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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十一話
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【馬庭念流:安納 林在】①




 息を吸い込むと汗とカビの匂いがした。

 洗ったばかりの道着だというのに汗が滲むとすぐ煮染めた皮脂の匂いが充満してくる。

 また洗って日向で干さないと――と思ったのと同時に強烈な面打ちを浴びて眼の前が白く光った。

 重い。

 頚椎まで縮みそうな一撃。

 頭に被っている『あんこ』と呼ばれる面防具はボクシングのヘッドギアを一回り大きくしたような見た目だが、師の放つ強く粘りを込めた打突はそれすら浸透して内部を揺らしてくる。

 腹が立って同じように面を叩きつけようと袋竹刀を持ち上げると、そこにまたも粘りの効いた小手。

 痛みを染み付けるように小手上に袋竹刀を残しての残心。

 師は次の起こりを待っている。


 ならば一旦引こうと下がるが、それに合わせて師も前進。袋竹刀をぶつけ合わせても強かに受け流され剣尖は振れない。

 気が付けば壁を背負っている。逃げ場はない。

 世界中のどこに逃げても目の前の剣尖は付いてくる。

 かといってこちらから動けば、また痛みを擦り付けられる。

 一体どうすれば良いというのだろうか。


 ―――

 ――

 ―


 夢から覚めた安納(アノウ)林在(リンザイ)は尋常ではない寝汗に驚いた。

 開け放たれた窓から差し込む陽光を直接浴びていたようだ。

 サイドボードのミネラルウォーターを飲み干した後、時計に目をやると長針と短針が真上で重なろうとする瞬間だった。

 ルームメイトのインド人、アールシュが室内の蒸し暑さに気を利かせて窓を開けてくれたらしいが、それは同時に昼まで寝てしまうと上手い具合に角度調整された日光がベッドの上の物をソテーにしてしまうという小さな悪戯も内在している。

 安納は起きるや否や暑さと悪夢を払拭する為、シャワールームに飛び込むはめになった。


 タイ北部。メーホンソーン県にある山間の町パーイ。

 観光地として有名なチェンマイから車で山道を四時間走ったところにあるパーイは、国立公園に囲まれた美しく豊かな自然を有する盆地の町である。

 都市部のようにバイクがひしめき合う喧騒は見られず、治安も比較的安定しているのでバックパッカーが好んで集まる町だ。

 彼らの目的は専らトレッキングやツーリングであるが、安納の目的は違っていた。


 【クラビー・クラボーン】。

 タイには古式ムエタイと同じく古代シャム王国時代に生まれた武器術がある。


 日本古流の伝説、奏井至方に倣い、世界を旅する道すがら現地の武器術と立ち会う武者修行を敢行していた安納だったが、ここタイでは簡単には行かなかった。

 そもそもどんな武術流派でも見学や練習ではなくいきなり『試合』を受けてくれる相手は中々おらず、時には金を積み、時には喧嘩を吹っ掛けるように始まる戦いもある。

 そして今はムエタイを習う事から始めている。

 古式に詳しいと言うバックパッカーのアールシュの紹介であったが、習い始めてから一ヶ月が経った今、安納は焦れていた。

 アールシュが言うには「知り合いの術者を説得するから、その間ムエタイを習え」とのことである。


 現代のムエタイは、古式ムエタイと呼ばれるシャム拳法から投げと関節技を排除した競技である。

 安納に競技化されたスポーツを卑下する思いはないが、外国人観光客に混じってキックボクシングと変わらないトレーニングをすることに一ヶ月間も足止めを食らうのは本意ではなかった。

 恐らくもっと寒村のジムを訪ねればより原始的な、より源流に近いトレーニングが見れるのかもしれない。しかしここはあくまで観光客向けのフィットネスの意味合いが強いのだ。

 重い縄を使った縄跳びから、鏡を見ながらのフォーム確認、そしてミット打ち。それで全てである。

 スパーリングをやらないのは安全に配慮してのことだと、トレーナーのビーが言った。

 ビーとは文字通り英語の蜂を意味する愛称だ。タイ人は宗教が絡んで恐ろしく長い名前を持つので、縁のある名詞を仇名として日常生活で使っていたりする。

 かつて現役選手時代にそう呼ばれていたとビーは壁の白黒写真を指さして答えた。写真の中では細身だが靭やかな筋が浮き出た男が見事なハイキックを放っている。今では見る影もなく、年相応の脂肪を纏った中年男性でしかないが。


