【臆病】③
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「なんか、おっきくなったね」
それが西織曜子の第一声だった。
「身長は一緒な感じだけど、なんつーかシルエットが膨らんだというか、太った?」
「う……」
昼休みになってようやく教室に戻れた鉄華は、ここでもまた暗い気分にさせられていた。
体重の増加は筋量の問題で、見た目にはさほど変化はないと思い込んでいたからだ。
不玉の作る高タンパクな献立を日々の稽古では消費し切れていなかったのかと一寸考え込む。
「あっははは! 冗談だよー! 焦ってやんの! プークスクス」
「……表出ようか?」
「まぁまぁ、急に二ヶ月も音信不通になった仕返しだと思って受け入れてよね。……でも、なんかガッシリしたよね。筋肉的な意味で」
「そ、そうかな……?」
「忍者先輩から山篭りだって聞いてたけど、どうだったの?」
鉄華は少しの躊躇を感じたが、宗彭山での二ヶ月間をありのままに話していった。
そして、改めて言葉にするほどに、相手の反応を伺うほどに、現実を離れた非日常であることを認識していった。
「ふえぇ……、もう鉄華ちゃんが何目指してんのか私には分かんないよ。職業格闘家になっちゃったりすんの?」
「や、別にそこまでは。あくまで部活動の一環だよ」
――嘘だ。
強さへの渇望は着地点を求めている。
目を逸らして現実に溶け込もうとするのは、いつか限界を迎えるだろう。
それも近い内に。
「いやいや、山篭り修行とか割とガチ勢だと思うよ。ほら、好きなモビルスーツの型番言えなかったりするとニワカ扱いされちゃうじゃん? それと似たような空気出てるって」
「モビる……? 何それ?」
「マジですか。これ通じなかったらもうアニメトーク何もできないぜよ」
「すまぬ……」
鉄華は自身が抱えるある種の狂気を曜子に打ち明ける気にはなれない。
幸せに生きている人間に不幸の手紙を送りつける行為に思えたからだ。
そんな上辺のやり取りを傍目に見ていた一人の少女が二人の間に割って入ってきた。
「ヨーコ、あんた放課後ヒマ? カラオケとかどーよ?」
「え、あー、ヒマではあるけど……」
逡巡する曜子の視線が鉄華に向けられると、続くように少女も鉄華を見据えた。
栗毛のセミロングから覗く長いマスカラとオリーブ色のカラーコンタクト、胸元を開けて着崩したシャツの腰にはオレンジ色のパーカーが結ばれていて、その下に丈の短いスカートが少しだけ見えている。
緩い校則なので季節の変わり目に私服と制服の間のようなコーディネートをする生徒は多いが、いわゆるギャル系の彼女がまともに制服を着ている事はそう多くない。
彼女が曜子と交流のある人物だということは何となく知っていた鉄華だが、今まで特に話したこともないクラスメートと初めて目線を合わした瞬間、図らずも少し身構えていた。
向けられる目付きに篭もる感情には覚えがある。
「あー、春旗だっけ? あたし津村鈴海っつーの。よろしくね」
「よろしく」
明確な敵意。
剣道で打ち倒してきた相手の一人であろうかと鉄華が観察を始めるよりも先に、津村は口を開いた。
「でさ、アンタね、あんま評判よくないよ。他校のヤンキーと木刀で殴り合ったって噂になってるけどマジなの?」
「……」
ある程度予想はしていたが、噂になっているのは誤算だった。
内容も真実に近い。
出処は古武術部の誰かだろうし、配慮の無さと口の軽さで考えれば泥連だろう。
富士子先生が頭を悩ませる理由が今になって分かった鉄華であったが、目の前で睨む津村に返す言葉は見つからない。
恐怖の裏返しの敵意であるにも関わらず、臆することなく直接感情を口にできるタイプだ。
「何でそうなったのか知らないけどさ、危ないことにヨーコ巻き込んだらあたしが許さないからね」
「スズちゃん、そんな言い方しなくても……」
「ヨーコは黙ってて。あんた流されやすいんだから」
