【天真正伝香取神道流:密阿弥】②
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梅木双円と宝生和密。
かつては共に修験者として峰入りした同胞である。
道を別けたのは二人が二十歳を迎えた春、鬼払いの年中行事である【儺やらい】の演武にて。
成人した若い衆から抜擢する大役を賭けて試合形式で争った時にまで遡る。
実力伯仲かと思われた両者の力量はその実大きく異なり、最終選考に際しては誰もが双円に軍配が上がると思わせる程の差があった。
しかし、勝ったのは和密である。
相手の立場を慮る双円は手を抜いていた。
多くを求めず質素な暮らしを愛する男ならではの気遣い。優しさ。
和密のプライドは深く抉られる事になった。
以後、和密は下山して財産を使い込み淫蕩に耽るようになる。
次期密阿弥として全てを手に入れることが、剣力の差を埋めるアイデンティティであると認識するようになっていた。
双円は自身の選択を後悔していたが、未だ答えは見つからないまま現在に至っている。
あの日打ち倒していれば和密は腐ることなく、共に高め合う同志のままでいれたのであろうか。
和密の気質ならどのような道を辿ろうとも同じ結末を迎えていたのであろうか。
そこから教訓を得ようとすることすら傲岸不遜な蔑視に思える。
全ては過ぎ去ってしまった遠い日の後悔であり、零れて土に滲みた記憶を掘り返しても意味が無いのかも知れない。
ただ一つ、分かっていることは【神倣備】は真剣での勝負ということだけである。
誰かの立場を踏み躙るくらいなら負けてもいいと思っていたが、それで死ぬことだけは受け入れられない。
双円の選択肢は一つしかなかった。
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夕刻。
昼間の作業を済ませた双円は、夕食後に訪ねてきた宝生依密を家へ招き入れていた。
「双円様は何故剣の道を選ばれたのですか?」
死者を葬った旨を伝え終えた依密は、明日の儀式に際した双円の思いを探るように質問する。
「俺は元々は孤児だった。梅木家の両親に拾われて以来、シロ教の教義に従うことが恩返しになると思っていたからだよ。……尤も、その親も死んだ今となっては何の為の剣術なのか分からなくなったがな」
「そうですか」
静かな茶の間に時計の針音と、コトコトと湯の沸く音だけが響いている。
ラジオやテレビ等の娯楽はなく、彩りに寂しい質素で最低限の暮らし――それだけで双円は充分幸せであった。
上を見上げればキリはなく、文明のレベルとは今のように少しの努力を要する程度が一番丁度いいと考えている。
手放すのが惜しく思えた。
「……時間が気になりますか?」
「ん? いや」
「失礼ですが厠に行った帰り、襖戸の奥に纏まった荷物が見えました。あれは夜逃げの準備ですよね」
湯呑みを傾ける手が止まり、視線が交差した。
依密の長い前髪から覗く右目が静かに双円の内側に向けられる。
何の感情も読み取れない人形の瞳は、ただ客観的に事実を記録する装置のようであった。
「はぁ、流石と言えばいいのか。……見逃してくれないか?」
後頭部を掻きながらやり取りを続ける双円は内心覚悟を決めていた。
依密は儀式を前に逃亡することを見抜いた上で、阻止しようとここに現れて留まっている。
殺すつもりはないが、争いに発展すれば命の保証はできない。
「双円様、私は兄上は有資格者ではないと思っております」
「やめてくれ。もう沢山だ」
「シロ教はこの世の贅を愉しむ淫祀邪教の類ではありません。此度貴方が候補に上がったのはその清貧さ故です」
湯呑みの水面を眺めながら依密は兄への不満を表した。
それが本心なのかは双円には分からない。
「こう言うのは卑怯で躊躇われるのですが、双円様は我らの資金力と人脈を見誤っています。この日本で貴方に逃げ場などありません」
依密は核心を突く。
身寄りの無い双円は行く宛もなく彷徨い流れ付いた地で生活の基盤から整えなければならないが、決して一人で生きることなど出来ない。
