【邂逅】③
◆
その部屋は「第三工作室」と書かれた札が掲げられており、通常では使うことのない空き教室の名残りが伺えた。
間取りは一般教室の半分ほどで、使い道で持て余した果てに規模の小さい文化部を割り当てることが慣例になっているようだ。
入ってすぐ左の壁際には剣道の防具が五セットほど並べられ、木枠を組んで自作したであろう竹刀立てには見慣れない武器が何本も刺さっている。
部屋の奥にあるスチール製本棚に製本が解れ気味の年期の入った本が詰め込まれていて、本棚に入り切らなかった本が床に置かれたダンボール箱に詰め込まれていた。
右の壁側には工具や万力が並ぶ作業台、その奥にシンク台と冷蔵庫が設置されていて多少の生活感も伺えるが、工作室に剣道部と文芸部をねじ込んだような乱雑さは説明されなければ倉庫としか思えない有様であった。
鉄華の後を追うように部屋に入ってきた歌月は、部屋の中央を陣取る一畳程の大きさの会議机に両手をバンッと叩きつけた。
「いいこと春旗さん! この古武術部というのは胡散臭い文化部ですわよ! じめじめ~っとしたカビ臭い文献に囲まれているだけでこれといった活動実績もない、何で存在しているかも分からない気味の悪いオタク部ですわ! あなたが剣道を続けていたのは、こんな怠惰で甘えた日常を送るためではないでしょう?!」
語気を荒げて古武術部を否定する歌月の様子を、部屋の奥でお茶を入れていたショートカットの古武術部員は微笑ましげに眺めていた。
「相変わらず言いたい放題だな」
部長である小枩原泥蓮は一番奥のパイプ椅子に座ると、読みかけだった漫画雑誌を開きつつ空いた方の手でスナック菓子を摘んでいた。
その様子に毒気を抜かれた歌月は慣れたように手近なパイプ椅子に腰を下ろして、「お茶」と一言呟く。
「はいはい。新入生の人もどうぞ座ってくださいっす」
ショートカットの部員は笑みを崩さず来客対応を続けている。
鉄華も歌月の向かいのパイプ椅子に座ると、泥蓮の方を向いて質問をぶつけた。
「この部活は何をするところなんですか?」
「詳しいことはイッパに聞いてくれ」
泥蓮は雑誌から目を離す事なく、スナック菓子を摘む手で追い払うような仕草をする。
「ヒトハっす。木南一巴。二年生っす。よろしくっす」
ショートカットの部員、木南一巴は湯呑みとクッキーの入った小鉢を歌月の前に置きながら自己紹介をした。
「とりあえずお茶でもどうぞ、モゲ姉さん」
「あら玉露ね。この部活のどこにそんな予算があるのかしら」
出されたお茶とクッキーを食しつつも毒づく歌月に一巴は「秘密っす」と答えて急須を洗い始める。
「新入生の人はちょっと待ってね。今お茶入れ直すから」
「は、はぁ……」
一巴は洗い終わった急須にお湯だけを注ぎ、そのお湯を湯呑みに移した後、急須に茶葉を入れてから湯呑みのお湯を戻して蓋を閉じる。
玉露はそこから三分ほどの抽出時間を置く。
急須の蓋を押さえながら一巴は鉄華に視線を移し「この部活は―」と話し始めた。
「数多ある古武術の技術や歴史を通して、その当時の社会や生活を探ったり探らなかったりするのが主な活動っす」
「怪しいものね。あなた達がそのような知的活動しているのを私は見たことがないわ」
説明を始めた一巴に被せるようにして歌月が反論で水を差す。
「事ある毎に剣道部の一角を占拠し、自作の怪しい得物を振り回してウチの部員を怖がらせているだけでしょう。さっさと廃部になってくれないかしら」
剣道部と古武術部の確執を垣間見た鉄華であるが、この人いつまで居座る気なんだろうと若干のウザさを感じていた。
一巴は急須の温度を確認しながら「そんなことないっすよ」と反論する。
「例えば古武術の型には『お茶を出してくれた相手が襲ってきた時の型』という正座状態からの対処法なんてのが幾つかあるんすけどね、それは当時そういうシチュエーションが一般的だったということっす」
そう言うと片手で手刀を作り、円を描くように軽く振ってみせた。
「しかもその多くは素手の柔術技っす。客として招かれた場合は刀を預けたり、腰から外して自分から離して置くことで敵意がないことを証明するのがマナーであったことも分かるわけっすね」
なるほど、と鉄華は感心した。
現在の常識では実戦的とは言えない技術が多くあり、それらを再現することで歴史を紐解くことができるのだ。
鉄華自身その手の座学な活動にはあまり興味を感じられないが、逆に実戦的な部分を集約して扱えるようになれば泥蓮のように戦うことが可能なのかも知れない。
そんな鉄華の様子を観察していた歌月は小さく舌打ちし更に反論を重ねる。
「乗せられては駄目よ、鉄華さん。心が未熟なまま闇雲に剣技だけ覚えるというのは実にならない花のようなもの。この部活が文化部であるというのは、そのように道を外れた剣技を振るう場など現代では存在しないということですわ」
