【臆病】⑧
◆
――見える。対手の五体の機微の何もかもが見通せる。
自身の成長を確認しながら鉄華は勁草で移動する。
井澄は慌てながらも肩に担いでいた刀で防御の姿勢を取っていた。
右八相からの面打ちを迎え撃つ形だろう。
その角度、姿勢、握り、足置きから鉄華は彼に剣道の下地があることに気付いた。
鉄華に対して出遅れたことを悟り、一旦受けてから手首を返して各部の打突に移行する剣道の『返し技』を使う気だ。
折られた左手の小指が宙に浮いているが、日本刀の斬撃力であれば多少打たれても充分なカウンターを放つことが出来ると判断したらしい。
勁草の継ぎ脚を意識する鉄華の脳裏に師の言葉が過ぎった。
『――華窮は本来、打撃の技法よ。体当たり一辺倒ではない。踏鳴で相手の足を踏みつけたり、前蹴りに変えることも念頭に置いておくのじゃ』
彼我の距離は一足一刀の間合いに差し掛かる。
井澄は動かない。
既に落ち着きを取り戻し、術理を発動させる瞬間を待っている。
『下段前蹴りはかなり有用な技よ。剣道や打撃格闘技は膝を正面に向けて立つのが常じゃから、そこへの前蹴りはそのまま関節技として機能する。競技では反則技じゃが古流では積極的に狙う。やり方としては――』
刹那の間に視線が交差するが、鉄華と井澄では明確な違いがあった。
井澄は鉄華の目を見ているが、鉄華は井澄と周囲の全てを捉えている。
『視線を落とさず、勁草の後ろ足の引き寄せからシームレスに蹴りに移行』
井澄は打つべき距離になっても降りてこない八相に焦れ、ならばこちらから動こうと手元を返し始めるが――もう遅かった。
拍子を狂わされ見るべきものが見えていない。
『足底を横に寝かせ、踵から膝に蹴り込む』
井澄は足元からブチンと鈍い音が響いてくるのを鼓膜で感じた。
痛みはないが、不自然な重心の崩れが発生し打突が止まる。
視線を落として目視すると、本来曲がらない方向に曲がっている自分の膝があった。
前十字靭帯、側副靭帯断裂。及び半月板損傷。
これは剣道の試合ではないということに気付いた井澄のこめかみに、八相からの鉄パイプが容赦なく振り下ろされる。
死に繋がる一撃。
痛みや関節の可動域を気にしている場合ではない。
全てを投げ捨てるように体を捻って打たれる部位を逸らすのが彼の最後の抵抗であった。
鉄華は予想通りに逸らされた打撃を振り切って左鎖骨を砕く。
鉄パイプを伝って充分な手応えが届いた。
亀裂骨折などではなく、押し潰されるように陥没しているのが目視できる。
鉄華はそこで鉄パイプを手放し、自重を支えられなくなって倒れる井澄の右手を掴み、小指を圧し折って刀を奪い取った。
井澄は剣術に於いて体格差を埋めるほどの技量を持っていない。
かといって柔術に対抗できる知識もない。
ただ「暴力的である」という虚像を演じ見せているだけで、怯えない相手や不意打ちが通じない状況での直接戦闘を想定していない。
例えば鉄華が筋骨隆々の男であったのなら逃げる理由になっていたであろうが、相手が女である事をプライドに紐付けてしまっていて逃げる事が出来ない。
弱くはないが、油断と隙と準備不足の塊だ。
それが鉄華の出した結論であった。
充分な勝算を持っての襲撃である。
鉄華は起き上がろうとする井澄の顔面にダメ押しのトーキックを放つ。
人中に押し込まれた安全靴が前歯と鼻先を砕いて赤い飛沫を上げた。
その一撃で井澄の戦意は完全に消失し、右手を広げて「待った」のポーズを取っている。
「勝敗は付きました。できれば殺したくないんでこれ以上は抵抗しないでください」
井澄は折れた歯の隙間から血の泡を吹いて全身を震わせていたが、意識だけは辛うじて保っていた。
気を失えば死に直結するという恐怖が脳を強制的に覚醒させている。
まだ死んでいないのは相手の気まぐれでしかない。
鉄華は奪い取った日本刀の切っ先を突き付けながら、特に語気を強めるでもなくいつもの調子で告げた。
「えーと、こんなこと言うのはとても恥ずかしいんですけど、服を脱いでください。下着も全てです。折れてるとかは知ったことじゃないんで、死に物狂いで脱いでください。断るなら殺します」
スマートフォンのカメラを向けながらの要求。
それが意味するところは井澄にも瞬時に理解できた。
奇しくも自身が今まで脅しに使ってきた手法だからだ。
「本気ですから。あなたは武術家で、私は未成年の女です。この状況、法律がどっちの味方をするかよく考えてください。内海さんの方はもう少し頭の回転が早かったですよ」
井澄は体より先に心が諦めるのを感じていた。
切り取られたように感覚のない足は武術家人生の終了を意味している。
そもそも狂気とも言える暴力に抵抗する尊厳や勇気など端から持ち合わせていない。
