【一刀】⑤
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正午。
昼休みのチャイムが鳴り響き、クラスの女子たちはそれぞれが属する小さなグループに分かれて、学食へ向かったり机を繋げたりしている。
鉄華は暖かな陽気に微睡みつつも孤立していくのを感じていたが、今更思うことは何もなく、そんな事よりも大会後の冬川戦に向けてのイメトレに余念がなかった。
寝ても覚めても登校中も授業中も食事中もトイレ中も、ずっとそのことばかりを考えている。
誰にも話せない命懸けの戦い。
生き残る為ではなく勝利する為の覚悟をした。
少しでも勝率を上げる為にあらゆる状況を想像して対策を身体に染み込ませているが、どこまで備えても薄氷を踏むような命の賭博であることは変わらず、絶命の恐怖と向き合う日々が続いていた。
決死の覚悟と緊張感は意図せずとも周囲に伝播し、更に孤立していくことは理解できている。
それでも逃げ出すことはあり得ない。
今なら誤解を解いて周囲に溶け込む事ができるかも知れないが、望んで辿り着いた約束を放棄する気はない。自分が自分でなくなってしまう。
せめて、関わる人たちに血生臭い自分を見せないという配慮しかできそうにない。
人気のない場所を探して昼食を取ろうと鉄華が席を立った時、――急に後ろから肩を抱かれて悪寒が走るようにして身構えた。
「は・る・は・たぁ! 飯行こうぜッ!」
瞬間、周囲が静まり返る。
鉄華も肘鉄と踏み付けの選択肢が吹き飛んで凍りつく。
抱きついてきたのは先日曜子の件で絡んできたクラスメート、津村鈴海であった。
「え? え?」
「え? じゃねーし。ほら、いいから行くよ」
「え? やだ」
狼狽えつつも強い拒否感を示す鉄華に焦れた津村は、掴んでいた手を肩から胸に滑らせて鷲掴みにした。
「ちょっと! やめっ」
「やめませーん。付いて来ないとこのままエッチな声が漏れるまで揉みしだきまーす。いいのかにゃ? 女子校とはいえ真っ昼間から人前であられもない姿晒すことになっちゃうゾ☆」
「ッッッ!! わかった! わかったから!」
「ん~そうそう、最初から素直に従ってればいいんだよはぁはぁ」
そう言って鉄華を解放した津村は息を荒げつつ勝ち誇っていた。
屈辱。
指取りで組み解くことは出来たが、反撃すればクラスでの立場が悪くなるのを計算に入れて津村は行動している。
見た目通りの人間ではないことに気付いて、その意地の悪さに腹が立ってきた。
「じゃ、ちょっくらツラ貸してよ。あ、弁当持ってこいよ」
津村は顎で廊下を指す。
温和な顔は消え失せ、鋭く冷たい眼光を鉄華に向けていた。
――望むところだ。
数の暴力が待っていたとしても問題ない。
クラスの中心人物である彼女に対し、『春旗鉄華には関わるべきではない』と一度明確に示す必要があるかもしれない。
◆
「……何ここ?」
「隠れ家」
津村に導かれるがまま辿り着いたのは、文化部棟の最上階。廊下の一番奥に位置する第二音楽室、の更にその奥、廊下の突き当りだと思っていた空間に階段が存在していた。
恐らくは避難用に設置された屋上へと続く通路なのだろう。
普段は授業でも行かない場所の死角、遠く離れた一般棟の喧騒は一切届かない異世界のような粛然とした雰囲気がそこにはあった。
案内した津村は、階段に腰掛けておもむろに自分の弁当箱を広げ始める。
「ほれ、ここ座り。あたしのおかず分けてやんよ。手作りだぜ」
ベンチ席のように並んで座ることを促している。
その笑顔には悪意や屈託もなく、鉄華は困惑して立ち尽くしていた。
「……何でこんなところに連れてきたの?」
「ん? アンタと話したくてさ。曜子はコンビニ行ってるからサシで話すには丁度いいかなってさ」
先程までの雰囲気とは一変し、何かを強要するでもなく話し合いを望んでいる。
辺りに潜む人の気配も無く、彼女にどういう意図があるのか理解できない鉄華であったが、緊張が緩んで俄に主張し始めた空腹感に負けて、促されるまま隣りに座って同じく手製の弁当を広げる。
味気ないプラスチック製タッパーを開けるとサラダチキン、ゆで卵、トマト、ブロッコリーという味気ない顔ぶれが姿を現した。
「うわ、キモい。犬の餌かよ。米食え、米」
隣から覗き込んだ津村は、怪訝な表情で率直に簡素を述べながら自分のおにぎりを一個鉄華の弁当に落とした。
「いらないし」
