【鉄斎】②
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空調が切られた控室の中央で、二人の男は向き合うソファに座って視線を交わしていた。
間に置かれたテーブルにはカセット式コンロ、その上では沸騰しかけのヤカンが小刻みに震えている。
両者無言のままかれこれ十五分が経とうとしていた。
噴出する汗が体臭を水滴に変え、肌を滑り落ちる前に内外の熱で気化していく。
それはヤカンの蒸気に乗って部屋中に漂い、二人は互いに名刺交換でもするように混ざり合う匂いを確かめあっていた。
体勢を少し変えるだけでも均衡を崩しかねない緊張感は呼吸に合わせて揺らぎ続けている。
二人は血飛沫舞う惨劇へと変わる寸前で踏み止まり、見え隠れする最高潮の兆しを愉しんでいた。
両者のセコンドを務める黒服の男たちは少し離れた位置に立ち、睨み合う闘技者たちの機微を入念に観察している。
それは試合前に闘争を展開しかねない異常者同士の邂逅を危惧しての警戒である。
突如ヤカンの笛の音が鳴り響くと、睨み合っていた一方の男、日馬琉一は喰らいつく虎のように口を開いて笑った。
「……お茶、飲みますか?」
「頂こう」
もう一方の男、犀川秀極も同じく野蛮な笑みで応えた。
日馬はテーブルの隅から茶盤に乗った茶壺を引き寄せ、煮えたぎるお湯を注いで複数の容器を順番に温めていく。
グローブのような拳の指は充分に広げることが難しいのか、茶器を掴むことすら覚束ない。
それもそのはず。
日馬の両手の指は太く大きいだけではなく、人差し指、中指、薬指、小指が繋がって癒着しているのだ。
間近で観察して初めて気付く異様に犀川は疑問の答えを垣間見た。
――遺伝子疾患。
母親の胎内にいる赤子は六週間ほどで手が発生し、それはまず握り拳を形作る。その後、指間の細胞がプログラム細胞死によって死滅することで徐々に五指が形成されていく。
日馬は何らかの遺伝子疾患が原因で指が繋がったまま産み落とされたのだろうか。
本来は出産後に切り離すことになるが、家庭的、経済的事情からそのまま育った結果、握り拳に特化した骨と筋肉が形成されてしまったのかもしれない。
捨て子か孤児か、彼の人生を推し量ることはできないが、先天性のハンデを自らの才能に変える努力を行ったということだけは充分に伝わってくる。
犀川は感動すら覚えていた。
神が意図せず作り上げた芸術、殴るためだけに存在する拳。
障害を抱えたことに諦めや妥協はなく、与えられたものの意味をよく考え鍛錬して殺しの道を切り開いている。
茶葉を掬う匙を握り込んで持つ無作法な見た目とは裏腹に、不器用ながらも来客を持て成す日馬の繊細さに殺人者としての美学を感じた犀川はただ黙って待っていた。
蓋をした茶壺にも熱湯を回しかける中国式の作法は靄がかる程の蒸気を発生して彼我の視線を霞ませるが、それでも犀川は視線を切らず相手のポテンシャルを測っている。
長い作法を終えた日馬が再び視線を合わせて口を開いた。
「あなたの資料、拝見しました」
「それで?」
「態々自身の経歴を送りつけて手の内まで晒す……最初は失望しました。ですが今は……」
「今は?」
「確信しています。あなたは私です」
日馬の言葉を聞いた犀川は、心底から湧き上がる歓喜で頬が緩む。
殺意と愛情は表裏一体。相手への尽きない興味が永遠を求めた結果、死という完成形へと辿り着く。
本来なら短い戦いの合間に築き上げるものだが、犀川は生き写しの日馬を殺すにあたって全幅の興味を育む時間を欲した。
その結果、分かり合えたのだ。
これ以上の奇跡があろうか。
「最高だ。日馬、俺はお前を抱きたい」
「奇遇ですね。私も貴方を存分に愛でてから、直滑降の殺意で凄惨なオブジェに変えてみたい」
その逆も然り。
彼我の価値観は殺すも殺されるも同義。
孤高の芸術家同士は千載一遇の邂逅に辿り着いた。
