【臆病】⑥
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道場の扉の先には建物を貫く背骨のような長い廊下があり、為久に続いて歩く鉄華たちは廊下に隣接したトレーニングルームやキッチン、図書室などを横目で確認していた。
もはや道場というよりは守山流の為のカルチャーセンター、或いは守山蘭道を崇める新興宗教のような雰囲気が漂っている。
通された応接室にも壁一面に流祖の写真や遍歴、賞状やトロフィーが飾られている。
その祀り上げ方を見た鉄華は、あぁ祖父は嫌うだろうなあ、という漠然とした思いでいた。
きっと流派を広める上で必要なことではあるし、文化的な側面としても重要な事なのだろう。
しかしこうも前面に押し出されると誇示や虚飾に見えてしまう。
虚を暴き、実を覗こうとする捻くれ者、春旗鉄斎の思想とは恐らく相容れない。
鉄華が一通り室内を観察し終えた頃、不玉は刀の経緯を説明し終えてようやく本題に差し掛かろうとしていた。
為久自ら淹れたお茶には口を付けず、いくらか語気を荒げているのが分かる。
その態度は旧友との再開を分かち合うものではなく、、守山流の虚を暴こうとする挑戦者のように感じられた。
「鵜戸水泉ですか……。確かにその作者の久世幡という刀は私の手元にありますが、祖父の打った物だというのは初耳ですね」
「見せてもらおうか」
「今は実家の方で厳重に管理していますので」
「ならば、こちらから出向こう」
「……申し訳ございませんがたとえ門弟でもお見せするわけにはいきません」
矛盾がある。
蘭道の打った刀だと知らないにも関わらず管理は徹底していて門外不出として扱っている。
為久の遠回しな拒絶に対し、不玉は少しの間目を閉じて溜息を吐いた。
「そうか。お前、流祖の刀を売ったのじゃな」
「ははは……ご冗談を」
鉄華からすれば予想の範疇であるが、不玉は旧友の言葉に心底失望していた。
恐らく彼女が知る昔日の守山為久ならばあり得ない選択だったのだろう。
「何故、撃剣大会にお前が出ない? 何故、あのような半端者に道場を任せておるのじゃ?」
「……」
「呆れた腑抜けじゃな。今一度儂が叩き直してやろうか?」
為久は少し困った様に眉をひそめてから湯呑みのお茶を飲み干して一息つくと、また穏やかな笑みを取り戻して口を開いた。
「不玉さん、そう言えるのは貴方が強いからです。私は……怖くて仕方がない」
諭すように、諦めるように、自分自身に言い聞かせるように、為久は言葉を紡ぐ。
「どんなに稽古を積もうと、どれほど身体を鍛えようと、怖いものは怖いのです。私は古流という狭い世界で殺しの技術だけ磨き続けることに意味を見出せなかった。父から受け継ぎ、広めるだけの土壌も用意されていた当流ですが、……もう疲れたんですよ。貴方だってご家族を亡くされているでしょう?」
「……お前は流派ごと無くなっても構わんというのか?」
「否定はしませんよ。看板など掲げているから暴力の螺旋から逃れられないのです」
為久の笑みは崩れない。
深く刻まれた皺が長年続けてきた顔であることを物語っている。
流派の頂点である外向きの仮面はそのままに、奥にある心労と憔悴が言葉になって顕れ始めていた。
「為久よ、何がお前を変えたのじゃ?」
「色々ですよ。本当に色々あったのです。あの日、貴方に負けたことだって要因の一つでしょう。引き際を見失った者たちに挑まれ続け、流派に誇りを抱く機会もなく、私はただただ疲れてしまったのですよ」
旧友を否定し鼓舞する不玉ではあるが、彼の心情を全く理解できないわけではなかった。
古流だけが人生ではない。
あらゆる選択肢の中から強さを追い求める生き方を選ぶ人間はごく少数の側である。
流派を受け継いだからといって資質があるわけでもなく、与えられるものが常に望むものだとは限らない。
