【再会】①
雲一つない秋晴れの下、山間の景色は夕焼けの中に落とされたように紅く染まっていた。
石段に積もる紅葉を竹箒で払う僧衣の老人、安納海星は背後から向けられた視線に気付いても手を止めず声をかけた。
「用は済んだやろ? はよ去ねや」
木枯らしが積み上げた落ち葉を散らしながら駆け抜けると海星は小さく舌打ちして振り返る。
背後に立つ女の髪が翼のように広がり、隙間から差す陽光が神々しく揺れ、その奥にある隈掛かった双眸と肩に乗せている槍袋が死神のような禍々しさを放っていた。
「世話んなったな、海星」
「ひゃひゃひゃ、何じゃあ急に畏まりやがって」
ひび割れそうな皺を目一杯歪めて笑う海星は理解していた。
事情は知らないが、コイツはもうすぐ死ぬ気だろう――と。
その決意は説得も無意味なほど心の奥底で結晶化されている。
ならばせめて生きる術だけでも与えてやろうと思い、自身の到達した剣理を伝えたことに今更後悔はない。
ただ、気まぐれで拾った猫が旅立つ前に挨拶するとは思っていなかったのでどこかむず痒く思えた。
「もしウチの阿呆に会ったら言っといてくれや。儂が歩ける内に戻らねえならテメエは遺産分割から外すってな」
「分かったよ。私に分与してくれれば線香くらいあげてやるぞ」
「やかましいわ」
追い返すように手を払いながらまた掃き掃除をやり直す海星。
その横を木枯らしのように通り過ぎる女、小枩原泥蓮。
「寂しくなって孤独死すんなよジジイ」
「抜かせクソガキ」
ひと時の師弟関係は永遠の別れを以て終わりを告げた。
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観鏡山。
かの者たちに霊山と呼ばれるの頂の中腹。
雨水や地下水、雪解けが全て集う一点とされる落差二百メートルの滝壺。
そこは宗派の修験者のみ立ち入りが許される霊泉である。
瀑布の轟音は途絶えることなく響き渡り、降り注ぐ水の圧力は十分に鍛えた者でも生死に関わる威力を持っている。
筋力だけでなく、体温の低下や呼吸に関しても人間の限界に迫る修行地であった。
その滝壺の畔に跪く黒衣の男、最弦は絶え間なく立ち上る水飛沫の中心を見据えて声を上げた。
「密阿弥様、お耳に入れておきたいことがございます」
最弦の声は滝音に掻き消される程度の音量であったが、煉獄の滝行を三時間も続ける化物にはそれで十分であることを彼は知っていた。
待つこと数分、声に答えるように岩を叩く直瀑が規則性を失い隆起し、水飛沫がカーテンのように割れる。その合間から全裸の男が歩み出てきた。
宝生依密。
傷一つ無い細身のシルエットは虚像である。
生娘のごとく水を弾くの柔肌の下に、束ねて引き絞った鋼線のような筋肉があることを知らない修験者はいない。
依密は腰まで伸びる黒髪を後ろで纏めながら最弦に向き直った。
「どうしましたか?」
暗く透き通る瞳と凛乎と通る声に最弦は圧倒される。
密阿弥を襲名してからというものの、彼の神性は日増しに強まる一方であった。
「は、下賤な話で恐縮なのですが、先月ゴシップ紙に持ち込まれていた記事を差し止めた件です」
公ではないがシロ教傘下の企業は複数あり、三大出版社と呼ばれる内の一つは大部分の株式を掌握されている傀儡企業である。
これまで世論の誘導という使い道で操ってきたが、シロ教そのものへ直接攻撃を仕掛てくる輩が現れるのは明治期の神仏分離令以来のことであった。
記事は『山間に根付くカルト教団』というタイトルに始まり、性行為を利用したシャーマニズム、荒行と称した殺人の隠蔽、麻薬植物の栽培に至るまで多岐に渡る物証を添えての告発が綴られており、明るみになれば教団の存続に関わるのは確実である。
幸い、シロ教の息のかかった出版社に持ち込まれるという致命的なミスがあったので隠蔽できたが、教団内に間者がいるという疑念を落とすには十分であった。
「記事を持ち込んだ人物は匿名でしたが、その後向こう側から接触がありました」
最弦は跪きながら一通の書簡を差し出す。
依密はそれを受け取ると、最弦に体の拭き取りを命じる傍らで中身を確認した。
書簡に収められているのは元記事の原稿と手紙、そして撃剣大会への招待状である。
添えられた手紙には『参加を以て不可侵を約束するもの也』と筆文字が書かれていた。
記事を差し止めるまでが意図された警告であったことを悟った依密は無表情のまま小首を傾げてみせる。
「いいでしょう。最弦、【大舎人】を集めて下さい」
「既に揃えております」
シロ教の暗部を担う組織の招集。
それは、どんな手を使おうとも首謀者に死をもたらす神意の現れであった。
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