津村の敵意は友人である曜子への心配から来るものであり、関係を断てという迂遠な要求だ。
冬川は決して無関係の人間に鞘走る狂人ではないと鉄華は信じている。
挑発を受け流せず泥連と戦ってはいるが、弱者と分かっている相手に力を誇示して悦に入る外道ではない。
言うなればプライドの塊のような存在だ。
しかし、現状何の信頼関係も築けていない津村に対して冬川の在り方を説明することにどんな意味があろうか。
鉄華に出来ることといえば根拠の無い約束と、今後の態度で誠意を示すことだけだ。
「大丈夫。巻き込んだりしないよ」
「そ、ならいいけど。邪魔したね」
警告が済んだ津村は、別のグループに合流して教室を出て行く。
俄に喧騒を取り戻した教室内の雰囲気で、鉄華はクラスメート全員が今のやり取りに注視していたことに気付いた。
――また同じだ。
どんなに望んでも狼は羊になれない。
「なんかゴメンね、鉄華ちゃん」
「謝んなくていいよ、仕方ないし。……ねぇ曜子。私さ、やりたいこと見つかったんだ。今は上手く説明できないんだけど、また今度ちゃんと話すよ」
「……うん」
――また今度。
そんな約束をする後ろめたさを感じながら、久方ぶりの学校生活は過ぎていった。
■■■
終業のチャイムが鳴ると同時に鉄華は逃げるように教室を飛び出して、古武術部の部室に向かって足早に移動していた。
きっと今頃教室ではありもしない噂話を展開されているだろうが、その手の悪評に居着いても仕方がない。
部室棟に向かう途中の渡り廊下から窓の外に目をやると、一巴が育てていた苗木は腰ほどの高さに成長していて、いくつかの赤い花弁を付けているのが見える。
来年にはもっと枝分かれして八重咲きの花が咲くと言う。
用途はともかく、小まめに手入れしている一巴の想いに応えて着実に成長を続けていた。
鉄華は思い出したかのように携帯電話を取り出して通知を確認したが、そこには見慣れたホーム画面が写っているだけであった。
泥連も一巴も送信したメールには何の反応も返してこない。
電話も繋がらず、まるで鉄華は敵側だと言わんがばかりの情報閉鎖を敷いている。
文字通り命懸けの戦い、人生の集大成を迎えようとしていた彼女らにとっては学業よりも優先するべきことがあるのだろう。
或いはもう学校に来ることすらないのかもしれない。
部室である第三工作室の前に立った時、先に職員室に鍵を貰いに行くべきだったと後悔した。
――が、部室内から聞こえる話し声に驚いて扉にかけた手を止めてしまう。
外まで聞こえる甲高い声は剣道部主将の最上歌月のものだ。
彼女が親しげに話す相手となれば古武術部の誰かであることは間違いない。
鉄華は思考の暗雲を振り払うように扉を勢い良く開き、――驚きでまた固まってしまった。
それは誰もいないと思っていた部室に三人もいるという驚きではなく、向けられている黒髪の少女の双眸に驚いてのことであった。
「あら、遅かったわね。春旗さん」
出迎えた少女、冬川亜麗は姿勢良くパイプ椅子に座り、一度離した紅茶のカップをまた口に運び直している。
昔日と同じ他校の制服が見慣れた学校の風景に違和感を与えていた。
「ふ……冬川さん。なんで……」
「わたくしが案内して差し上げたのですよ。わざわざ神奈川からお越し頂いたなんて素敵な友情ではありませんか。剣を合わせた者同士の相通ずる想い。素晴らしい青春ですわぁ!」
事情を知らない歌月は、ミュージカルのようにステップを踏みながら率先してお茶汲みをしている。
中学剣道の全国一位と二位が揃った状況、剣道部再興を狙う彼女の意図が丸見えで鉄華は少し胸焼けがした。
壁際に並ぶ椅子の上に寝転がっていた顧問の富士子は、薄目を開けて鉄華を見据えている。
眼力を以ってして『早速、面倒事連れてきてんじゃないわよ!』と伝えているのは理解できた鉄華だが、向こうから勝手にやってきたものはどうしようもない。
鉄華は距離を開けたまま冬川と相対した。
相手の目的を考えるよりも先に戦いでの有利を模索する。
