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どろとてつ  作者: ニノフミ
第十一話
43/224

【臆病】⑤

   ◆




 天窓から差し込んだ夕日が磨かれた床に反射して道場内は赤く染まっていた。

 学校や仕事が終わる時間はとうに過ぎているが、他の門下生が来る気配すらない。


 個人力と教える能力は別物だ。

 強くとも粗野で傲岸不遜な人間は師事される器ではない。

 まるでパワハラが横行するブラック企業の末路のように、今や目の前の二人の男しか残っていないのかも知れないと鉄華は考えていた。

 もしそうであるならば流派の代表たる守山為久の人格も疑わざるを得ない。

 井澄のような人種に師範代を任せるのは指導することを放棄しているも同じであり、引いては流派の存続をも投げ出す行為である。

 万人に門戸を開けた経済活動をしている以上、ただ強者のみが残れば良いという蠱毒の壺を望んでいるとは考え難い。

 守山為久の真意はともかく、この道場は終わりが近いと鉄華は思った。


 道場の中央には先程まで気炎を吐いていた井澄が横たわっている。


 瞳は魂が抜けたかのように虚空を漂い、手足は糸の切れた操り人形のように重力に引かれ崩折れていた。

 勝負は鉄華の予想通り、一瞬のことであった。




   ◇

 



 勝負は試合線もルールの確認も合図もなく始まり、自然体で立つ不玉の対手で、井澄は撞木足の中段に構えていた。

 堂に入っている。

 口先だけの男ではないと鉄華は理解できた。

 守山流は祖父の技に近いものだと予想していたが、井澄の低めの中段は夜の庭で見た型を思い出さずにはいられない圧力がある。


 それでも、鉄華は不玉の勝利を疑っていない。

 素手の手合いに中段で距離を測るのは危険だ。

 威嚇にはなるが臆さない相手の場合、武器という有利を相手に差し出す行為でしかなくなる。


 井澄は突き技の隙を狙われることは警戒していたのか、振り幅の小さい手打ちで側面を叩くのが最善と判断すると、踏み込みながら剣尖を少し寝かせた。

 しかしその瞬間、右手に何かが巻き付く違和感を感じて行動を停止する。

 それが不玉の両腕だと気付いた時には既に首に両足が掛かっていた。


 勁草からの三角絞め。


 視線が剣に移った瞬間を逃す不玉ではなく、中段に構えた剣の影をなぞるように柔術の圏内に到達している。

 技が完全に極まるよりも先に井澄の手元から木刀が滑り落ちていた。

 三角絞めの前に指取りで小指を圧し折られたからだ。

 それから頸動脈の圧迫が始まる。

 その時点で恐らく井澄の意識は薄れ行く最中にあり、最後まで術理の理解が追い付いたかは定かではない。

 ただ闘争本能がなせる反射行動か、苦し紛れに空いた左手で不玉の太腿をつねっていた。


 ――柔術の対策が出来ていない。

 殺し合いを前提とした古流の戦いなのだから痛みを与えるだけでは意味がない。

 三角絞めは充分に極まり、膝も落ちている。

 もはや相手の帯を掴んで体を捻ることも、持ち上げて投げ落とすことも、背面へ膝蹴りを入れることも出来ない。

 ここから悪足掻きをするのならば、指が脱臼するのも厭わず脇腹への抜き手を敢行するべきだと、鉄華は攻防を眺めつつシミュレーションしていた。


 既に勝負は見えており、あと何秒かで落とされるのは誰の目にも明らかであった――が、三角絞めに移行してから三秒後、井澄は一瞬弾けるように身を震わせて全身の脱力と共に失神した。