為久の諦めを逃避だと非難する権利など誰にも無かった。
「私などに付いてきてくれた者たちには出来る限り責任を果たすつもりです。それでもいずれ終わりが訪れるでしょう。撃剣大会から逃げれば相当数の支部が潰れるはずですから。私は良い機会だと思っていますよ」
「……そうか。それがお前の選択であるならば儂はもう何も言う事はない」
不玉の言葉を最後に重い沈黙が場を支配した。
これが永遠の決別を意味することは誰もが気付いている。
為久はいつか現れるであろう不玉に対して充分に時間を掛けて返答を用意していたのだろう。
鉄華は自身の経験を思い返している。
新たな目標を見つけたと目を輝かせるのではなく、ただ飽きた、諦めたと突き放す相手には反論や説得の余地もない。
この場を最後に、もう二度と彼と剣の道で出会うことはないだろう。
しかし、最後であるのなら鉄華には問わねばならないことがあった。
「あの、私は春旗という者ですが、祖父の春旗鉄斎をご存知ですか? 守山蘭道さんの弟子だったと聞いて訪ねてきたのですが」
「ハルハタさんですか? ……すみません。祖父や父の世代の交流となると私の知るところではないです。流派の歴史の中でもお聞きしたことはありませんね」
「そうですか」
為久の父親の時代に物別れに終わった関係である。
どちら側の意図があるにせよ守山流の歴史に残すべき名前ではないのだろう。
どんなに探ろうとも結局最後には時代の違いが待っているだけだ。
春旗鉄斎の辿った道筋を知る関係者は尽くこの世を去っている。
残るのは一つの不確定な要素、為久ですら知らない鉄斎の情報を、何故篠咲が知っていたのか、という点だけになってしまった。
鉄華は諦めきれないでいる。
祖父の足跡を追うことに意味は無いのかもしれない。
流派を知り、鍛錬法を知り、術理を知り、最後に全て捨て去った原因を知ったところで自身の強さに変えられるものなど無いのかもしれない。
それでも、知らなければならないのだ。
春旗鉄華が今ここに生きている全ての意味と理由が、そこに集約されるのだから。
■■■
守山流道場を後にした面々は少し離れたコンビニの駐車場で休憩していた。
既に陽は落ち、吹き抜ける生温い夜風がそれぞれの胸中に抱く思いをざわつかせている。
「すまぬな。とんだ無駄足じゃったわ」
「いえ。上手く噛み合わないのも道です」
「そうじゃったな」
鉄華は思う。もしかしたら不玉は刀の事などどうでもよかったのかもしれない――と。
過去に守山為久と武術家としての親交があったのは確かだ。
時間が流れても変わらないと思っていたものが失われたような喪失感を隠しきれないでいた。
「私も思いの外楽しませて貰ったわ」
不玉の心情を察したのか、冬川は風に舞う黒髪を押さえながら彼女なりの礼を言った。
それは戦いの場での冬川しか知らない鉄華にとっては、あまりに意外なことでもある。
日常での彼女は礼節を弁えた常識人であり、それが崩れるほどの怒りを与えていたのが鉄華なのだろうか。
八つ当たりの怨嗟にせよ、違う出会い方をしていれば友人になることだってあったのかもしれない。
今の穏やかな冬川ならもう少し情報を引き出せるのではと、鉄華は篠咲に関する疑問を投げてみることにした。
「冬川さん、 篠咲さんの【玄韜流】ってどんな流派なんですか?」
「分からないわ」
「篠咲さんに習っているんじゃないですか?」
「それでもよ。始めは示現流だと思っていたけど、あの人は色々な流派を修めて自分に合うものを取捨選択しているようね。流派の歴史に関して何かを語ったこともないわ。私も興味ないもの」
篠咲は会見場で家業であると語った。
冬川を弟子と認めていない、或いは弟子にも教えない技がある場合は別だが、説明を聞く感じでは独自の技術体系があるように思えない。
