【再会】④
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鼻に入った水が呼吸を阻害し、誤嚥の咳で反射的に目覚めた富士子は涎と鼻水まみれのまま「なんじゃこりゃあ!」と絶叫した。
「おいおい、そんなにはしゃいだらご近所に迷惑じゃろう」
ソファの向かいに座っているのはかつての宿敵、高端不玉。
空になったグラスを富士子に向けながらヘラヘラ笑っている。
気付けに水をぶっかけられた怒りよりもまずは現状を把握する為、富士子はソファを乗り越えてその背に身を隠した。
そして武器になる手頃な空き瓶を床から掴んで持ち上げて――違和感に気付く。
角材のような持ちやすさは愛飲しているジョニ黒の空き瓶だ。
富士子は周囲を見渡した後、そこが自分の家であることに気付いた。
「あ、あれ?」
「バカめ。まだ酔うておるのか」
コポコポとグラスにウイスキーを注ぎながら不玉は嘲笑う。
その机の上には買い置きの高価な缶詰も封を切られて一緒に並べられていた。
「あー! そそそそれ、楽しみにしておいたのにッ!!」
富士子の訴えを無視して不玉は牡蠣のオイル漬けをフォークで三つ程串刺しにして口へ運んでいく。
喜色満面の表情で咀嚼してからウイスキーで流し込むと「カァー」と吐息を漏らして感想を述べる。
「うむ。悪くない」
「テメエ―! 幾らすると思ってんだコラァ!!」
空き瓶の二刀流で立ち上がった富士子は気炎を吐いたが、対する不玉は口元に三日月を浮かべて余裕を崩さないでいた。
「よいではないか。随分と副収入があったのじゃろ? 学内で酔いつぶれた貴様を運んだ礼だと思うがよい」
酔い潰れたわけではないが返す言葉もなく「うぐぅ」と嗚咽を漏らすのみであった。弱みを握られてしまっている。
珍客を持て成す以外の選択肢が潰えてしまった富士子は悔しさで目尻が濡れていた。
久方ぶりに再会した不玉の性格を思い出して力無く空き瓶を手放すと、諦めたかのように自分のグラスを取ってウイスキーを注ぎ始める。
「おいおい、飲み過ぎじゃろ」
「ここは私の家で、これは私の酒なの。指図しないで」
指三本分ほどに注いだアードベッグを一息で飲み干した富士子は、少し目を細めて不玉を見据えた。
「で、私に何か用なの? 不玉ちゃん」
「? いや何も」
「何もないんかい!」
ダンと机にグラスを叩きつけて富士子がツッコミを入れる。
「いやな、お前の家にボトルキープしておいた酒が山程あったことを思い出しただけじゃ」
「うちはバーじゃないっての」
「また随分溜め込んだものじゃな。婚期を逃すわけじゃ」
「おい、半分はテメエの酒だかんな?」
居間に所狭しと並べられた酒瓶の半数ほどはまだ中身が残っている。
不玉は持ち上げたシーバスリーガルの瓶を照明で照らしながら、十年以上前に置き忘れていた私物だと気付いて自称気味に笑った。
「何よ、ニヤニヤして。気味悪い」
「いやなに、昔を思い出しただけよ。こいつらはまるで青春時代のトロフィーのようじゃ」
底に貯まる青春の残滓が蛍光灯でキラキラと琥珀色に輝いている。
閉じ込められたまま何処へも行けない波が哀れに思えた不玉は栓を開けてグラスに全て注いだ。
富士子は断りを入れるでもなくタバコを一本取り出すと、じっくり火を灯してから紫煙を吐き出す。
「……私はね、今でも草くんのことが好きよ」
言ってから(しまった)と思った富士子だが、予想していたより後悔は感じなかった。
酔いのせいか、充分な時間が過ぎたせいか、堰を切ったかのように言葉が溢れ出てくる。
「あなたが憎くて仕方ないの」
「そうか」
「私が……私がっ! 最初に好きになったのに! 相談もしたのにっ!」
「ははは、そんな事もあったの」
不玉は予想していた台詞を聞くかのように、何度も頷きながら罵倒を受け入れていた。
「それを横から、武術家同士で意味不明な親交深めやがって! 卑怯者! 裏切り者……ううっ……」
