【立身流:由々桐 群造】③
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群造は敢えて『信頼』を武器に商売をしている。
職務に誠実で機密は秘匿する、ただそれだけのことがこの国では特別であることを知っているからだ。
しかし、何事にも『例外』はある。
電話を終えた群造は、シガーケースから取り出した煙草に火を点けた。
そして襲撃者から奪った黒いボックスカーを路地に停めて、しばらく考えを巡らせる。
追われる身にも関わらず余裕を見せる群造に違和感を抱いた百瀬が口を開いた。
「電話は終わりましたか?」
「ああ。念の為知り合いに頼んで事務所の書簡を取りに行かせてたんだが無事だったようだ」
「では何故、こんなところで悠長に過ごしているのですか?」
殆ど結論に辿り着き、対応すべく行動していた群造は返事代わりに煙を吐き出して小さく笑った。
「なぁ、百瀬さん。もう一度聞くが、実際のところアンタは何者なんだ?」
この先はギャンブルだ。
老女は自分の誠実さを試され、命を盤上に差し出して踊り歌う。
バックミラー越しに飛ばす群造の視線は冷たく百瀬の芯を捉えていた。
「詮索しないのが貴方のルールでしょう?」
「ただの興味本位だよ。……まぁ大体の検討は付いてるんだけどな」
「へぇ……素晴らしいご慧眼ですね。答え合わせしますか?」
「ヒントは充分に出てる。忍者と言っていたがそれは何らかの戦闘訓練を受けていたということだ。おまけに正式な方法で入国できないときている。アンタくらいの高齢でそんな境遇の日本人となれば答え合わせするまでもない」
「……」
それほど数奇な人生を歩んだ日本人など、後にも先にも彼らしかいない。
老女の沈黙は肯定を示し、車内の空気が張り詰めていく。
――何故、今更日本へ戻るのか?
その答えが出るまで群造は依頼を放棄することにした。
すぐ置き去りにしないのは一連の流れの中に大金が見え隠れしているからだ。
群造の意図を察した百瀬は嘲笑うように嘆息してから沈黙を破った。
「由々桐さん、貴方はこの世界をどう思っていますか?」
「どうした急に」
「貴方は何故日本を捨てて中国で裏稼業に手を染めているのですか?」
「もうボケたのか? 俺の自己紹介やってる暇なんてないんだよ」
百瀬は紫煙を追うように視線を泳がせ、記憶を辿る。
記憶の先には激動の時代を生きる一人の少女が立っていた。
「私たちは世界を変えられると思っていました。誰もが平等に平和を享受できる理想社会、その答えに辿り着いたと盲信し、自惚れていたのです」
四十年以上前の自分を見つめては、届かない想いを吐露するように言葉を紡ぐ。
「行き着いた先がここです。共産思想を私物化する敗北主義者の国。人命で経済を支える過剰な金銭至上主義。まるで喜劇のオチですね。……由々桐さん、私はもうこの世界に疲れたのですよ。せめて死ぬ時くらい日本の土に還りたい」
金と権力を持つ者が政治を動かし、自らの利権を拡大させ続ける。
その意味では資本主義も行き着く先はディストピアであるが、人権を剥奪することが容易な共産主義社会はもっと効率がいい。
人命を考慮しなければバブル経済の延命も容易く、全体主義の思想統制も暴力で管理できる。
この国は百瀬にとっての理想ではなかったのだ。
実現しない理想を追いかけ、その度に血を流し続けた憐れな革命者、それが彼女の正体であった。
「泣かせる話だが俺にはどうでもいいことだな。アンタが何故追われているのかという謎が解かれていない」
群造と百瀬の居場所を暗仁幇に流したのは蚣蝮以外に考えられない。
何故、蚣蝮が裏切ったのか? ――それは政府の介入があったからだ。
百瀬を届けた先に待っているのは警察と政府の役人である。
密入国の収入が見込めなくなった蚣蝮は群造を見限って、闇社会と政府の両方から情報提供料を取ることを選んでいた。