「ダメ。食え。炭水化物甘くみんな」
「……」
津村に悪気や悪意がないことは徐々に理解できてきた鉄華だが、オカン系のウザさも同居しているように思えた――が、渡されたおにぎりを一口齧り、その美味しさに脳内の思考が吹き飛ぶ。
絶妙な力加減で握られた米が口の中で解け、具のしらすと梅と共に踊り出す。巻かれた海苔とシソの葉は一度炙ったような香ばしさを持ち、酸味と磯の香りが喉奥から鼻孔へと突き抜けて一口毎に食欲を喚起していく。
おにぎり一つでこの工夫。手作りというのが本当であれば津村はかなりの女子力を持っているのかもしれない。
夢中で頬張る鉄華を満足気に眺めながら、津村は本題を切り出した。
「春旗は将来剣術家になりたいの?」
「うん、多分そう」
「そっか」
今更隠すことでもない。笑うなら笑えばいいと鉄華は正直に答えたが、津村は思いの外無反応であった。
「アンタの先輩はさ、今や世界中に注目されるイベントの渦中にいるんだよ春旗」
「はぁ」
「この『どんより』と効果音が付きそうなくらいひなびた我が校もちょっとしたお祭り騒ぎじゃん。娯楽らしい娯楽もない、どこで切っても同じ金太郎飴みたいな毎日が続いていく田舎民には丁度いい刺激かもね。……で、アンタは何でそんな辛気臭いわけ? 直接参加するわけでもないのに」
「……」
それを答えることは出来ない。
泥連の因縁も、一巴の思惑も、冬川との約束も、無関係の誰かに教えるのは不義理である。
知った相手を巻き込む危険性も充分憂慮しなければならない。
「うんうん、言えない何かがあるんだろうね。アンタさ、尋常じゃなく危なっかしいから手元に置いて監視することにしたわ。諦めな」
「は?」
津村は全ての答えが予想通りだと言わんがばかりに頷いてから、ミートボールを口に放り込んで淡々と宣言した。
「春旗、アンタこのままだと地味な嫌がらせされるよ? それが三年かけてエスカレートしてくの、なんとなく自分でもわかるっしょ? ある日、たまたま虫の居所悪くて手ぇ出そうもんならアンタの場合イミフな武術とかカマしちゃうんでしょ? そうならない為に大人しくあたしらとつるんどけって言ってんの。理解できる?」
言葉の意味するところは、学校生活での後ろ盾になってくれるということだろうか。
しかし鉄華には津村の動機が分からない。
彼女は学年でも発言力を持つポジションに居るものの、校内の治安に気を使ったり内申点を稼ぐような役職に就いているわけでもない。
「わかんない」
「はぁ!?」
「どうして津……村さん? がそこまで私の事気にかけるの?」
「はは、あたしの名前もろくに覚えてないでやんの。ウケる」
「ごめん」
水筒に直接口を付けてお茶で口内を洗い流した津村は、一旦箸を置いて鉄華と向き合った。
「一言で言えば『羨ましい』のかな。周り気にせずひたすら何かに夢中なのが。笑っちゃうくらい真面目にやりたいことやってんのが素直に羨ましい」
津村は一旦言葉を区切り、口端を上げて笑う。
鉄華に向ける嘲笑ではなく、自分に向ける呆れが溜息となって漏れ出たものだった。
「あたしはもうそういうの無理っぽいから。中学ん時はそこそこ出来る女だったんだけど高校受かって燃え尽きちゃってさ、これからはチャラく生きてこって思ってギャルやってんの。その反動なのかね、春旗みたいに生きてんのが偶に眩しく見えたりすんだわ。まぁアンタの場合は社会不適合者感ハンパないんだけどさ、なんか放っておけないんだよね~」
「ぅぐ」
紡ぐ言葉は辛辣さが見え隠れするが、悪意が無いことは鉄華にも理解できている。
要は津村鈴海はどうしようもなく、そこはかとなくお節介な性分であり、それを隠すことも出来ない人間なのだ。
向けられているのが好意なのか同情なのか分からない鉄華だが、不思議と悪い気はしない。
津村の提案自体にも選択の余地は無く、これから幾らか世話になる未来がありありと目に映るようであった。
ふと、人気のない廊下を隠れ家に向かって一直線に近づいてくる音が響き出した。
やがて現れた人影は開口一番、「すーずーみー」と怨嗟を滲ませて呻く。
「ずるい! 私の鉄華ちゃん盗らないでよ!」
コンビニから戻ってきた西織曜子だった。
教室での騒動を聞きつけてから現れたのであろうか。早足で近づくと鉄華と津村の間に割って入るようにして座りこんだ。
「へへ、ちょっと味見させてもらったゼ☆」