「仕方ないじゃろ。お前があんまり強い強い言うもんじゃから試してやりたくなったのじゃ」
「そんな程度の動機で真剣抜いて戦うのが全然理解できないわよバーカバーカ」
「若気の至りじゃ」
誰も悪くないことは分かっている。
恋愛とは双方の意志の結果であり取ったも取られたも無い。
それでも引き摺り続けている想いを子供のような悪意で吐き出して――ようやく区切りが付いたと思えた。
――こんな簡単なことでよかったんだ。
心に居着く乙女が失われたようで涙が溢れる。
もう若くないが未熟な執着はこれで終わりだと理解できた。
しかし、宿敵とも言える女に慰められるのだけは許せない。
富士子は涙を拭いながら職務を果たすべく不玉へと向き直る。
「ねぇ、大会のことだけど」
「分かっておるよ。子供に迷惑はかけん」
「……」
何もかも分かっているかのように会話を先回りする不玉の態度に腹が立ったが、俄に消え失せた笑みに気圧されて富士子は何も言えない。
「草眼の死は天命じゃが有象は違う。あやつの悔いは儂が請け負わねばなるまい。だから――」
不玉はグラスの琥珀色を一気に飲み干してから、最後は呻くように呟いた。
「儂も逃げるのはもうお終いなのじゃ」
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石畳で舗装された夜道に靴音が響く。
時刻は午前三時を回り、歓楽街から差し込むネオンの光が路地裏を紫色に点滅させている。
仕事を終えた木崎三千風は勤め先のバーで店長をしている南場裕大と共に店を出て駅までの道中を同じくしていた。
尿意を催した木崎はその辺の壁を借りようと思ったが、ゴミ箱を漁る野良猫と目が合ってしまい、ニャーと挨拶してから歩を進める。
「いよいよ大会だな」
南場が話しかけると木崎は視線を移さず「あぁ」とだけ答えた。
兵法は平法、木崎に緊張感はない。
プロの格闘家として名前が売れても裕福とは言えない生活が続いている。
格闘家と古武術家の二足の草鞋で強さを維持するということは何かと金がかかり、タイトルを取っていない木崎はとてもではないが専業格闘家を続けるられる程の蓄えもない。
日中は道場でのトレーニングを続ける傍ら、夜は友人の店でバーテンダー兼バウンサーとして働いて糊口をしのいでいた。
一時はモチベーションが低下していたが明確な目標が見つかった今は違う。それだけで退屈な毎日が意味のあるものに見える。
木崎は日々全盛期を更新しているという確かな実感があった。
裏路地から大通りに差し掛かろうかという頃、南場はスマートフォンを取り出してから木崎に告げる。
「後ろは二人な」
「あいよ」
気のない返事を返す木崎の視線は、正面から近づいてくる三人の男に向けられていた。
逆光になっていて全容は定かではないが、三人共目出し帽を被ってソフトボール用の細い金属バットを握っている。
相手にいきなり襲いかかる気配はなく、互いの距離が一足一刀くらいの間合いで立ち止まると、中央の覆面男が携帯電話を差し出しながら木崎達に話しかけてきた。
「矢島さんがテメエに話あるってよ」
「矢島? うーん…………ダメだ、誰だか分からんわ。南場、お前分かる?」
「誰だろ? あ、分かった。多分お前のファンだわ」
「マジかよ。野球好きのマスクマン集団に愛されてるとかちょっと引くんですけど? デスメタルでもこんなファン見たことねえよ」
外野を差し置いて勝手に盛り上がる二人に激昂した覆面男は、傍にあった配管に金属バットを叩きつけてから半笑いで木崎達を睨み直した。
「おい、調子乗ってるとこうなるぞ」
「ひぇええ……や、矢島さんの八百長の提案受ければ許してくれるんですか?」
「そうだよ。震えてねえぇでさっさと電話出ろよ」
後ろから聞こえる足音は南場が確認した二人が追い付いた事を意味し、狭い路地裏で五人の男に囲まれている状況であった。
相手側の余裕も無理はない。
それは連日のように続いていた脅しであった。