今やあらゆる流派の情報は公に開示され、科学に基づく現代格闘技と比較し有用性を検証される時代である。
秘される技がそのまま強さとなるようなギミックが古流の中に残されていると考える事自体無理がある。
現代の古流の戦いに於いて、多くの技を熟知し攻守共に対応できるというのは分かりやすい強さになるだろう。
「最後に一ついいかしら?」
改まって発せられた冬川の質問は不玉に向けられていた。
「儂にか? 何じゃ?」
「貴方と娘では体格差がありすぎるように思えるけど、どうやってあそこまで鍛え上げたのかしら?」
質問の意味するところは、泥連と比較して伸び悩みを感じているということだ。
「どうと言われてもの、基本的にあやつは勝手に鍛錬して勝手に強くなっただけじゃ」
「……そうよね。身体的強者とそうでない者では辿る道が違うということね」
「それを探るためにわざわざ来たのかえ?」
「そうよ」
かつてのライバルの前で抱える悩みを吐露する。
冬川の態度が穏やかに見えたのは、興味の対象がもはや鉄華から泥連へとシフトしているということであり、その事実に鉄華は嫉妬にも似た焦りを感じずにはいられなかった。
「ふむ、大層な悩みを抱えているようだがの、そのコンプレックスは捨てるべきじゃぞ」
「……悩んだところでどうにもならないということかしら?」
「いや違う。身体差、加齢による衰え、その日の体調、その瞬間の油断、技の相性――先天的後天的に関わらずあらゆる要素が混ざり勝敗を決する。勝負事に平等なものなぞありはしないということよ。武器術なら尚更じゃな」
不玉の言葉は殆ど基礎の精神論である。
鉄華は合宿で既に通り過ぎている心構えだが、冬川は自身の在り方に言葉を必要としている。
「千変万化の瞬間に備えて不確定な要素を無くそうと努めるのが武術家じゃ。ある者はその過程で知識を体系化し法則を見出そうとした。それが流派となる。泥連は流派を拠り所とし、流派に身を委ね、術理を体現する装置になることを選んだ。そういう愚直さが強さの根幹を成すこともある」
「……」
「いずれお前にも合う形が見つかるじゃろう。そこに収まれば身体差なぞ些細なことじゃ」
鉄華からすれば冬川はある種完成しているように見える。
速さという強みを武器術に落とし込むだけでどこまでも伸びていくはずだ。
それでも泥連に負けたことに居着いて、立ち位置を見失ってしまっているのだろう。
篠咲は言葉で導くような指導者ではなく、冬川が振り落とされても構わないような利己主義者でしかないことが伺えた。
それともそれが玄韜流のやり方なのだろうか。
「さて、そろそろお開きといこうかの」
解散の合図は別行動の冬川に向けたものだが、用事を思い出した鉄華は小さく挙手して口を挟んだ。
「あー、あの、私この辺りに親戚がいるんでこのままタクシー呼ぼうと思ってます。明日は休みですし、久々に顔くらい見せておこうかと」
「ふむ。鉄斎とも関わりのある土地じゃろうしな。そういうことなら置いて帰るが帰りは大丈夫かえ?」
「大丈夫です。お金は充分にありますので心配要りません」
「冬川とやらも帰り道は分かっておるか?」
顎に手を置いて先程の不玉の言葉を検証していた冬川は、ふと我に返り、視線を返すことなくフルフェイスのヘルメットを被った。
「……今日はそこそこ参考になったわ。さようなら」
素っ気ない別れの言葉は、まるでいつでも会える友人同士に向けるような響きすらある。
得られるものがあった余韻を忘れないようにか、バイクに跨るとアクセルを大きく吹かして足早に走り去っていった。
「やれやれ、忙しい奴じゃ。ではな、鉄華よ。大会までは息災でおるのじゃぞ」
「はい。またいずれ」
続く不玉も走り去り、一人取り残された鉄華は暫くの間、駐車場の隅でコーヒーを飲みながら道行く車のライトを眺めていた。
それは自身の根源と向き合う覚悟の時間でもあった。




