棒を脇腹で交差させて受け止めていた。
防御に移るハンドスピードが尋常ではない。
心の隅でビーのことを現役を退き脂肪を蓄えたロートルだと舐めていた安納は、すぐにその侮りを払拭しなければと焦りを感じる。
しかし、ビーの動きは安納の心情変化よりも速かった。
交差させた棒がうねる蛇のように動く。
柔軟な手首の旋回で木刀を擦り抜けて攻めに転じる。術理自体は剣道の『返し技』に近いが短い棒でやると予備動作が殆ど見えない速度で終了する。
一方は顔を狙う突き、一方は膝を狙う横打ち。
続飯付で芯を取るのは間に合わない。一本の木刀で上下同時に狙う打突を防御することは出来ない。
自ら心置きを乱して自信のある近接距離から離脱せざるを得ない状況に追い込まれたことに歯噛みしながら、安納はすり足で距離を取った。
そこに一閃。
思考ではなく反射的に木刀を上げて防御した安納であったが、それは防御など構うことなく強引に浴びせかけられる。
安納は何が放たれたのか気付く暇など無かった。
側頭部から後頭部にかけて強烈な衝撃が走り、防御で掲げた木刀が自分の横顔に埋まる。
まるで巨大な水袋を叩きつけられたような感覚。
木刀一本では遮りようがない面範囲の攻撃。
地に転がる安納が見上げた先には、往年の勇姿と違わぬ左ハイキックを振り切るビーが立っていた。