最初は書状、次は電話、そして今は目に見える暴力を携えて眼の前に現れている。
木崎に敗退した矢島はその後も連敗が続いて、煽り立てる世論から逃げるように格闘技界から姿を消してしまっていた。
心が未熟なまま強さを得てしまった故の葛藤があったのかもしれないが、そんなものは木崎が知る由もなく、恨むのは見当違い甚だしい。
それでも撃剣大会参加者として名乗り出た木崎をテレビで見てしまって、失われた何か取り返そうとしたのだろうか。
矢島は埋め合わせとして金を求めた。
裏社会で賭博の対象になっている大会に於いて、意図したタイミングで負けろという八百長の提案である。
木崎は心底落胆していた。
加害者側になる前提で強さ求めている煽り弱い人間は世の中にいくらでもいる。
修練過程で人格形成の段階を置く武道武術に比べ、システマティックに強さを競う現代格闘技の門戸は広い。
スポーツマンシップなど試合ルール以上の含蓄はなく、邪なまま強い人間も多くいる。
矢島もその類でしかなかった。
元から半グレであったのか、地位を得てから軍団を築いたのかは不明だが、表の顔を失った彼は今、紛れもなく裏社会のやり方を使ってくる加害者側に堕ちている。
「ふぅ……分かったよ、電話に出ればいいんだろ。君、ちょっとこれ持っててくれる?」
木崎は肩に担ぐ鞄を降ろすと、正面の男たちに向けて放物線で放り投げた。
それは合図である。
――護身とは何か。
積極的に加害者になろうとする人間、身体差や武器や人数という手段を辞さない奴らから生き延びる為の術である。
しかし、そのような状況でプロの格闘家が素人に一方的に負ける、若しくは殺害されるという現実の事例がいくらでもある。
素人と一言で言っても仕事や部活で身体的に鍛えられている人間はいくらでもいるので、格闘技を知っているということが圧倒的有利にはならない。
逃げ出す、というのは正解の一つであるがこの場合は当てはまらない。
つまり――、
南場は振り返りながら後方に飛び出していた。
手は腰のベルトに据えられている。
後方の二人の内、一人は反応が間に合い金属バットを振り下ろして迎撃し始めていたが、それは想定内であった。
狭い路地の横並びでは振り方が制限される。
振り下ろされるバットを左に動いて躱した南場は、手が届かない間合いにも関わらずフックを打つように右手を払った。
「ひっ……う、うがぁああああ!」
それを受けた男は一瞬事態が飲み込めずにいたが、顔面を通り抜けていく痛みと熱で地面に倒れて藻掻き始める。
南場の手に握られているのは刃物ではなく、長さ九〇センチ、太さ五ミリ程のワイヤーであった。
ベルトの中に仕込んでいたそれを先端のリングを掴んで引き抜き、鞭のようにぶつけることで顔を斜めに切り裂いている。
男は武器で顔を斬りつけられたという事態に戦意は喪失し、逃げるように身をくねらせて路地の隅に移動していた。
残ったもう一人はやや遅れ気味に、フックで背を向けている南場に向けて金属バットを振り下ろし始めている。
挙動の最中という普通であれば避けられないタイミング。
予想の中で相手の肩を粉砕する感触すら感じていたが、横から飛んできた蹴りで体ごと軌道を逸らされるまで気付けなかった。
五対二ではなく、一対二になってしまっていることに。
蹴りで地面に転がされた男は体の上に立っている木崎を見て、次の瞬間に降り注いでくる踏み付けを覚悟して身を丸めるようにガードを固める。
――が、降り注いできたのは衝撃ではなく、ピチャピチャと音を立てる『液体』であった。
何が起きているのか全く予想できなくなった男は固めたガードの隙間から頭上を確認する。
そこには木崎がいた。
小瓶に入っている液体を周りからよく見える高さで垂らしている。
――痛み。
焼け付くような、刺し込むような、猛烈な痛みが男の思考を寸断。
液体のかかった腕が、耳が、顔が、痛みで引き釣り、全身の筋肉が連動して背骨が軋むほど反り上がって跳ねた。