誰かを頼った時点で社会との接点が生まれ、そこから宝生家に気付かれたらまた逃げなければならない。
「襲いかかる刺客を斬りながら逃亡の日々を送るおつもりですか?」
警察とて人間の組織であり、完全に信用して良いものか判断が付かない。
ただでさえ誰も頼れない逃亡の最中、人を殺めれば取り返しのつかないほど立場を危うくするだけだ。
組織力を駆使した脅迫に個人が抗う術はない。
「……狂っているよ、お前たちは」
「自覚はあります」
逃亡を封じられた双円は腕を組んで押し黙り、最悪のプランを受け入れるしかないことを悟った。
密阿弥になり、シロ教を変える。
それにはあと一人だけ殺さなければならない。
後世の若者が辿るかもしれない命運を変えるために同胞を殺す。
和密は金と権力に取り憑かれた堕落者となったが、未来の可能性すら否定する『一殺多生』を実行することは余りに傲慢ではないか。
未だ迷いを拭えない双円であった。
そんな様子を生気なく眺めていた依密は、ゆっくりとちゃぶ台の横に出て土下座をし始めた。
「一つだけ個人的なお願いがごさいます」
「何だ? 改まって」
「剣力で双円様が勝つのは当然の流れ。……ですがもし、もしも、出来ることならば兄上を殺さないで頂きたい」
「殺さずして真剣勝負に勝てと?」
「はい。兄上が死んだことにして隠匿する算段は整っております」
双円は依密が兄を気遣うことに驚きを禁じ得なかった。
感情の抜け落ちた人形かと思っていたが、その認識を改めなければならない。
「正直なところ、私も心中揺れているのです。血を分けた兄弟の死を望むほど教義の権化にはなりきれません」
しかし、お願いというには余りにもリスクが大きい。
恐らく和密はこの事を知らずに全力で殺しに来る。
双円でなければ成せない綱渡りではあるが、それ程までに彼我の実力差が付いているかは測れない。
「無茶を言う」
「出来ればで構いませんので心の隅に留め頂ければ幸いです。もちろん、タダでとは言いません。対価はこの私です」
「……?」
対価と言い出した依密はおもむろに顔を上げ、深淵の眼で双円を見据える。
虚ろな顔貌に生気が満ち、頬は紅潮と共に緩み、瑞々しい口角を釣り上げていた。
双円が初めて見る依密の笑顔であった。
「自惚れではありませんが、私は女人に劣らぬ容姿を持っていると思います。男であることを申し訳なく思いますが、双円様さえ良ければ都合の良い捌け口として弄び頂いて構いません」
「な、何を……」
「嫌悪感は無かったのでこのような形で暴く気はありませんでしたが、私も剣者の端くれです。貴方が向ける眼差しに気付かない程鈍ってはいません」
それは図星とは行かずとも、双円自身認識していなかった心底の澱をくすぐる一言であった。
宝生依密は血生臭い剣術修行からかけ離れた美貌を持つ、余りに異端な存在である。
或いは、そう見えるよう育てられてきたのかもしれない。
「私が差し出せるものなどこの身一つしかございませぬ故……人形が相手はお嫌ですか?」
依密が上着をはだけると、花の香りとともに真白く妖艶な曲線があらわになる。
筋肉質ではあるが薄く脂肪の乗った肩肌は女人のそれを思わせる魅力があった。
本能を刺激するには充分過ぎる容貌に、腹の底から原始的な衝動が湧き上がる。
――が、双円は踏み止まった。
依密の肩が小刻みに震えている。
魔性ではない。
これは彼の処世術だ。
抗えない世界の中、生まれ持った武器で手の届く範囲を懸命に生きているだけなのだ。
「……気持ちは分かった。私の恥ずべき一面も自省しよう。選択肢が無いのならばお前の願いにも出来るだけ答えようと思う。だから、よせ」
「……」
双円は依密のはだけた上着を元に戻してから肩に手を置いた。
強要され続ける内に普通だと思うようになった生き方を否定する大人が依密には必要だ。
――目的ははっきりした。
全てはそこから始めないといけない。
「依密、俺は密阿弥になり全ての因習を断ち切る」
「……どうか……お願いします」
依密の双眸から大粒の涙が溢れるのを、ただ静かに眺める双円であった。