 追加料金を払えば若い現役選手とカードを組んでやるとビーに提案されたが、安納は断っていた。

 金が無いのだ。

 思い立ったその日に着の身着のまま、若さだけを鞄に詰め込んで飛び出した極貧旅。多少の貯蓄はあるが生活費は基本的に現地調達である。


 シャワーを終えた安納は財布を確認して「潮時か」と小さく溜め息を吐いた。

 ジムも宿も無料ではない。滞在日数に伴って日々薄くなっていく財布にも計画性に基づいた限度がある。

 いくつかの出版社から旅行記のオファーが来ているが、今はまだ日記のような草稿しかなく前借りを要求できるほどの知名度もない。


 安納は当初から感じていた嫌な予感が的中したように思えていた。

 ゲストハウスで意気投合し古流に理解を示してくれたアールシュは、実はジムの客引きだったのではないかということだ。

 日本人と名乗ることで差別を受けたことはないが、ある種金づるとしての親切を見せる輩は少なくない。

 彼らも生活が掛かっているだろうし、違う世界で生きてきた他人に同じ倫理観を期待するのは間違っている。

 それでも安納は期待してしまったのだ。

 「自分も古流を巡って旅をしている」と知見を披露してくれたアールシュに。


 とはいえ背に腹は代えられない。

 安納は手荷物を纏めて、最後のひと稼ぎに町へと繰り出した。




   ■■■




 パーイ市内は観光客向けの出店で溢れ、バンコクの雑踏程ではないが繁華街と言っていい賑わいを見せている。

 乾季は観光シーズンでもあり、目抜き通りには白人系のバックパッカーが多い。

 露店に並ぶ物はパステルカラーの小物やアクセサリ、パーイの自然を描いたご当地Tシャツなどで、この手の商魂が滲み出るセンスは各国共通なのだと安納は理解していた。

 行きつけの店でいつものように目玉焼きを二つ乗せたガパオライスを平らげた安納は、店主とハンドサインで会話して軒先を借りることにした。


 まずは路上に空のトランクケースを広げ、次に『物』を探す。

 石、廃材、空き缶、何でもいい。目に付く物を手当たり次第に集める。

 そうして準備が整ったら、軽快な音楽に乗せてそれらを積み上げていくのだ。


 安納は各国を周る中、大道芸人として糊口を凌いでいる。

 武は芸でもあり、芸は身を助ける。修得した古流の術理をアートに落とし込むことで万人を驚かせる芸に変えていた。

 その術理とは『重心を観る』ことである。


 最初に地に置いたのは直径十センチほどの不格好な丸石。

 その上にスチール製の空き缶を置き、更に上に角材の切れ端、ワイングラスを乗せる。不格好な石、スプレーの空き缶、原付きの廃タイヤと次々積んでいく。

 ガラクタの塔に物が積まれる度、道行く人が足を止めて感嘆の声を上げ始めていた。


 積み上げられた全ては接着されたかのように均衡を保ち、崩れることなく地に立っている。

 安納は流派の崩し技を修得する過程で、物の重心を即座に見切る才能を開花させていた。

 たとえ斜めに立てられた空き缶の縁であってもそこには自重を保持できる不動の一点が存在するのだ。

 才を活かし芸にまで昇華させた積み木遊び。

 二メートル程に積み上がった塔の上でジェンガを始めると人集りから拍手が巻き起こり、空のトランクケースに小銭が投げ入れられていく。背後の屋台も繁盛し、店主の親父が親指を立てて安納にウインクを飛ばしている。

 安納は同じハンドサインを返しながら、心中では少しの寂しさを覚えていた。


 今日が最後、明日からはチェンマイに移動して大道芸で渡航資金を稼いていくことになる。

 目指すはフィリピン。エスクリマという武器術が有名だ。

 ムエタイ以外収穫がなかったタイに未練はあるが、生きていればまた訪れる機会はあるだろう。その時は行き当たりばったりではなく、もっと資金的に余裕を持たせた計画性で古流を暴いてやろうとリベンジを誓っていた。


 喝采を浴びる高揚感、旅愁の悲壮感、騙されたことへの小さな怒り。脳内を様々な思いが駆け巡っていく。

 だから見落としてしまっていたのだろうか。

 安納は背後から向けられる声が、ルームメイトのアールシュのものだと気付くのに数秒掛かってしまった。

 驚きでジェンガを崩してしまった日本の友人にアールシュは満面の笑みでこう言った。


「アノー、対戦相手が了承したよ。今夜は空いてるかい?」




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