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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三話
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【来訪】①




 ――素振りをしていると心と体が分離しやすい。


 午前六時。

 日課のランニングを終えた鉄華は自宅の庭に戻り、いつもは木刀を使うところを今日は祖父の形見である真剣を抜いて構えていた。

 中段構えから頭の後ろまで大きく振り上げて、()り足で踏み込みながら一気に振り下ろす。

 握る手を雑巾絞りのようにすることで両肘が体の内側に入ってピタリと止まる。

 そしてまた摺り足で下がりつつ振り上げてから振り下ろす。何度も繰り返す。回数は数えず時間で区切る。

 リズムのある反復運動はやがて脳を介さない反射で処理されるようになり、分離した脳は別の思考を始める。

 その時に始まる思考は平常時よりも高い集中力が発揮される事を鉄華は知っていた。

 まるでフリーダイビングのように深く暗い水底に向かって突き進む感覚を確かめる。


 鉄華は剣道を辞めても、早朝のトレーニングという染み付いた習慣だけは続けるようにしていた。

 特に素振りは一ノ瀬が鉄華に課した課題でもあり、経験の浅い者は反復稽古で正しいフォームを体に覚えさせる必要があると助言されていた。

 基礎を極めれば奥義に成る。それは全てに通ずる教訓でもある、と一ノ瀬は言う。


 鉄華は泥蓮との戦いを思い出す。

 何もかもが劣っていたが、熾烈な戦いの最中に不思議と心と体が分離する瞬間があった。

 起きたら忘れてしまう夢のようにその時のことを思い出せないでいる。

 ただ体だけが剣道という枠を超えて、初見であったはずの槍術に対応できるように動いていたのは確かであった。

 あの瞬間を突き詰めていくことが泥蓮に近づく手がかりであるように思えたが、鉄華は未だ答えを得ることはできないままでいた。


 素振りを一時間続けた後、呼吸を整えて納刀する。


 鉄華が所持している刀は祖父の遺言で譲り受けたものであったが、当時は所持を証明する書類等がなく、それを聞いた母親はすぐに警察署へ届け出ていた。

 今日では登録証を持たずに刀剣を所有することは犯罪であるからだ。


 終戦時のポツダム宣言には全ての武器の差し出しを命じた一文があり、それは民間人の所有する刀剣にも及んだ。

 しかし美術品としての側面を持つ日本刀の所有に関して多くの愛刀家たちから嘆願書が出され、二年後の一九四七年に進駐軍の大佐が返還を認めることになった。

 その際、所持を許可する登録証の制度が作られたのだが、先に行われた刀狩りの影響で疑心暗鬼になった人々の中には審査を避けて隠し持つ者も少なくなかったという。

 そういう経緯を辿った刀が蔵や納屋から発見されるという事例は現代でも然程珍しくはない。


 鉄華は正式に所持許可が降りて以来、四半期に一度刀の手入れを行っているが、柄を外した(なかご)には、


 『鵜戸水泉(うどすいせん)作/昭和二十年 蓬莱(ほうらい)


 と銘が彫られているのを確認している。

 これは登録証にも書かれていて、おそらくは鵜戸水泉という刀工が昭和に入ってから作った作品で、(こしら)えの意匠的にも美術的な価値は薄いとのことであった。

 時期的には終戦放送で世間が揺れ、刀狩りが施行されるかどうかの動乱の時期に刀を打っていた刀工がいたことになる。

 相当肝の太い人物がいたもんだと鉄華は思っていた。或いは例の部活で聞いてみればどういう人物であったのか知ることができるかもしれない。


 入部届けを出してから週明けの今日、鉄華は初めて正式に古武術部に行くことになっていた。




   ■■■




 西織曜子は憂鬱であった。

 受験の合格発表と同時に課題が出されていたことを、授業で教員が回収の旨を伝えるまで完全に失念していたからだ。

 決して地頭が悪いわけではない彼女だが、課題の提出率に関しては碌なものではないと自虐的に語る。


「小学校の夏休みの宿題とかもさ、みんなは休みの後半になってから必死にやったとか言うんだけど、私は思い出すことすらできず全くやらないまま登校しちゃってね~。そこから必死になって友達のを写させてもらっても全然間に合わないわけよ。で、当然先生に怒られるんだけどまた提出日忘れちゃって、そうやって繰り返していく内に先生の方が折れて『もういいや』とか言われちゃうの」


 それを聞きながら鉄華は、自分とは真逆だなと思った。

 締め切りや待ち合わせといった時間の期限には敏感で、守れなかった時を想像するだけで手汗が滲む。だから課題は与えられたその時にこなし、待ち合わせは三十分前には着いている。

 それで学力が低く友人も少ないというのは何の帳尻合わせなんだろうか、と少し悩んだ。


「家に帰るとありとあらゆる誘惑が襲ってくるわけよ。テレビにネットに漫画にゲームにアニメとさ、寝る時間圧迫するくらいの娯楽で飽和している現代人はこの先どうなるものか誠にけしからん! と危惧しつつもスマホ弄っちゃったりしてさ、気付いたらもう三時間しか寝れねーよ、的なアレでさ、いわば現代の娯楽が生み出したモンスターが私なわけよ」