津村の挑発が飛ぶと曜子は頬を膨らませて悔しがる。
「んも~! 鉄華ちゃん大丈夫? いやらしい事されなかった?」
「……された」
「ちょっとー! 何してんのよ!」
秋の気配が近づくのどかな昼下がり、校舎の片隅の静かな時間は姦しい喧騒に染め上げられ、それは休み時間の終わりの予鈴が鳴るまで続いたのであった。
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警視庁武術世話掛、主席師範の三越琢磨は道場の入り口に立ち、正面に礼をしてから敷居を跨いだ。
三越は予め全ての防具を付け終えており、名前が書かれた垂れ袋は外している。
テープで区切られた試合場には既に三人の男が立っていて他に観戦者はいない。
挨拶すらない静謐の空間は死闘に相応しい緊張感で満たされていた。
試合場中央にいる二人は警視監の御島人志と、元剣道特練員である平上藤士郎で、外枠の向かい側に相手となる男が立っている。
その男は、縫い目も見えない程の真っ黒な道着と防具を着込んでいた。
――違う。
戦う相手は皇宮警察の國井安次郎だと考えていた三越だが、相手のシルエットを一目しただけ別人だと判った。
腰に構える木刀は一本。二刀流の國井ではない。
それだけではなく身長と肩幅も僅かに國井より大きい。
相手の体格を踏まえて知る限りの剣者を思い起こした三越はすぐに答えに辿り着き、少し苦笑いして口を開いた。
「一ノ瀬か。竹刀遊びですら随一に成れぬ者が紛れるとは、場違いも甚だしいぞ」
もちろん本心ではない。
四人選抜の戦いでこの最終試合に居るという事は、國井を倒して認められたということだ。
戦いは入場した時点で始まりとみなされるが、互いに始まったと思う前に言葉で斬る。
激昂させるまでは届かなくとも、心に水滴を一粒落とせればそれでいい。
「競うのは剣の強さでしょう? 口喧嘩は得意じゃないから勘弁してください」
対手の男、一ノ瀬宗助は本人であることを認めた。
若い特練員らしく剣道の戦績に固執する生真面目な男、というのが三越の評価である。
そういう愚直さを長所のように扱うのが武道ではあるが、実戦の本質は煽り、騙し、晦ませ陥れる、泥沼に沈め合うような骨肉の争いである。
澄んだ水の中で生きてきた人間は汚泥をかけるような邪剣に対抗できないのが常である。
しかし二天一流の國井を下したとあれば評価を再考せねばならない。
範士の平上は古流にも精通している。
弟子の一ノ瀬が術理を得ている可能性は無視できなかった。
「まさかここに来て剣道が相手だとは、國井も衰えたか」
「剣道ではないですよ」
「……ほう、面白い。お前が横道に逸れるほどの誘惑があったか。何流だ? 名乗れ」
剣道の戦績があるとはいえ、階級を盾にした誘導には抗えない。
ルール無用のこの場で乗せられて謳う一ノ瀬の安直さと、そんな者の付け焼き刃に負けた國井への落胆が三越の胸中に湧いた。
「敢えて言えば、一刀流になりますかね」
「? 一刀流じゃ分からんよ。小野派、忠也派、溝口派、北辰と色々あるだろう?」
「一刀流は一刀流です」
三越はその名乗りを訝しむ。
派閥を取り払った一刀流を名乗れるのは、かつての戦国の世、鐘巻自斎の元で中条流を修めて中太刀の自流を興した伊東一刀斎だけである。
一刀斎以後の分派で幾つかの個性的な流派が生まれたが、初期の一刀流は中条流と同じく逸話が残るばかりで体系の多くは失伝状態だ。
だが、後世の工夫はあくまで実践に基づいた進化であり、流派の起源であるからと言って神秘的に強いということはない。
介者剣術から素肌剣術に変わり、型稽古から打ち込み稽古へと変遷する中で編み出された術理は、人の一生を超える年月をかけて作られた血の結晶である。
一ノ瀬の発言の意味は理解できないが、その点に居着くのは意味がないと三越は判断する。
小野派一刀流や北辰一刀流は防具と竹刀を用いた稽古をいち早く取り入れており、扱う技法も現代剣道との親和性が高い。
ある種地続き的に体系を修めているのは間違いなく、ならば警戒すべき技もおおよそ見当が付くと結論した。
「まぁいい。試合とはいえ、剣比べは俺の人生そのものだ。加減は出来ないぞ」
「人生そのものですか、素晴らしいですね」
一ノ瀬は蹲踞も礼もなく抜刀し、静かに正眼で構える。
「貴方の全てが注がれた剣の人生、僕の糧にさせて頂きます」
その言葉を最後に勝負は始まった。