「俺も今確信したよ。俺たちは出会うために生まれてきたのだろう」
研ぎ澄まされた感性は共鳴するように質を高め合い、眼前にある生きた肉体の末路を思い思いに夢想する。
「しかし、もしトーナメントで離れてしまったらどうしますか?」
「関係ない。機が熟したと互いに感じる瞬間が必ず訪れる。それが合図だ」
「……それもそうですね。その時は人目も憚らず貪り合いましょう」
一度目は阻まれた戦いだが、想いの質量を増大させた二人の引力を阻むものは何もない。
八雲會の都合で引き摺り出された表の大会など興味の外であった。
「然らば、不公平があってはいけませんので予めお教えします。私の武器はこれです」
そう言うと、日馬はソファの背に隠していた獲物を取り出して、犀川がよく見えるようにテーブルの上に置いた。
長さ四十センチ程の金属棒。中頃には刀を絡め取るための鉤が付いている。
「試合に際しては当理流、十手術を使おうと思っています」
「ほう、武器も使えたのか。興味深いな」
基本的に防御寄りの武器ではあるが、日馬なら鍔が無いことを利用して殴りを主軸にすることもできるだろう。異能が修めた攻防一体の技に興味が尽きない犀川であった。
――もう、待てない。
犀川は股間が疼くのを感じている。
もはや言葉は要らないように思えた。
視線を絡ませる日馬も同じ思いであることを確信している。
――が、今ではない。
青い性をぶつけ合う子供の如き快楽で終わらせる戦いではない。熟成を待たずに蓋を開けてしまっては全てが台無しになる。
今はまだ、降り注ぐ感情を静かに受け止める凪でなければならない。
日馬が差し出す茶を口に付けながら犀川は感情の置き所を模索していたが、沸騰する心中を収めるのは容易でなかった。
器を飲み干してもまだ煮え滾る想いに耐えかねた犀川は、ふと室内の茹だる暑さが気になり声を上げた。
「それにしても、この部屋暑いな」
「ええ、わざとです」
指摘を待ちかねていたかのように日馬は上着を脱いで鍛え上げた胸筋を晒し始める。
「そうか。わざとか。なら仕方なし」
意図を察した犀川も道着を脱ぎ始めた。
「私はあなたの事を知りたい。知り尽くした上であなたが一番して欲しい事をしてあげます。分かりますか?」
「もちろんだ。知り尽くすことで荒ぶる魂が完璧な虚像を作り上げる。寝ても覚めても身近に感じる程強固に」
道着を脱ぎ捨て、袴の紐を解き、やがて二人の男は下着一枚の裸体を晒してソファから立ち上がる。
闘争の気配。
言葉もなく通じ合う二人は無手の前哨戦を始めようとしていた。
ようやく異様なやり取りに追いついたセコンドの黒服が八雲會の思惑を外れた暴走を止めるべく口を挟んだ。
「お二方、お収めください。まだ大会も始まっていないのに先走れば醜聞を残」
「黙れ。殺すぞ」
怒気を孕む犀川の声に黒服は言葉を詰まらせ息を呑む。
狂人ではないが狂気とも言える異質な価値観を矛盾なく定着している故、傍から分析しているだけの常人に説得することは不可能なのだ。
「何も今すぐ殺し合おうというわけではない。だがこの昂ぶり、前戯なしに収めることなどできぬ」
鼓動に合わせるように血流とリンパ液が増大して肉体が隆起していく。
感情だけでパンプアップしてみせる犀川の異質を視線で舐め回した日馬は、半歩近づいて提案した。
「こういうのはどうでしょうか。互いに組み合い上半身の力だけで技を掛け合うのです。相撲とグレコローマンの融合。オーストリアに伝わるランゲルンという競技です」
「それだ……おい日馬、ランゲルンしようぜ」
セコンドの黒服たちは呆れたように頷き合うと、これ以上は耐えられないとばかりに異世界化していく部屋から足早に退出していった。
選手控え室が並ぶ廊下の片隅。
扉一枚隔てた熱帯の室内から、組み合う男たちの野太い声と叩きつける肉の音が止めどなく響き渡っていたのであった。