【天然理心流:犀川 秀極】①
その扉の重さは、隔てた空間の熱気そのものであった。
開け放つ瞬間、気圧差でなだれ込む空気を肌で感じながら、男は祈るでもなく目を閉じる。
鼻孔を刺す汗の匂い。乾いた血の据えた匂い。品のないオーデコロンの香り。
それらが混ざりあった悪臭を大きな深呼吸で肺の奥まで取り込んでから、闇に順応した瞳を静かに開いた。
眼前に広がる暗闇の空間。その中心に光輝く金網のリングがある。
火に入る羽虫のように、施しを求める物乞いのように、啓示を得た殉教者のように、男は光に向かって歩を進めていく。
声援、或いは罵声。
拍手、或いは足踏み。
誰もが普段は見せない本能を解放させ、味方も敵も一つの音となって空間を震わせている。
男、犀川秀極にとっては望んで手に入れた愛すべき光景であった。
目と鼻と耳で肌で会場の全てを取り込んだ犀川は人々の本能と一体化し、期待に応えるよう牙を剥き出して破顔する。
限界に達した興奮に身を委ねて花道を駆け抜けると、リング内ではテンガロンハットを被った痩身の男が同じく薄笑いを浮かべているのが見えた。
この場にボディチェックもレフリーもいないのは、文字通りルールが存在しないことを意味する。
勝つためなら何をしてもいい。勝てると思うのであれば銃器を始めとする近代兵器の使用すら許可される。
ここは【八雲會】と呼ばれる地下闘技場であった。
出資者、主催者は一切不明。
観戦者に課せられる守秘義務の重さから富裕層の内でも上流の人物で構成されていることは確かだが、開催の目的は憶測の域を出ない。
最強の武器、闘技を知るため。
人殺しが観たいという嗜虐好奇心を満たすため。
単に賭け試合としてのベット額を上げるため。
様々な需要が絶妙のバランスで混ざり合って八雲會を成立させているが、この違法性の塊のような場がいつから存在し何の目的で運営されているのかは誰も知らない。
犀川に分かるのは、参加選手は全員自発的にこの場に居るということだけである。
生活に困窮する貧者が銃器を持って運で一勝して引退するのを八雲會は望んでいないので、選手は綿密なテストと人物調査の末に招待されることになる。
つまりは、社会で居場所をなくした戦闘狂が適者ということになり、犀川のみならず他の闘技者も強く望んだ上で八雲會に参戦していた。
八雲會は試合の度に約半数の選手を永遠に失う。
その入れ替わりの激しさを考慮して、何戦か勝ち抜いて実力を証明した者は特別闘技者として下位のトーナメントから隔離される。
特別闘技者同士の戦いは年に一度と定められ、犀川にとっては今日が待ちに待ったその日であった。
リングに入場した犀川は腰の日本刀を抜き放ち、鞘をリングサイドに放り投げる。
それを確認した相手の男は左腕を胸の前、右手は腰のホルスターに添えて構えた。収められた銃はシングル・アクション・アーミー。ピースメーカーという呼称から程遠い場に立つガンスリンガー。
充分に鍛錬された早撃ちの速度は日本刀の居合を凌駕することを犀川は知っていた。
シングルアクションのトリガーは撃鉄を起こす動作をしない分、プルが軽くストロークも短い。扱いに長けた人間ならば撃鉄の上に指を滑らせるファニング動作で自動銃を超える連射が可能である。
犀川は剣尖を静かに持ち上げて、刃を左に寝かせた中段で相対した。
天然理心流、平晴眼の構え。
銃と戦うのは初めてではない。むしろ銃器が禁止されていない八雲會では近接武器を選ぶ人間の方が少ない。
しかし、特別闘技者の多くは近接武器の操者である。
八雲會で採用されているリングは直径八メートル程のオクタンゴン・ケージではあるが、内部には剣道のように闘技者の立つ開始線が設けられている。
その距離は二メートル。これは真剣の一足一刀の間合いである。
銃器には金網外に設置される防弾ガラスを突き抜けない程度の威力制限がある一方、闘技者が防弾防刃の衣類を着用することは禁止されていない。
故に、経験豊富な強者の多くは銃よりも近接武器を好む。
銃の弱みを体験してきた者はガンマンを恐れない。
犀川は擦り切れるほどに奥歯を噛み締めながらも、少しずつ膝を抜いて開始の合図に備えている。
過剰に分泌されるアドレナリンが散瞳を起こし、瞳の闇を濃くしていた。
――早く始めろ。
手を斬り落として武器を失った男がどう藻掻くか見てみたい。
動脈を切断され出血で少しずつ弱っていく様を眺めたい。
睾丸を潰されて死後の世界が見えたように絶望する表情を焼き付けたい。
首の断面から最後の言葉を紡ごうとする咽頭の動きを観察したい。
内に飼う獣の鎖が千切れそうなほど軋みを上げている。
両者の闘気がせめぎ合い、何の合図がなくても飛び出そうとする機運を観客ですら感じた瞬間、開始のブザー音が鳴り響いた。