【一刀】⑤
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一ノ瀬の正眼は剣道のそれとは違い、両手が身体から拳二つ分程も前に迫り出されている。剣尖は相手の眉間に向けた高めの中段、足置きは橦木で左右の運足にも備えているのが分かる。
紛うことなく古流、一刀流の構えであった。
それを受けて三越は『警視流』の術理を引き出す。
明治維新後の西南戦争にて反乱士族と抜刀隊の衝突は多くの流派を失伝させる要因になったが、それは同時に銃器の時代になっても剣術に有用性があることの証明にもなった。
その結果を以て当時の警察局は残存する剣術家を指導者として招集し、彼らの技術を統合した警視流という一つの流派を制定している。
故に、
――警視流にも一刀流の技は在る。
三越は剣尖を相手の腰骨に向ける下段で構えた。
中段と下段。
一ノ瀬が警視流を研究しているのであれば、この相対から太刀形を想起するのは容易い。
下段の剣尖を起こして相手の手首の内側から出小手を抑えるという、北辰一刀流の【下段の突】という技である。
しかしながら、そういった小手先の技が最大の威力を発揮するのは真剣を用いた時のみであり、木刀での対峙では血管の切断という理は通用しない。防刃服を着込む撃剣大会でも同じである。
あくまで警戒させる為の見せ技。三越の本命は別にある。
一ノ瀬の剣尖が鶺鴒の尾のごとく上下に揺れて、自ら動く気配が高まっている。
これは現代剣道の定石であるが、元を辿れば北辰一刀流の技法でもある。静から動ではなく、動の中に動を隠すことで先の先を狙う。
だが、三越には通用しない。
目付けは剣の動きに囚われる事なく相手の全体を捉えている。
一ノ瀬が手元を引いて袈裟を打とうとする起こりを見逃すことはなく、剣を八相ほどに振り上げた瞬間には三越は既に右斜め前に詰めていた。同時に、充分垂らされた下段から相手の肘を狙って木刀が跳ね上がる。
出小手を回避しようとする意図で手元を引いた一ノ瀬は、その動きを読まれたことにより一拍子遅れてしまい防御は間に合わない。
――かに思えた。
空を切る斬り上げ――その腕の内側に一ノ瀬は転身していた。
引いた右手は肩まで持ち上げられている。
【明車】。
剣道の担ぎ技を想定していた三越は、体の捻りを加える程の大げさな担ぎに拍子を狂わされてしまう。
【電光・明車・円流・浮身・払車】。
中条流から伝わった五点と呼ばれる技法は、諸派に違いはあれど一刀流の核である。
鎬の操作で打突の芯を取る【切落】が有名な一刀流だが、それを警戒するあまり多彩な組太刀を軽視していた。
三越は木刀を握る右手を引き戻すと同時に左手を峰に添えて、車構えから放たれる袈裟斬りを支えるようにして防いだ。
しかし彼我の身体差と行動の遅れが相まり、伸し掛かる衝撃に腰が引けてしまう。
――ならば、
押し切られる前に左に身を捻り、肘を突き出した突進へと移行する。
狙うは面の喉垂れ。
肘打ちでバランスを崩した相手を袈裟斬りで追い打つ、浅山一伝流の【阿吽】へと繋げる。
組討ちの気運を察した一ノ瀬は袈裟の粘りを緩め、迫り来る肘を小手で払うようにして距離を置いた。
そしてまた中段に構え直し、剣術勝負の仕切り直しに持ち込む。
「ハッ! どうして中々、堂に入っているじゃないか」
三越は会話で息を整える最中、相手の剣境を測る。
咄嗟に出た言葉は世辞ではなく本心からの称賛であった。
詳細は分からないが一刀流であることは間違いない。剣道の面影もない構えと運足を使いこなしている。
ここまで到達しているのなら高上極意と呼ばれる裏五点、【妙剣・絶妙剣・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣】も警戒しなければならないだろう。
一方で、最後に至近距離の攻防を避けた一ノ瀬の不自然な動きを検証している。
警察武道で必修科目の柔道も防具をつけた状態では勝手が違い、相手を掴むことを想定していない小手では抱え込むか払い落とすような投げ技に絞る必要がある。また警視流には柔術も存在し、柔道では反則になる技を当たり前に使うことも警戒しなければならない。
つまり一ノ瀬は古流を始めてまだ日が浅く、剣技から切り替わる柔道や柔術への対応が間に合っていないのだろうと結論した。
「楽しいなぁ、一ノ瀬よ」
