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どろとてつ  作者: ニノフミ
第十四話
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【短剣道 山雀 州平】①




「一五三八、以降の作戦指揮をSに移譲する」


 特殊急襲部隊(SAT)隊長が通信車両の中、苦渋の決断を部下たちに告げた。総理大臣による命令が発動した以上、もはやメンツに拘っている場合ではない。

 放射性物質や化学兵器のテロは自衛隊の領分である。

 街中には災害救助に備えて防護服姿の化学科部隊が配置され、突入指揮もSATから自衛隊の対テロ組織『特殊作戦群()』へと移行した。


 新宿。

 地上三十階建てビルの屋上にあるヘリポート。

 照り付ける初夏の陽光の下、二人の男が背を預け合うように座っていた。

 共に目出し帽を被り赤いシャツと迷彩柄のカーゴパンツという服装で、背には銀色に光る酸素ボンベのような容器を担いでいる。そこから伸びる導線は手に持つ起爆装置へと繋がっていた。


 容器の中身はコバルト60であることが調査で判明している。

 韓国の廃業した病院から放射線源格納容器を持ち去る盗難事件があった矢先のことであった。

 その物質は透過性の高いγ線を放出し、本来の用途は放射線治療やX線写真で使用されるものである。

 無害化するまでの半減期は5.27年。


 彼らはそれを爆風に乗せて街中にばら撒くと言っていた。

 自爆をも辞さないテロリストである。

 要求は獄中にいるコミュニスト同志の解放であり、オリンピックを目前に控えた東京で世界に向けて訴えかける腹である。自ら命を賭けるパフォーマンスも見る人々に絶対悪ではなくある種の信条としての行動であることを提示し、世界の貧困という問題意識を植え付けられるのかもしれない。


 しかし、交渉の余地はない。

 それは交渉の拒絶ではなく、解放を要求する囚人はもう死去しているということが外務省を通して現場に伝わっていたからだ。

 事件発生から七十時間が経過している。

 寝食を拒否するテロリストの緊張は限界を迎えており、事実を伝えた後何が起きるのか予測はできない。事態は一刻の猶予もなく、作戦は突入作戦(ハードオプション)へと切り替わっていた。


 引き継ぎを終えた特殊作戦群群長の多治見政成は状況を整理する。


 狙撃は出来ない。

 周辺高層ビルからの狙撃は近くても五百メートルほどの距離があり風脚も強い。二人の頭部と手元を同時に撃ち抜くという離れ業を強行するのはリスクが高過ぎる。


 強行突入も難しい。

 屋上への扉は溶接されており、無理に開けたとしても時間を掛けている間に起爆装置が作動しているだろう。

 壁伝いの登頂やヘリからの降下も同じだ。目視されてしまう作戦は他に監視している協力者がいたら終わりになる。


 容器を傷付けず一瞬で無力化する必要があった。


 多治見は資料を一通り読み終えてから暫く熟考し、新たに入れ直したコーヒーに角砂糖を放り込みながら無線で指示を送った。

 作戦は決まったが、それを実行できる隊員を厳選する必要がある。




   ◆




 テロ組織『追放者血盟団』の実体は、北朝鮮人民軍所属の特殊工作員である。

 屋上に居座るテロリスト白成林(ペク・ソンニム)は通話を終えた後、眠気を払うための興奮剤を投与してから背中を預けている相棒の崔英秀(チェ・ヨンス)へと話しかけた。


「要求は通った。一時間以内に同志は解放され、ここにも迎えのヘリが来る」

「……そうか」


 ここまでは予定通りであった。

 人命を奪うだけでなく土地をも汚染する放射線兵器を抱えた挺身決死の占拠に対抗する術はない。

 あとは亡命という形で祖国に脱出するまでの間、起爆装置のトリガーから指を離さない気力を振り絞るだけだ。


 しかしヨンスの返事は弱々しく安堵の溜息を帯びていた。

 少しの油断を感じたソンニムは檄を飛ばそうと思ったが、すんでのところで言葉を飲み込む。

 爆死する覚悟を三日間も持続するのは尋常なことではない。

 座り込みを続けながらソンニム自身も様々な事を考えてきた。家族のこと、祖国のこと、世界のこと、自分たちのこと、任務のこと。限界を超える倦怠感と薬の多幸感の狭間で答えの出ない問答を何度何度も繰り返し、その無限回廊の出口がようやく見えたのだ。

