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どろとてつ  作者: ニノフミ
第十六話
65/224

【再会】⑤

   ■■■




 窓の景色が篠突く雨で滲んでいる。


 平成撃剣大会、初日。

 遅めに訪れた台風は未だ温帯低気圧に変わることなく、じっくりと掃除機をかけるように本州を縦断していた。


 早朝に目覚めた鉄華は寝惚けたまま習慣化しているランニングと学校の支度の為に動き始めたが、顔を洗った段階で学校に行かなくていいことを思い出した。

 暫くしたら不玉の迎えが来て、そのまま会場に向かう手はずである。


 鉄華は下着姿のまま鏡の前に立ち、自身のコンディションを再確認する。

 身長は入学時からまた少し伸びて百九十二センチに届きそうになっている。

 体重も増えたがその殆どは筋肉だ。

 たるみ始めていた二の腕も引き締まり、腹筋も幾分か角ばって見える。

 髪は昨日散髪に行って襟元辺りで切り揃えている。

 怪我も筋肉痛もなく、イメージ通りに身体を動かすことができる。

 中学校時代の全盛期を超える最盛期であることを確認してピシャリと顔を打った。


 それから剣道着に着替え、五日間分の着替えを詰め込んだトランクと、冬川が置いていった木刀を入れた竹刀袋を担いで階下へと降りていく。


 午前四時。

 母は寝入っていて起きてくる様子もない。

 そもそも大会にはセコンドとして見学に行くとしか思っていない。

 変に心配を向けられるのは心置きが揺らぎそうなので、敢えて母には大会中に起こるであろう事態の説明をしていなかった。


 鉄華は仏間に座り、祖父の遺影と向き合って手を合わせる。


「ようやく追い着きました、お爺ちゃん」


 未だ途上、しかし目を閉じればその背中を捉えることが出来る。

 春旗鉄斎は剣を捨て、孫が同じ道程を歩むことを容認しなかったので、生きていればきっと叱責を受けるだろう。

 それでも昔日のあの時、鉄華は見てしまったのだ。

 祖父の死よりも更に時を遡る原初の記憶が春旗鉄華の全てを作っている。




   ◆




 春旗家の絶対君主であった父、富継は妻と娘を家畜か何かとしか思っていなかった。

 日中は人当たりの良い公務員として働き、帰宅後は仕事で受けたストレスを暴力として発散する自己愛性人格者で、富継の暴力を受け続けた母、華苗は失語症を患うほどの状況に陥っていた。

