【鍵理】
誰もが認める最強の剣道家がいた。
元は警視庁の機動隊に特練員として所属、現在は柏木電機の実業団員として六度に渡る世界剣道選手権大会優勝という、前人未踏の目覚ましい成績を更新し続けている。
男の名は千葉碩胤。
身長一九五センチ、体重百十キロ。肉体は靭やかな筋肉で包まれ、戦後剣道始まって以来前例のないフィジカルで剣道を極めた男と評されていた。
学生時代には陸上競技で頭角を現していた千葉であるが、街中の喧嘩で脛骨骨折という重症を抱えることになり、その素行も相まって彼の陸上人生は除籍処分という結果で幕を閉じている。
長期間に及ぶリバビリの末に、千葉が選んだのは剣道であった。
「成長期にスポーツもせず煙草吸ってるような不良が相手でも、武器を持たれたら勝つのは難しい。だから始めた」
とテレビのインタビューで答えている。それは喧嘩の話であった。
以降千葉の剣道は喧嘩剣道と揶揄され、剣道界から総叩きにされるがそれでも千葉の快進撃を止められる者など存在しなかった。
剣道は個人の戦いであるが故に口撃だけでは何の説得力も示せず、世間は傍若無人ではあるが結果を残し続ける千葉に沸いた。
ある日、千葉の噂を聞き実業団の道場を訪れた男がいた。
男は戦前に存在した実戦的な剣道を推進する派閥の者で、その内容は近距離での打撃と投げ技である「組討」を許可するものであり、それを封じた現代剣道の実戦性を嘲笑っていた。
男は千葉の名声を狙った道場破りであった。
「いいよ。あんたは何でもやればいい。俺は剣道で相手するぜ」
千葉は快諾し、売名のために用意されたであろうビデオカメラでの撮影すら許可した。
後にその映像は動画サイトにアップロードされ、世界中の人達の目に留まる物になる。
映像の中では、開始直後に男が接近し足絡みを狙う姿が映っている。
それでも千葉はびくともしない。男は竹刀から片手を離して足を取ろうとするが千葉は微動だにしないでいた。
やがて、千葉が手元を動かしたと思うと男の上体は大きく仰け反って離れ、そこに強烈な面打ちが叩き込まれた。
道場破りの男はその一撃で失神し、倒れたまま起き上がることはなかった。
「古流というのは病気のようなものでね、組み手主体の鍛錬から理詰め論に逃げた者が辿り着く妄想みたいなもんだ。そこに強さはない」
千葉はその勝負を振り返って語る。
「あの男はまだマシな方さ。実際の古流で相手してくれる流派なんて殆どないからよ。門外不出だとか理屈こねて話だけで逃げようとする。身体差で勝てない事実を『武術と競技の違い』という言葉のトリックで逃げるんだよ。まぁいずれ先細って消えるだろうがね。残った方が本物であると、いつか皆さんも気付ける時が来るだろう」
◆
新年を迎え、例年にない大雪で交通が麻痺しつつあった元旦の武道館に、多くの剣道家とマスメディアが詰めかけていた。
それは毎年恒例の稽古初めと、世界大会の祝勝会であった。
近年ではタレント活動にも力を入れている千葉の人気は剣道界に留まることはなく、ただの稽古初めとはいえ多くのメディアの取材が殺到する注目のイベントであった。
取材陣に囲まれながら入場する千葉の両隣には、常に二人の美女が従っていた。
全日本女子で一位の篠咲と、二位の能登原である。
二人は共に千葉の愛人でもあった。
「…んっ……はぁ……ふふふ、協会も先生の高名にあやかろうと必死ですわね…」
控室の中では女たちの吐息が漏れていた。
千葉の膝上に座り、舌を絡め合っていた篠咲はセンターで分けた長髪を掻き分けながら微笑む。
「言葉が過ぎるぞ篠咲。ここでは誰が聞いているか分からない」
後ろから抱擁する形で首筋を舐めていたショートボブの女、能登原がそれを諌める。
人格形成を理由に千葉を批判していた協会内部の勢力も、最終的には競技人口増加のために千葉の人気に乗っかるようになっていた。
篠咲はそれをからかい笑っていた。
「あら失礼~」
舌を出したままウインクしてみせる篠咲。
「英梨子、この後のスケジュールは?」
千葉の問いに能登原はスケジュール帳を取り出して広げて見せた。
「この後は祝勝会のエキシビション戦です。それが終わったらスポーツ特番の収録。夜には会食を兼ねた専門誌の取材が入ってます」
「面倒ばかりで困るな。元旦だというのに帰省する暇もない」
千葉は大きく笑うが、篠咲は拗ねた様子で千葉の両頬を手で掴んだ。
「嫌ですわ、先生。私はエキシビション戦を楽しみにしておりますのに」
「悪かった悪かった。全部終わったらいくらでも可愛がってやるさ」
「まぁ、なんてはしたない先生」
篠咲を抱きしめながら千葉は夜を想像して勃起していた。
◆
千葉と篠咲、共に一位を獲った男女が試合場に入場する。
祝勝会の余興であるエキシビション戦に報道陣の注目が集まっていた。
とはいえ、余興は余興。勝敗無関係の型演武のようなものである。
報道陣は千葉の女であるという篠咲と能登原を共にフレームに収めていて、彼女たちの関係性を探るスキャンダル狙いである方が多かった。
「はじめえ~いっ!」
主審の檄で両者が蹲踞から立ち上がる。
千葉は剣尖を動かして拍子を測った後、面打ちで飛び込む。
それは女性に配慮した打ち込みで、本気の体当たりではなかった。
篠咲はそれを難なく防御し、共に鍔迫り合いで向かい合う。
目線を合わせた千葉は先程の睦み合いを思い出してニヤついていた。
篠咲も口元を緩めていた。
そして言葉を紡ぐ。
「今日まで世話になったな、千葉碩胤。まぁ悪くなかったよ。お前のアレは」
その低めの語調に千葉は耳を疑い、手が止まった。
篠咲は一瞬で間合いを離すと、顔の右横で八相の構えよりも高く竹刀を掲げる。
示現流の蜻蛉。
そこから放たれる瞬速の袈裟「雲耀」を千葉は呆然と眺めていた。
篠咲の竹刀が面に埋まり、肉を割り、頭蓋を砕く音を、ゆっくりと流れる時間の中で聞いていた。
竹刀は普通の重さではなかった。
彼女は、嗤っていた。
◆
「予定は全てあなたの代理出演で話を付けたわ」
能登原は篠咲の後に従い、スケジュール帳を眺めていた。
「そうか。お膳立ても最終段階に入ったな」
彼女たちは報道陣が救急車を取り囲むのを予想し、予め裏口を確保していた。
降り積もる雪の中、蒸発する汗が白い湯気を立てて篠咲を包んでいる。
「忙しくなるぞ、英梨子」
篠咲は能登原と視線を合わせる。
そこには精錬された決意と野心が映っていた。
女たちは肩の雪を払い、待たせてあったタクシーに乗り込むと喧騒の武道館を後にした。
後日スポーツ紙の一面には、救急搬送される千葉の姿と、古流剣術の復興を標榜する女の顔が載っていた。
女の名は、篠咲鍵理という。