 束の間の喜びを責めることなどできなかった。


 足が痺れる前に立ち上がったソンニムは、数回屈伸をしてから改めて周囲を見渡した。

 眼下には他国から吸い尽くした富で栄える砂上の楼閣が広がっている。


 ――世界は平等ではない。


 潜入工作でこの国に来て以来様々な異文化に触れてきたが、常に祖国の事を主体に置いて行動を起こすチュチェ思想の本分を忘れてはいない。

 平和で平等に見えるのはこの狭い箱庭の中だけなのだ。

 無知蒙昧にパンとサーカスを享受する落日の理想郷、


 ――それでも、美しい。


 ソンニムにはそう思えた。

 まるで絵画や音楽に初めて触れた時のような高揚。積み上げた知識とは無関係に感動が湧き上がる仕組みを人間は持っている。いつの日かこの情景を故郷の兄弟たちと共有したいと思わずにはいられなかった。


 任務が終われば高額の報酬と地位が約束されている。それは自らの人生を自らの意志で決定できる力だ。

 食べる物もなくボロ布を被って下水の温水管に身を寄せ合っていた家族たちを掬い上げる、ソンニムはその意志だけであらゆる疲労と恐怖を克服できていた。

 この屋上を占拠する過程で殺した警備員たちにも家族がいるのは理解していたが、大切な者を守りながら生きる為には大切ではない他者を食らうしかない。残酷なことに世界はそのように作られているのだから。


 俄に吹いた一陣の風がポールに掲げられた赤星の血盟団旗を揺らし、そのざわめきの後ろに一点の影が規則的なローター音を帯びて浮かんでいるのをソンニムは確認した。

 約束のヘリだろう。


「ヨンス、立てるか?」

「……あ、ああ。問題ない」


 相棒の衰弱が著しい。ヨンスは薬を使用しすぎている。ここから先の指示はほぼ自分に委ねられていることを自覚し、ソンニムは頬を叩いて己を鼓舞した。

 そして空を見上げるようにして起爆装置を握る右手を高く掲げる。




 その瞬間、世界は白色に包まれた。




 そして訪れる闇。

 地に足がつかない浮遊感の中、ソンニムは見た。

 頭上には月が浮かんでいる。

 井戸の底から見た出口のように輝いていた。


 深い地の底に叩きつけられた衝撃で膝が折れる。受け身の要領で衝撃を散らしたが体中が軋むようだった。

 息を吸い込むと闇間に漂う土煙を一緒に気道に取り込み、咳嗽反射で更に身を捩られる。


「っがぁ」


 背後で上がるヨンスの悲鳴を聞きながら、ソンニムはようやく事態に気付いた。

 ヘリに注視する瞬間を狙って屋上階下の天井を指向性爆薬でくり抜いたのだ。


 ――約束は裏切られた!


 屋内でどれ程の被害を出せるのか考える暇もないが、ソンニムは起爆装置を作動させる。


 ――。


 作動しなかった。

 それ以前に、起爆装置を握っていた右手が無い(・・)

 床に転がっているであろう右手の行方を追おうと動き始めた刹那、冷たい金属の感触が首に突き刺さった。


 声が出ない。

 吐き出す息が刺された箇所から血糊の泡になって抜けて出ていく。

 首を起点に体温を失っていくかのように夥しく出血していた。


 ソンニムは最後の瞬間、血の気が引いて震える眼球で敵を捉えていた。

 全身黒ずくめの男。

 顔さえ黒で覆われていて全容は定かでないが、ナイフと襟首を握る腕は工具のように硬く正確に標的を固定していた。


 ――ああ、これは捕食者だ。


 誰もが自分の信じたい正義を掲げて生きている。彼らも大切な者を守る為に他者を食らうのだ。いつの日か自分が捕食される日まで。

 その愚かな輪廻から解放された安堵の中、故郷の家族を幸せを願いながらソンニムは静かに目を閉じた。





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