 思えば富継は養子縁組で結婚した当初から、春旗家の蓄財のみが目当てであったのかもしれない。

 逆らう者がいない核家族内で暴力によるマインドコントロールは進み、鉄華も華苗も学習性無力感の中、父に怯えて暮らす日々を続けていた。


 転機となったのはとある夏の日。


 前日に九歳の誕生日を迎えた鉄華は、幾分か機嫌の良い父から小さなぬいぐるみを貰い、それを抱いて就寝していた。

 当時、鉄華は庭の隅にある一畳程の仮設倉庫が自分の部屋であり、冷房など存在しない室内は朝日と共にサウナのような蒸し暑さに見舞われるのを習慣的に知っていた。

 その日も寝苦しい暑さで起床の時間を感じ取って目覚めた鉄華は、すぐ違和感に気付く。

 窓の外は白み始めているが、まだ起床時間ではない。

 暗がりの室内で、自分の上で蠢く何かが熱い吐息を零している。

 そこにはいたのは全裸の父であった。

 鉄華の乱れた着衣の隙間に舌と手を差し込んで愛撫している。


 鉄華にその行為の意味は理解できない。

 ただ湧き上がる嫌悪感と恐怖で体が震え始める。

 目覚めたことに気付いた富継は鉄華の首を片手で掴み、冷徹な視線を向けて声を上げることを禁止した。


 この時、鉄華は初めて未来のことを考えてしまう。


 抵抗すればもっと威力のある暴力で屈服させられることは分かっている。

 それでもこれ(・・)を受け入れてしまえばそれが今日以降の日常として続いていく。

 母のように心を壊され全てを諦める人形になってしまう。

 受ける被害の量を予測し、行動選択肢を天秤にかける。


 結論が出た時には倉庫内に転がっていた草刈り用の鎌を手にしていた。


 上に伸し掛かる父の背中に向けて一撃。二撃。

 俄に訪れた痛みに上体を起こした富継は、それが鉄華の攻撃だと気付くのに数秒かかった。

 完全に支配していたと思い込んでいた奴隷の抵抗。

 あり得ないという驚きから燃え上がる怒りに変化していく最中、鉄華の振り回す鎌が上腕に突き刺さり、痛みと出血で思考が寸断されて富継は叫び声を上げた。


 その隙に倉庫を飛び出した鉄華は庭を横切り、玄関へと駆けていく。

 警察、若しくは他の大人。

 外面を気にする父は外の世界では弱者になることを知っている。

 誰か頼れる大人に――


 鼻先が何かにぶつかった。

 それに弾かれて尻餅をついた鉄華は頭上に立ちはだかる黒い人影を見上げる。


「叫び声が聞こえたが、これはどういうことか?」


 影が発する声は男性のものであるが、壮年を越えた老人の声であった。

 大人の介入に喜ぶ反面、この人では駄目だと反射的に鉄華は思う。

 背後から玉砂利を踏みしめる音が響き、追い付いた富継が老人に向けて声を上げる。


「誰だぁ? 娘叱ってるとこだから邪魔すんなジジイ」

「叱る? 全裸で鎌持って何をどう叱る? なまはげかよオメエさんは」

「娘の教育に部外者が口出すんじゃねえよ、殺すぞ」


 相手が老人という弱者であれば富継の態度は変わらない。

 鉄華は無関係の誰かを巻き込んでしまった罪悪感で動けずにいたが、老人は手に持つ鞄を地面に落として鉄華の前に歩み出た。


「そうかい。なら口を出す権利は大アリよ。この子は儂の孫だからな」


 その後は一瞬であった。

 鎌を振り下ろす富継は空中で一回転して頭から地面に落とされた後、鎌を握る手を捻り折られて泣き叫んでいた。


 鉄華は呆気にとられている。

 春旗家の絶対者たる父は、老人にも勝てない弱者であったのか?

 否。

 この老人は暴力に対抗する術を持っている。

 暴力を制す暴力を以てして、ただ受け入れ諦めるしかない弱者の領域を脱却している。


「怖かったかい? もう大丈夫だからな、鉄華や」


 頭を撫で付けるしわがれた手の感触に、絶望の日々が終わったことを感じた鉄華は、生まれた初めて喜びの涙を流した。




   ◆




 携帯のアラートが不玉の到着を告げると、鉄華は最後に一礼してからゆっくりと立ち上がって仏間を後にした。

 家屋の静謐の中で鉄華の覚悟がゆらゆらと立ち上る湯気のように空気を動かしている。

 後戻りする気など端からなかった。


 ――事件以後、旅先から帰還した祖父の尽力で司法の介入終えた春旗家は母子家庭として新たなスタートを切っている。

 母も気力を取り戻し、今では普通の家庭と何も変わらない日常を取り戻すことができていた。


 全ての原点であり、今を形作る祖父への大恩。


 古流を習得することはその恩義を裏切ることになるかもしれない。

 冬川との戦いで死傷すれば、また母の古傷を抉ることになるのかもしれない。


 それでも、譲れない。


 泥蓮が兄になろうとするように、鉄華も祖父になろうとしている。

 全ての行動は『祖父ならばどうするか』を起点に形成されている。


 ならば、逃げるわけにはいかないのだ。

 同じ道程を歩み、同じ景色を見る。

 その為だけに生きている。




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