 剣道を捨てた今、趣味など何も無くなった鉄華からすれば羨ましい話であった。

 惰性で続けているトレーニングも趣味かと言われると意味合いが少し異なる。あれは「備え」でしかない。


「だからね、私は消費する側から作り出す側に回ろうと思ったんだ。ぼーっと妄想するのは得意だし、それを形に変換するかしないかは結局やる気次第だなって思うのよ。シャワー浴びてる時とか寝る前とか、あっこれ妄想の中だけで終わらせるのはもったいないなってくらいの傑作になってる時あるし。私勉強はぱっとしないんだけど絵は割と得意でさ、漫研でそのへん鍛えていけばればなぁってさ決心したのよ!」


 この先また泥蓮と戦うことがあるかもしれない。歌月の性格を考えると剣道部にも絡まれ続けるだろう。

 泥蓮の件で想像以上に煽られ弱い自身の性格も認識している。それが災いして喧嘩に発展した日にはまた中学時代のように孤立するかもしれない。その際に周囲の攻撃が降り掛かってくるかもしれない。

 だから備える。一人で戦うために。

 

「鉄華ちゃん? どうしたの?」


 覗き込む曜子と目が合って、鉄華はそこで正気に戻った。


「いやぁ、曜子はすごいなって感動してた」

「へ? いやぁそれほどでもございませぬよ~」


 暴力に備えるために暴力を磨く女子高生はまともではない、と思い直した。それ以外の選択肢を持つために選んだ道にも当たり前に障害は転がっていて、それを蹴飛ばしていくのなら結局は同じ道の上ということになってしまう。

 今はそれしか知らないが、いずれは変えていかなければならないのだと反省する鉄華であった。




   *****




 滝ヶ谷(タキガヤ)家の客間は十畳ほどの和室であった。

 そこで二人の女が正座で向かい合っている。


 一方は剣道の女王、篠咲鍵理。

 もう一方は家主である滝ヶ谷香集(カスミ)である。


 茶器類は無く、家主は客人を持て成す気は毛頭なかった。


 滝ヶ谷は年の頃は三十代前半。肩に掛かる髪を頭の後ろで編み込んで纏めている。

 清楚な顔立ちとは対象的に和服の襟から覗く胸元には無数の傷跡が刻まれていた。恐らくは全身にも同じように刻まれているであろう。

 それは、鍛錬によるものだけではなかった。


「お断りします」


 滝ヶ谷は薄く笑みを乗せながら拒絶の意思を示した。彼女は舌前部の三分の一ほどを失っているが、その発音に淀みはない。

 篠咲は口元だけを緩めながら応える。


「もう一度、よくお考えになられた方がいい。私としてはあなたの選択を尊重するつもりですが、あなたの無能故に月山流が途絶えるのはあまりに忍びない」


 滝ヶ谷本人ではなく家伝である月山流薙刀の事を煽る。師や流派を引き合いに出せば断れないというステレオタイプな古武術家であることを篠咲は知っていた。

 滝ヶ谷は僅かに目を細める。金銭的な理由により道場の経営どころか自宅の維持すら困難であること、独身である彼女には後継者すらいないこと、それら全てを調べた上で現れていると察した。


 月山流薙刀術はかつて戦国の世に生まれ全国各地の藩剣術として採用されるまでになったが、太平の世が続くと槍や薙刀といった携行性に乏しい武器は「合戦術」という分類にされて形骸化していく。

 やがて個人間の戦闘、小兵法を念頭に置いた各剣術流派に地位を奪われて規模を縮小し、明治に入り廃刀令が施行されると真っ先に失伝することになった。


 そんな月山流を昭和期に入ってから復活させたのは「鬼小町」と呼ばれた剣豪、滝ヶ谷志津麻(シヅマ)である。

 志津麻は戦時中の負傷を理由に独身を通していたが、その生涯の最後に一人の養子を迎え、月山流の全てを伝えていた。




   ◆




 無作法な客人を追い返した滝ヶ谷は、道場の中で薙刀を携えて一人静かに黙祷していた。

 前方にはそれぞれ高さの違う燭台に乗る三本の蝋燭(ろうそく)。その炎は吹き付けるような剣気で揺らめき、相対する女の影を壁面で騒がしく動かしていた。


 気力が満ちた滝ヶ谷は目を見開き、脇構えから腰車で横薙ぎに一閃する。

 半歩踏み込みつつ返す刃を斜めに振り上げてもう一閃。

 最後は上方からの袈裟斬りで振り下ろす。


 その瞬速の薙刀捌きのいずれもが蝋燭の芯だけを捉えて切り離している。

 操手を強力な握力でコントロールする袖切(しゅうせつ)という技は、義母が最も得意とした技でもあった。

 頸部、小手裏、内腿といった甲冑の隙間を狙う緻密な斬撃は、その術理上、素肌剣術の急所に置き換えても何ら問題はない。

 古流の薙刀術は現代の「なぎなた競技」とは違い、基本的には対剣術で構成されている。どれほどに鍛錬しようとも異種対決の場がなければ俎上に載ることもない。


 暗闇の中、滝ヶ谷は残心をしながらゆっくりと息を吐く。

 それは蒸気のように熱を帯び、体内の燃え盛る核が解放される瞬間を待ち侘びているようにも見えた。

 彼女は篠咲の提案が選択の余地のないことだと認識しながらも、心の何処かで高揚している自分がいることを認めざるを得なかった。




   *****

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