この時点で依頼は『例外』に触れており、完全放棄しても何ら良心の呵責はない。
だが、群造にとって興味深い事実もそこにはある。
暗仁幇を雇った人物のことだ。
個人なのか組織なのかは分からないが、あらゆる稼業の例外である中国政府を敵に回してでも何かを手に入れようとしている者がいる。
「百瀬さん、あの書簡は何だ?」
これが最後の質問になるかもしれない。
群造は懐中でマカロフの銃口を後部座席を向けて答えを待つ。
日も傾き始めた倉庫街の路地には他の車も人影もない。
遠くの建設現場から響く金属音の中に銃声が紛れても誰も気付かないだろう。
「……手紙、それと割符です」
「割符? 何かの鍵か?」
「それは遺産金と呼ばれているようです。我々、赤軍の」
■■■
寧波市。
深夜0時の埠頭に防波堤で砕ける波の音だけが響き渡っていた。
その闇間に蠢く人陰の半数ほどは現役の警察官であり、飛び出す瞬間を待ち構え、無線の指示に耳を傾けている。
それらを一望できる高台の事務所に、色褪せたフライトジャケットを羽織るスキンヘッドの男、蚣蝮はいた。
――遅い。
約束の時間から二時間を過ぎ、焦りは苛立ちに変わろうとしていた。
由々桐群造はこういった機微には敏感で、或いは蚣蝮の絵図に気付いているかもしれない。
しかし、分かったところでここに来る以外選択肢がないのだ。
政府が動いている。
地方政府を監視する党書記からの勅命ともなれば、群造のバックに居る富裕層コミュニティーも即座に芋引いて孤立無援となる。
方方で恨みを買う彼が生き延びるには、ただ命令に服従し老女を差し出す以外に道はない。
蚣蝮に不満はない。
本来、二束三文を握らされて泣き寝入るしかない政府の横槍だが、別口で闇社会に流した情報が思いの外高く売れた。
利確は終わっており、ここでの捕物が成功しようと失敗しようとどうでもいいことである。
淹れたてのコーヒーを飲み干すことで少し落ち着いた蚣蝮は携帯電話を取り出して群造へと繋いだ。
努めて冷静に、平静に、思惑を気取らせないように気持ちを切り替えて声を上げた。
「群造さんよ、いくら俺でもデートで待ちぼうけくらってそのまま徹夜するなんてことはあり得ないぜ?」
『……蚣蝮か。悪いな、予定が狂った』
蚣蝮は言葉を飲み込んだ。
まだ気付かれているのかまでは分からない。
弱々しく、息も荒い群造の声から察するに本当にトラブルの可能性もある。
「何かあったか?」
『暗仁幇の奴らに襲われてな、少し油断しちまったのさ。ざまあねえな』
「まさか、撃たれたのか?」
『軽症だよ。ただ到着は少し遅れる。明日の午前中ってとこだな』
これは自分のミスだ。
群造の強さを信頼しすぎる余り、闇社会に情報を流すタイミングを早めてしまった。
彼も所詮は同じ人間であり、銃撃戦で常に無傷とはいかないのだ。
手負いの群造と老女、彼らが死ぬ前に情報を引き出す別案を考えなければならない。
蚣蝮が思惑を巡らせて閉口している最中、群造の方から話しかけてきた。
『蚣蝮、……万が一の場合を想定して頼みがあるんだ』
「よせよ縁起でもない」
『依頼人から預かった書簡が別にあってな、そいつの輸送が本来の仕事だ。事務所の金庫に入っている。開け方を教えてやるから頼まれてくれないか』
「……分かった」
『恩に着るよ』
笑みが溢れた。
死の間際にいる人間は自分の生きた証を探ろうとする。
有りもしない友情を確かめ、すがろうとするのは典型的な行動だ。
――裏切った相手に助け舟を出すとは、哀れな死に様だな。
老女が保険として残した書簡、それこそが政府高官が求めるものだろう。
確保して内容のコピーを商材にすればもう一儲けできる。
通話の終わりと共に意気揚々と無線機を握る蚣蝮であった。
■■■
「――などと考えているだろうな」
