【臆病】②
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女は暖気を終えたバイクのクラッチを握ってギアを一速に踏み込むと、一呼吸置いてから跳ねるように飛び出した。
速度を上げるに連れて世界は線を引いて流れ出していく。
レーサーレプリカの流線型に溶け込むように身を屈めて最後のギアを入れた時、エンジン音も風の音も極限の集中力の中に消えていった。
誰も居ない自分だけの世界。
放たれた一個の弾丸は目的地もなく彷徨う。
冬川亜麗はいつ死んでもいいと思っていた。
強さを求め出すとキリがないのは理解しているが、敗北の悔しさだけは慣れることが出来ない。
積年の屈辱を払拭できれば世界が変わり、新しい段階が見えるものだと勝手に思い込んでいたが、そんなことなど起こりはしなかった。
残ったのはただ虚しい現実だけだ。
『武術とは決して才能の世界ではない。才能なき者が自分の限界に抗うための術だ』
テレビのインタビューに答える篠咲の言葉に心酔した。
それまで人生の全てであった剣道を土足で踏み荒らし、最強への新たな道筋を示してくれた。
剣道の下地も、春旗に負けたことも、この瞬間の為にあったのだと天啓を得たようにすら思えて弟子入りを決意した。
それでも、結局最後には身体的な限界が立ち塞がる。
撃剣大会出場を賭けた篠咲との戦いは子供をあやす掛かり稽古に等しい茶番であった。
篠咲の放つ打突は骨まで響き、体当たりはどんな技も問答無用で叩き潰す。速度も読みもスタミナも次元が違う。
師事する人間の強さに憧れると同時に、才能あって努力した者には敵わないという現実を思い知らされた。
篠咲と同じ体格を持つ春旗ならやがて同じ境地に立てるのかもしれないが、小柄な者が同じ道を辿るのは不可能であると認めざるを得ない。
篠咲の言葉は詭弁、或いは持つ者の余裕であり、才能の無い者は続けた努力が無駄だと認めたくないが故に、自己との戦いという綺麗事で飾られた哲学に逃げ込むしかないのだろう。
――しかし、小枩原泥連という女は別だ。
あの日、春旗を破ったことで得られた充足感も束の間、小枩原には手も足も出ないほどの実力差を見せつけられている。
決死の覚悟で赴いていたはずなのに彼女の強さに恐怖して逃げ出してしまった。
同じ体格であるにも関わらず明確な差がある。
詰まるところ小枩原は体格差の葛藤を通り過ぎた遙か先にいるということだ。
ならばどうするか?
冬川亜麗は今一度問わねばならない。
いつもそうしてきたように直情に身を任せ行動を開始する。
いつもそうしてきたように相手の都合など知ったことではなかった。
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冷え切ったコーヒーの中から溶け切らなかった粉ミルクの塊を発見して、まるで自分にそっくりだなぁと古武術部顧問の八重洲川富士子は思った。
若い時分の失恋を、適齢期を越えた今でもまだ引き摺り続けている。
全てを賭けた青春の澱は淀んだ心底に溜まり続け、最後は想い人の死によって結晶化されていた。
触れることすら出来ない片思いの深淵で、美化され研磨され尽くした宝石のような想い。
もしも彼が生きていたらスタンダールの恋愛論に新たな一石を投じられたのではないだろうかと、富士子は自嘲気味に笑った。
その隣の床の上には新たな問題児こと春旗鉄華が正座している。
一限目のチャイムが鳴っても生徒指導室の空気は停滞したままだった。
「鉄華ちゃん、私はね、別にあなたが武術家目指そうが無法者目指そうがマジでどうでもいいのよ。ただね、ウチは一応お嬢様校なわけ。暴力沙汰起こして、急に休学して、挙句昨日の始業式も寝過ごすってのはやりすぎじゃないかと思うの。少女漫画雑誌にチャンピオンのヤンキー漫画載ってたらおかしいでしょ? タッチが違うのよあなただけ」
「す、すみません」
富士子が最も危惧していたのは、鉄華が本物と出会ってしまうことであった。
答えを得てしまった子供に大人の視点で諦めるべきだと諭すことは不可能に近い。
もう彼女は止まれないだろうと知りながらも、半ば諦めの気持ちで職務を果たす。
「正直、デレ子ちゃんがやる気な時点で嫌な予感はしていたんだけどね~。何なのよ、平成撃剣大会だっけ? バカじゃないの? 死ぬの?」
「わ、私はセコンド任されただけで……」
「要は片足突っ込んでるわけでしょ」
「……はい」
「出場するなら退学だと言ったらどうすんの?」
「退学します」
鉄華の青臭く愚直な視線を向けられて富士子は目眩がしそうになった。
もはや常識が通じる世界ではない事を鉄華自身も分かっているだろうが、分かっていても憧れを止めることは出来ない。
全ては引き込んだ人間の責任だ。
高端不玉。
剣でも恋でも勝てなかったかつてのライバルが、ここに来てまた何かを奪い去っていくようで腹立たしい富士子であった。