今は立っている分だけ鉄華の方が有利ではあるが、冬川が素手である可能性は低い。
身を落として短刀を抜き放つ動作に備えて充分な距離を保った。
そして考える。
冬川がただ茶飲みの世間話をしに来るなどあるわけがない。
彼女にとって何らかのプライドに関わる問題があるからここにいる。
押し黙り目線だけを送る鉄華を尻目に、冬川は優雅な余裕の笑みを見せた。
「ふふ、そんなに怖い顔しなくとももうあなたに興味なんて無いわ。私が聞きたいのはあの小枩原という女の事よ。何処にいるのかしら?」
「……聞いてどうするんですか?」
「愚問ね」
ストーカー化するという泥連の予想はあながち間違いではなかったようだ。
プライドの塊である彼女が無様な敗北を放置することはない。
鉄華の時と同じように、ある程度小枩原家のことも調べてから現れているのであろう。
「ん~……デレ子ちゃんなら休学届出てるし暫くは学校に来ないと思うよぉ。留年する気なのかしらね」
「……」
富士子は寝起きの演技をしながら鉄華の代わりに答えた。
――休学届。
鉄華にとっては予想の範囲内だ。
復学を望んでいるということは大会後の人生を考えての行動であり、内心どこかほっとする思いすらあった。
行動の機先を制された冬川は少し目を見開いてから、改めて鉄華の方に向き直る。
「私も知らないですよ。大会に備えてか、夏休みの始め頃にはセコンドの人と一緒に行方を晦ましてます。多分実家にも現れないと思いますよ」
「……そう、一足遅かったようね」
大きな落胆や喪失を感じたかのように冬川は深く溜め息をついた。
何もかも遅すぎたと感じているのは鉄華も同じだが、冬川は大会以降泥蓮が生き残っているとは考えていない。
大会では完全に敵側の陣営であり会話の機会もないだろう。
成長の糸口であった出会いが、人生ただ一度の邂逅であったという思いでどこか物悲しい表情を浮かべていた。
もはや問うべきことは残っていないとばかりに席を立った冬川は、鉄華の横を通り抜けて扉へと向かって歩く。
その後姿を見た鉄華は、何故かは分からないが呼び止めなければならないという衝動に駆られた。
「あ、あの!」
「何? 再戦したいのなら四の五の言わずにかかってきなさいな」
当然の如く冬川に隙はなく、興味はないと言いつつも迎え撃つ覚悟だけは常に潜ませている。
言葉が浮かばない鉄華との間に闘争の気配が広がり始めた時、それを察した富士子が言葉を挟んだ。
「言っとくけどぉ、次やらかしたら先生激おこだかんね~。二人纏めて退学まで追い込むからそのつもりでどうぞ~」
気怠げな口調の富士子の目には燃えるような意志が見て取れた。
ある意味冬川の件での一番の被害者でもある。
怠惰な教員生活を乱す邪魔者を排除するのに少しの躊躇も感じられなかった。
「……さっきから気になってはいたのだけれども、あなたもしかして教師なのかしら?」
「そうだよぉ。……え、え? そんなに若く見えるかな私!? やだもう~、狂犬だって聞いてたけど礼儀正しい良い子じゃないのアレ子ちゃん」
「……」
冬川の言葉を独自の解釈で前向きに受け取った富士子は、頬を緩ませながら足をバタつかせている。
鉄華は今だ言葉が浮かばない。
聞きたいことは山のようにあるのに、互いの関係性を考えると何もかもが失礼な問いかけになりそうで躊躇われる。
牽制のように当たり障りのない質問から口に出すことにした。
「冬川さんは撃剣大会に出るの?」
「……出ないわ。私は鍵理さんのセコンドよ。聞きたいことはそれだけかしら?」
冬川は自身の質問の返礼とばかりに情報の提供を許可している。
基本的には律儀な人間なのだろうと、鉄華は初めて知った情報に少し驚いていた。
「じゃあ、私は帰るわね。さようなら」
「待って!」
「……だから何? 言いたいことがあるならさっさと言いなさい。面倒なのよあなた」
思えば冬川に関しては知らないことだらけだと今更のように認識している。