   ◇




 奇妙な静けさの中、不玉が着物の襟を正す音だけがはっきりと聞こえていた。

 井澄は今だ覚醒せず、付き添いの男は一瞬の決着に加勢する間もなく立ち竦み、鉄華と冬川は攻防を振り返ることに注力している。


 勝敗こそ鉄華の予想通りではあったものの、内容は想像の範疇を超えていた。

 どんなに考察しても一連の攻防には不可解な点がある。


 不玉が仕掛けたのはただの三角絞めではなく、指取りを軸とした複合的な極め技【蔦絡(チョウラク)】だということを鉄華は知っていた。

 五指は連動しているので、どれほど堅牢に拳を固めてもそこから小指一本を持ち上げられると途端に握りが崩壊する。

 指骨の破壊という古流柔術の基本を混ぜた近接闘法だ。


 ――しかし、その後があまりにも速すぎる。

 三角絞めを仕掛けてから頚動脈洞反射を起こす時間を考えると三秒はありえない。

 失神させるということは殺せるということ。

 地面に叩き落とす投げ技に匹敵する速度の鎮圧を、絞め技で実現していた。


「……今、何をしたの? ただの三角絞めではないわよね」


 同じく疑問を抱いた冬川が単刀直入に切り出していた。


「む? ああ、腿をつねられるのが痛くての。ムカついたから空いた手で当て身を使ったのじゃ。いわゆるラビットパンチというやつじゃな」


 不玉は平然と答えてみせた。

 後頭部を狙うラビットパンチはどんな競技でも確実に反則となる危険行為である。


「拳の親指第一関節を立てて耳の後ろの側頭骨を打った。脳震盪、内耳振盪、眼球振盪、或いは絶命に繋がる脳障害を狙うのが目的よ。まぁ儂くらいになると加減出来るから安心せよ。殺してはおらん」


 投げ技、寝技の超近接距離に於いて急所を狙う打撃【梏桎(コクシツ)】。

 鉄華はその概要だけは知っていたが、実際に使われるのを目にしたのは今回が初めてであった。

 寝かせた拳の鋭角部分で点穴を狙う打撃はフックよりも浅い角度で放たれ、到達距離が短く死角だらけの近接戦では想定していても回避するのは困難である。

 ナイフに匹敵する古流の打撃。

 相手が男であれば金的という選択肢も増える。

 鉄華は一度接近した不玉が負ける姿を想像できない。


 しかし一方で、不玉は篠咲のセコンドである冬川に対しても術理を隠そうとする素振りすらない。

 不玉自身は技を知らせる事も策略として機能させることが出来るが、彼女ほどの選択肢を持たない鉄華は気が気でなかった。

 篠咲がどうするかはともかく冬川は確実に対鉄華対策の指針を得たことになる。 

 相手の生命を考慮しない柔術技、剣の間合いの更に内側の攻防があること、そしてそれを鉄華が学んでいるという事実が知られた以上、体格を盾にした闇雲な接近は潰えたと考えなければならない。


 鉄華の胸中に渦巻く焦りを見通したかのように冬川はニヤリと笑みを向けた。


「冬川さんはずるいです」

「あら、心外ね。文句ならあなたの師匠に言うべきよ」


 そもそも不玉が鉄華と冬川との因縁に配慮する理由などなく、その在り方を責めることなど出来ない。

 思惑は分からないが、教えるに足ると考える相手には躊躇わず情報を開示するのが彼女だ。

 或いは、弟子に困難を示すことで新しい術理を発見させようとしているのかもしれない。


 解決策を考え始めた鉄華は、道場の気配が変わったことに気付いて思考を中断した。

 気絶から回復していた井澄は、内耳のダメージによる回転性めまいで立つことも出来ずにこちらを睨んでいたが、別方向から飛んでくる視線に気付いて声を上げることができなかった。


 壮年の男。

 オールバックの頭髪はところどころ地肌が見える程に薄くなっていて、長年笑みを作ってきたかのようなシワが目元に刻まれている。

 男性にしては小柄であるが首から肩にかけての筋肉が異様に発達し、まるでハンガーを入れたまま服を着ているようなシルエットであった。


「これはどういうことですか? 井澄、内海」

「え、あ、いや、ちょっと練習試合といいますか……」


 内海と呼ばれた小太りの男は態度を萎縮させ、井澄もすぐさま闘争心を引き下げて飼い猫のように大人しくなっていた。

 彼らの態度はそのまま流派の序列であり、突如現れた男が何者かを明らかにしていた。


「久方ぶりじゃな為久よ」


 男は不玉の声掛けに物腰柔らかな笑みで答える。

 守山為久。

 流派の頂点である男は肩書に相応しい雰囲気を纏っている。

 戦ってもかなりのものだろうと鉄華は予想していた。


「ええ、お久しぶりです。何か無礼がありましたか?」

「いんや。活きの良いのがおったからの、味見しただけじゃ」

「そうですか。内海、病院へ連れて行きなさい」

「うす……」


 師の命令で水をかけられたように退散する二人の男たちであったが、肩を貸されてどうにか立っていた井澄の視線は最後まで不玉に向けられていた。

 もはや味見(・・)に興味がない不玉と、守山の検分に余念のない冬川をよそに、鉄華だけはその視線を目の端で捉え続けていた。


「立ち話もなんですから応接室へ行きましょうか。ささ、どうぞお弟子さんもご一緒に」




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