叫ぶ為に大きく息を吸い込もうとすると、気化した液体が口内と喉の粘膜を焼き上げる。
ようやく追い付いた前方の三人も、雄牛のような鼻声を上げて地面で跳ね回る仲間を見て、警戒で歩を止めていた。
ネオンの明かりの元、木崎の手元から垂れる液体が艶かしく輝いている。
「見ての通り毒だよ。古武術とプロレスはねぇ、何でもアリなんだよ君たちー」
ほんの一呼吸の間に武器を持った二人が制圧されたという事実、相手は武器を持った古武術家という事実が場に膠着をもたらしているのではない。
路上の喧嘩で出てくることなどない、毒物という未知の化学兵器の存在に、襲撃者たちは今始めて自身の死を認識させられて踏み込めないでいた。
「インドネシアの山奥にドラゴン・バイトと呼ばれる殺人植物がある。学名はスリザン・テレグレシア。こいつの毒は触れただけで炎症を起こし、粘膜から吸収されると死に至る」
木崎は説明しながら拾い上げた金属バットに毒を垂らして見せる。
危険性を分かっているのに自分にも付着する無造作な使い方をするのは、相討ちする覚悟があるということを言外に伝えていた。
「お前らどうせ小銭握らされた使いっ走りだろ? こんな小汚え路地裏で命賭けてどうすんだ。見逃してやるからさっさと病院連れてってやれよ」
暴力を制する護身とは、暴力による拮抗状態である。
覆面の襲撃者たちは命を懸ける覚悟も報酬も無いことに気付き、木崎の提案を受け入れる以外の選択肢を失ってしまった。
◆
「いやぁ毒とかドン引きっすわ。彼らだって頑張って生きているんだぞ……それを毒殺だなんて……」
繁華街を歩きながら南場は目頭を押さえて先程まで藻掻いていた若者を偲んだ。
「いやいや、学名とか嘘だし。スーザン・ゼノグラシアなんて植物ないから。これは愛用のデスソースだよ」
木崎が取り出して見せたポップなラベルの空き瓶を見た南場は本気でドン引きし始める。
「え……それデスソの中でもギネス級にクソ辛いやつやん。あーあ、失明したわアレ」
「ぼ、僕は辛党だから偶々持ち歩いていただけで……ファンだって言うから彼らも喜んでくれるかなと……」
「なんて見苦しい言い訳なんだ。君は今、前途ある若者の未来を奪ったのだぞ。この鬼! 人でなし!」
「だ、大丈夫だよ南場くん。生きてさえいれば人生は続くんだ。改心した彼らが未来の日本を作るんだよ」
しどろもどろになって取り繕う木崎を突っぱねながら南場はスマートフォンを確認していた。
「で、録音できた?」
「バッチリ。アホで良かったわ。ゴシップ紙に売った金で新型アイフォン買えるぜ」
「いいなー」
一連のやり取りを録音する事が真の目的であった二人はようやく片付いた問題に胸を撫で下ろした。
『全力で逃げろ』『危険な場所に近づくな』
様々な媒体で様々な専門家が言っている護身の基本だが、しかしそういった議論が逃げられない状況に言及することはほぼ無く、聞いても口を濁すだけである。
何故なら逃げられない状況で生き残る行動というものは、護身側が加害者になることだからだ。
愛する人や家族や財産を守る状況。
逃げたところで何度でも追い詰められる可能性。
どんなに予防に努めても、他人は誰にも知りえない考えと価値観で動いている故、不測の事態は日常のすぐ隣りに存在する。
例えば緊急時に備えてナイフを持ち歩くとすれば、それは愚かな選択であろう。
職質されたら問答無用で捕まり、社会的な立場にも影響が出る。
しかし生死を分ける事態が訪れると分かっている時、武器で戦力差を埋めて相手を絶命させる選択が最良ということもあり得るのだ。
結果的に過剰防衛で刑に服することになろうとも。
あらゆる可能性から目を逸らさず、生存の可能性を突き詰める手段。
それが古武術にはあると木崎は確信している。
裕福な生まれではなく、親から受け継いだのは流派だけ。
そこに根付く生きる為の術を体現し、進化させながら木崎は歩み行く。
「はぁ……おしっこしたい」
「ここで漏らさないでね」