三越は牙を剥くように破顔し、蒸気のような呼気を吐き出しながら一ノ瀬と同じく正眼で構えた。
立会人である御島と平上は剣道の審判のように場内で勝負を見守っていたが、ここに来て大きく後退し距離を取る。
比喩ではなく剣気とも言える気配が濃度を増していくのを誰もが感じ取っていた。
今度は三越の方から動いた。
後ろ足を蹴り込み短距離走のスタートのように弾けて飛び出す。
選んだのは小手から面への連携。
奇しくも剣道の技であった。
速さを重視した技に勝敗を決する威力はないが、ただ距離を詰めるという一点に於いてこれ以上に適した技はないと三越は考えている。
剣道歴の長い一ノ瀬はほとんど反射で防御してしまうだろう。
本命は超近接戦闘での捨身技。距離を詰めた勢いのまま足を内股で絡めて共に倒れる河津掛けを起点に、防具の隙間を縫う泥沼のグラウンド攻防に持ち込むつもりでいる。
――剣技が古流の全てではない。
三越の初撃が迸り、それはあっけなく一ノ瀬の右小手を叩いた。
小気味良い打突音が道場に響く。
最小限の動きとはいえ木刀の打撃である。内部のダメージは決して軽いものではない。
剣道ではこれで一本となるが、三越はまだ止まらない。
更に距離を詰めるべくスナップで起こした剣尖を面へと繋げる。
そして気付く。
木刀の落ちる先に一ノ瀬が居ないことを。
全力を込めた突進の僅かな瞬間、視界の下方に隠れている一ノ瀬の体躯を捉えた。
身を屈めることで面を回避するだけではなく、蹲踞のような姿勢を保ちながら剣は相手の喉元を狙っている。
三越は全身が粟立つ。
一ノ瀬はこの空間を作るためにわざと小手を避けなかったのだ。
予想を覆された驚きではなく、今から放たれる技を知っているだけに威力を想像して本能で身震いした。
身を捻り始めるのと、下方からの突きが面を持ち上げながら喉に到達するのは同時であった。
【遠山】。
鹿島新當流の技である。
死角から防具の隙間に打突を刺し込む術理は、この介者剣術に近い戦いで最も重視しなければならない選択肢であった。
三越は喉と顎を掠めて面を引き剥がしていく突きを捉えながら、流派と組討に固執した自分を戒めた。
思えば皇宮警察の國井は二刀では二天一流だが、一刀になれば鹿島新當流を遣う剣者である。
一ノ瀬は一刀流に拘ることなく、戦った相手の技を取り込んで成長しているのかもしれない。
外れた面が中空を舞い、床の上で鈍い音を叩き出す。
即死の一撃を辛うじて回避した三越だが、歪む視界の中で終わりを悟っていた。
倒れた身体の上でマウントポジションを取った一ノ瀬は、木刀で三越の首と肩を押さえつつ充分に溜めた頭突きを振り下ろす。
剣道の面を付けた頭突きが鼻先に埋まり血飛沫を上げ骨を砕く――その最後の瞬間、互いの視線が交差していた。
それは全力という礼節を以て応える古流の価値観を言外に伝え合い、三越は悔しさを超えた先にある満足感を噛み締めながら気を失っていった。
◆
「それまでッ!」
三度目の頭突きが振り下ろされる前に、範士の平上が声を上げる。
一ノ瀬は暫くの間馬乗りになったままでいたが、やがて面から血糊の糸を引きながら立ち上がると、もう動かない三越に向けて一礼をした。
警視監の御島は目を背けていた。自ら仕組んだ選抜戦だが安全面に配慮して防具を付けさせていたにも関わらず、この結果である。
突如現れたノーマークの強者。
”強い”に過ぎるということはないが、この物静かな狂気を制御できなければ話にならない。何処まで行っても撃剣大会は作戦の一工程でしかないのだ。
三越と國井という手駒を再起不能にされたことを考えると、失った物の方が大きいように思えた。
「一ノ瀬、お前の強さは分かった。だがここから先は我々も命懸けになる。個人力を振るうのはあくまで私の指示の下でだ。勝手はするなよ」
特務での立ち位置を再確認させるように忠告を飛ばす。
それに応えるように一ノ瀬はカクンと首を傾げて御島を見据えた。
「ええ、もちろんです。いつでもお任せ下さい」
一ノ瀬は返事もそこそこに道場の中央へ歩み出て、何もない虚空に向けて剣を構えた。
運足が血溜まりの朱を引き摺って線を描いている。
そして剣技を放つ。
打ち落としからの突き、巻き落としからの平突き、手首を返して転身からの斬り落とし、巻き落としからの抜き胴。
次々と繰り出されるそのいずれもが先程戦った三越の、警視流の技であった。