蚣蝮との通話を終えた群造は口元を緩めて船室を抜けた。
そしてまた漁船のエンジンを掛けて海路を走り始める。
この依頼を請けた時、最後の最後に元運び屋時代の保険が役に立つとは露程も思っていなかった群像は、裏切りの代償を想像し更に頬を緩めた。
「対策はしているのですか?」
側に立つ老女が潮風で絡む髪を掻き上げて質問した。
「暗仁幇にも金庫の暗証番号を教え、置き金とアンタの依頼金を渡すことで停戦状態になっている。低賃金で雇われがちな彼らはこうやって依頼主とターゲットの間で競売させるのさ」
群造はシガーケースから取り出した紙巻煙草を口の端で咥えて火を点けた。
最初の紫煙をじっくり静かに吸い上げ、煙草葉本来の甘みを舌先で堪能してから溜め息と一緒に吐き出す。
慌ただしい一日であったが、最後にこうして海を眺めて煙草を吹かせるなら悪くないと思えた。
「割符は既に日本の私書箱へ発送済みだ。事務所に踏み込んだ蚣蝮が空の金庫を見つけた後、双方に情報を流したけじめを取らされるだろう。まぁ精々時間を稼いでもらうさ」
その後は政府と暗仁幇の戦争が始まるだろうがそれこそ知ったことではない。
どちらの血が流れても市井に生きる人々にとっては喜ばしいことだ。
ただ、腐れ縁でつるんでいた蚣蝮の最後が、下らない小銭稼ぎの失敗というのが哀れでならない。
自らの収益ではなく渡世の仁義を優先するべきだったのだ。
彼もまた過剰な金銭至上主義の犠牲者なのだろうか。
群造は煙草を吸いながら少しの黙祷を捧げた。
「由々桐さんも一緒に日本へ帰るのですか?」
デッキの手摺りに腰掛けた百瀬は、後方へ流れ行く煙を見つめながら質問を続ける。
「ああ、お陰様で他に選択肢がない。このまま台湾経由で沖縄に向かう。途中で乗り換える船は向こう側で用意してくれるらしい」
「向こう側?」
「暗仁幇の雇い主だよ。IT企業の代表者で能登原というらしい。尖閣沖は面倒なんだが海保を抑えるくらいの政治力はあるようだ。聞き覚えは?」
「ありませんね」
どうせ、ろくな相手ではないだろう。
それでも中国内で中国政府と戦うよりは幾分安全だ。
しかし赤軍遺産の交渉をするに当たって、まずはっきりさせておくことがある。
「由々桐輝人を覚えているか? お前ら赤軍メンバーの」
突如出された固有名詞に、百瀬は狼狽えることなく静かに目を伏せて答えた。
「ええ。最後に会ったのはイスラエルのテルアビブですが」
「くそったれ。知ってて近づいてきたのか」
「それは誤解です。珍しい姓ですから、故人との縁を感じて貴方に依頼しただけです。まさか本当にご家族とは思いませんでした」
開かれた老女の瞳には郷愁の念が籠もっていた。
日本を追いやられ世界中に火を付けたマイノリティたちである。浅からぬ関係性がそこにはあるのだろう。
「何で中国にいるか聞きたがっていたな。それはジジイとお前らのせいで日本に居れなくなったからだよ。家族までテロリスト扱いされてな」
「……」
群造は老女の歩んだ道程の全てを否定した。
お前たちが残したものは痛みだけだ、と。
百瀬は返す言葉もなく押し黙るしかなかった。
「百瀬さんよ、日本に帰っても簡単には死なせねえぞ。これはお前らに奪われたものを取り戻す千載一遇のチャンスなんだ。そうでないと首括ったお袋が浮かばれない」
「老い先短い身。今更私の取り分など必要ありません」
「そいつは結構。最後くらい日本の役に立って死ぬといい」
日本にも中国政府の息のかかった組織や闇社会の人間は多く存在する。
能登原という人物も手放しに信用はできないだろう。
一度盤上に投げ出した命を引き下げること叶わず、綱渡りしながらでも結果が出るまでギャンブルを続けるしかない。
――悪くない。
これまでの人生はこの瞬間に集約されるのだ。
生まれて初めて神という存在に感謝を送る群造であった。