ただ蹂躙され、支配され、今から始まる辱めを受け入れる以外の選択肢は残されていなかった。
■■■
全てが終わった後、時計を確認すると一時を少し過ぎていた。
暗闇の中に波の音と潮の匂いだけが漂っている。
この辺りには海岸に隣接する孤島の神社が観光名所として存在する。
きっと日中に訪れていれば心に残る絶景が見れたのかも知れないと、鉄華は心惜しく思えた。
「……っぷ、おぇええ、っ……はぁ、はぁ」
口内に残る吐瀉物が粘膜を刺激して何度も嘔吐を喚起する。
――気持ち悪い。
血の匂い。
肉を潰す感触。
骨が折れる音。
全てを奪われ懇願する目付き。
何もかもが気持ち悪い。
『次に関わってきた時はこの写真を容赦なくばら撒きます。まぁ二回も女に負けたとか言えないと思いますし、お互い静かに生きていきましょう』
自分の知らない自分が信じられないほど冷酷に言葉を吐いていた。
選択肢を違えれば本当に殺すつもりでいた。
――恐ろしい。
剣道を捨ててまで望んだ姿に恐怖すら覚える。
それでも今日、ここに来てよかったと思えた。
きっと不玉がこの事を知れば悲しむかもしれないし、怒るかもしれないし、気味悪がられ匙を投げられるかもしれない。
それでも知らないところで知らない悪意に襲われるよりは幾分マシだ。
介入できる瞬間があったのにただ黙って受け入れることだけは許せない。
鉄華は今になって震え出した手のせいでタクシーを呼ぶことすらままならならず、途方に暮れて深夜の倉庫街をふらふらと彷徨っていた。
その最中、――突如、ヘッドライトの明かりに照らされる。
そしてエンジンの爆音が路地に反響しながら鳴り響いた。
瞬時に身構え逃走を開始する鉄華であったが、エンジン音の合間に聞こえてくる声に足を止める。
「送るわ。乗りなさい」
そう言うと冬川は、何処で拾ったのか工事用のヘルメットを鉄華に投げ渡して後部座席を指し示した。
◆
深夜の国道を流星のような光点が尾を引いて駆け抜ける。
追随出来る者などいない。
冬川の辞書には制限速度という概念が無いかの如く、閑散とした夜道は彼女の独壇場であった。
鉄華は加速に振り落とされないよう小さな背中にしがみ付いていた。
震えはもう治まっている。
「いつ気付いたんですか?」
県境を越えた頃、ようやく心の余裕を取り戻し疑問を口にする。
「強いて言えば、守山が現れたあたりかしら。あなた汚らしい野良犬のような目をしていたわ」
叩きつける逆風が風防で流され、空気が停滞した二人の空間だけが奇妙な静謐感を纏っていた。
「春旗さん」
「何?」
「あれがあなたの本性なのね」
「……うん」
その質問で鉄華は一部始終を見られていたことを悟ったが、今更隠すことでもない。
望んで行動した結果だ。
「ずっと、やること成すことチグハグだったけど、今は想いに強さが付いて来れていると思う」
「そう」
冬川は鉄華の気質を非難するどころか、満足気に受け入れている。
必要とあれば常識や法を踏破してでも行動を起こす。
他者が見れば歪な狂気だが、真に強さを求める古流剣者同士の内では価値観を共有できている。
それが本当に嬉しくて堪らない鉄華であった。
「冬川さん」
「何かしら?」
「私はずっと話をしたかったんだ」
「どんなことを?」
「取り留めのないこと。普段は何してるだとか、好きな映画とか、音楽とか、私に負け続けてどう思ってたのだとか。ちゃんとあなたを知りたかった」
「そう。気味が悪いわね」
「あと、ちゃんと謝りたかった」
「謝る?」
「うん。私は小さな接点でしか知らないあなたを剣道の優劣だけで見下して憐れんでいたんだ」
「……」
「でも剣道を離れて思い知らされたの。孤独でバカで弱いのは私の方だったんだってさ。だから、ごめん」
「はぁ、面倒な性格してるのね」
「そうだよ。これが私」
毒付く冬川も頬を緩め、束の間の会話を愉悦のように楽しんでいる。
そして、この喜びはこの場限りのものであると互いに理解していた。
全ては収束する未来の一点に向けた約束事でしかない。
「冬川さん、また私と戦ってくれますか?」
「いいわよ。大会が終わったらその場で戦いましょう」
「ありがとう。待っててね」
「ええ。待ってるわ」
冬川は曖昧な返事はせずに、約束の期限を知らせる。
次は加減も斟酌も無い、本当の殺し合いになると知りながらも、約束を取り付けた嬉しさでまた笑みが込み上げる。
――もしも、二人共生き残れたらまた話したい。
それこそ取り留めのない会話を積み重ねて行きたい。
「は、春旗さん、あまり密着しないでくれるかしら……」
言葉にならない思いさえ共有できているような気がして更に強くしがみ付く鉄華に、若干狼狽える冬川であった。