――知りたい。
彼女が何に怒り、何に喜び、どんな覚悟を以って剣術に拘るのか。
知らなければ想いに答えられないし、押し付けることも出来ない。
知らなければ全力で、殺すつもりの一撃を振り下ろせない。
「……冬川さん、私とデートしましょう」
「……………………は?」
口をついて出たのは泥蓮が鉄華を誘い出した言葉であった。
避けて通れない闘争を控えた者同士が、仲良くしてはいけないという決まり事などない。
互いを知る機会は後にも先にもこの瞬間しかないように思えた。
「あ、あなた、そういう趣味だったの……そう、だからわざわざ剣道を捨ててまで女子校に……」
「……なにか誤解してませんか?」
鉄華の思いに反して冬川は狼狽していた。
抱いていた疑念の答えを得たかのようにジリジリと後退りを始めている。
「そそそ、それ以上は近寄らないでくれるかしら……」
「いや、ちょっと待って、そうじゃなくて! ちょ、逃げないで!」
脱兎の如く飛び出した冬川を追って、鉄華も部室を出て行った。
静けさを取り戻した部室内に、紅茶に砂糖を混ぜるティースプーンの音だけが優雅に響いていた。
それを一口飲み干してから歌月は寂しげに呟いた。
「……わたくしだけ完全に蚊帳の外でしたの」
「いや、あんたは剣道部行きなさいよ」
◆
――速い。
全力で走っているのに差はどんどん広がっていく。
勁草は踏み込みの瞬発力を上げるが、その術理の大部分を占めるのは虚を突くという認識の差分時間であり、競技走には活かせない。
歩幅で劣る冬川が速いのは足を回転させる速度が欠点を補っているからだ。
まるでネズミとゾウのように違う体感時間を生きている。
――駄目だ、追いつけない。
鉄華が諦めかけた時、冬川の前に人影が横切った。
チャンスだと思った。
冬川なら難なく躱すだろうが多少のロスは生じる。
そこに飛びつけば体重差で押さえ込める。
武器を持っていることも考慮しなければならないが、大会を控えた時期に人気のある他校の校内で刃物を振り回す可能性は低い。
今しかないと鉄華が余力を消費して加速した瞬間、――冬川は避けたはずの人影に衝突していた。
そして、そのまま人影と一緒に慣性で三回転した後、うずくまったままの状態で立ち上がれずにいた。
追いついた鉄華がよく見ると、冬川の脇の下に相手の足を差し込まれて肩と手首を極められている。
全力で衝突した人物に、逆に取り押さえられた格好になっている冬川は屈辱で声を荒げた。
「ッ! 放しなさい!」
腕ひしぎ体固め、ブラジリアン柔術で言うところのオモプラッタという技である。
鉄華はその技を何度も食らった記憶が反芻され、見ているだけで肩の痛みが蘇るようだった。
「ふむ、なんじゃ。この手頃なサイズ感、てっきりうちのバカ娘かと思ったが違ったか。いやいや、すまぬな。許せ」
「……くっ」
「しかし、廊下を走るのは感心せぬぞ。花摘みにしてもそこまで溜め込むのは身体に毒じゃ。よいか? 川立ちは川で果てるという故事にもあるようにな、」
取り押さえた女は冬川を解放し、乱れた着物の襟を正しながら説教をしていたが、やがて鉄華に気付いて向き直った。
「おう、鉄華や。丁度守山流の現当主に会いに行くところでな、ついでにお前も連れて行こうかと思ったのじゃが、今は暇かえ?」
「え、あー、暇と言えば暇ですけど……」
「なら決まりじゃな」
もはや忘れかけていた守山流という情報を思い出した鉄華は、あまりにも唐突な選択に錯乱しそうになっていた。
祖父の情報と冬川との会話を天秤にかけて重要度を考えるが、どちらもこの瞬間を逃せば手に入らないように思える。
「待ちなさい」
師と冬川を交互に見ながら慌てる鉄華を跳ね除けるように冬川が間に入ってきた。
自分を無視して進んでいく会話に対して焦慮を隠さず睨んでいる。
「なんじゃ?」
「あなた何者よ」
「儂か? 儂は小枩原不玉という資産生活者じゃ。不審者ではないし、ましてやニートでもないぞ。安心せよ」