歌月の言い分も尤もであった。
或いはスポーツチャンバラのような剣道より自由な舞台では応用できるのかもしれないが、あれは安全性に配慮したライトなスポーツである。
ルールが有り武器も違うのであれば、その競技独自の定石が新たに作られ固定化されてしまうものである。
そうなると実戦からはかけ離れてしまう。
純粋な意味での死闘技術である古流を学び、それを実践する場所など存在しないのだ。
例え街中の喧嘩であろうとも中々そうはなりえない。
「何も殺し合いが目的なわけじゃないっすよ。『兵法は平法』と言われているように平常時にも応用できる技術も沢山あるっすから」
「へぇ、例えばどんなものなのかしら?」
「そうっすねぇ。……例えば『萬川集海』のような忍術書には毒薬や解毒薬の作り方が書かれているんすよ。解毒薬はミネラルを多く含み利尿作用を持っているんで、これを現代に応用すれば体のむくみを取る美容薬になったりするっす。お肌ピチピチっす」
「随分実用性が薄いわね。そんなものを個人でわざわざ調合する意味なんてないと思うけど?」
吐き捨てるように嘲笑う歌月であるが、そんな歌月を見下ろしながら一巴はニヤリと破顔した。
「そうっすかねぇ? かぼちゃの種、ノコギリヤシ、干した大根を煎じた粉末をクッキーに混ぜ込んだり、カフェイン値の高い玉露に入れたりするとマジ効果てきめんっすよ?」
湯呑みを掴む歌月の手がピタリと止まった。
暫く一巴と視線を交わした後、突如何かを思い出したかのように内股でソワソワと部室内を見回し始める。
部屋の奥にいた泥蓮も雑誌を読む手を止めて、歌月を見ながらニヤニヤと笑っていた。
「……あなた達、ま、まさかとは思いますが……」
「効果は四、五時間続くらしいっす。頑張ってくださいモゲ姉さん」
「ここで漏らすなよ」
「………」
しばしの沈黙を破り、歌月はパイプ椅子を跳ね飛ばしながら立ち上がったかと思うと内股小走りで出入り口に辿り着き、一度振り向いて泥蓮を睨みつけた。
「お、覚えてなさい! この借りは絶対忘れませんから!」
古びた扉がバシンと勢い良く閉められて廊下中に響き渡る音を上げる。
そしてパタパタと走り去っていく足音だけが寂しげに消えていった。
「どうぞっす」
涙目で退散する歌月を見送っていた鉄華の前にコトンと湯呑みが置かれた。
湯呑みの中で湯気を上げる液体を見ながら鉄華は怪訝な表情を浮かべ、湯呑みと一巴の顔を交互に見比べる。
「利尿剤は嘘だから大丈夫っす。あんなに早く効果が出るわけないっすよ。思い込みって怖いっすね」
「ど、どうも……」
とは言え得体の知れない初対面の人物であることは間違いなく、今更出されたものに口を付けるのは憚られた。
歌月の消えた部室内を静寂が支配し、一巴の洗い物の音だけがカチャカチャと響く。
やがてパタンと最後のページを閉じて雑誌を読み終えた泥蓮が鉄華に向き直った。
「で、入部するのか? つかお前誰だっけ?」
と気のない言葉を投げかけた。
鉄華は歌月を追い払うという当初の目的は達成できていたが、突然の邂逅で新たな目標が出来ていたことを思い出す。
「私は別に入部希望じゃないです。あなたに用があるだけです泥蓮さん」
「ん? お前みたいなデカ女の知り合いなんていないが」
腹の立つことに泥蓮は鉄華のことなど全く覚えていないのだ。
初対面時とは物腰も口調も全く違うが、あれはそういう演技でしかなかっただけで紛れもなく同一人物のはずだ。
相手をする価値もない小物だと言われているようで、鉄華は屈辱で声が震えそうだった。
「覚えてないんですか?」
「何をだ?」
「私は赤誠剣友会、一ノ瀬宗助の弟子です。元ですけど」
その言葉を聞いた泥蓮は眉をひそめ改めて鉄華の顔を観察し始めた。
「んんー? …………おお、あの時震えてた女か! 久しぶりだな。なんだ? 師匠の仇討ちか?」
「はぁ? 震えてなんていませんでしたが?」
あからさまな売り言葉であったが、泥蓮の態度は鉄華のプライドを刺激する。
勝ち目があるのかは分からなかったが、闘争の気配が体外に押し出されていくのを感じていた。
「まぁまぁ、お茶菓子でもどうぞっす。ほら、既製品だから安全っすよ。デレ姉も煽らないで」
「…………」
気配を察した一巴が間に割り込むように仲裁することによって、鉄華は冷静さを取り戻すことが出来た。
喧嘩をしに来たわけではないし、ましてや一ノ瀬の敵討ちをするつもりもない。
ただ、問わねばならない事があるだけだ。
一巴は泥蓮を睨み視線で密談する。
(デレ姉、あの子を入部させましょう)
(えぇ……あんな大型動物いらんぞ。野良犬みたいなやべえ目してるし。絶対血に飢えてるよ。改心する前のバッファローマンだよ)
(部員が足りないんですよ! 三人いないと廃部っす! エアコン冷蔵庫を備えた部室が使えなくなっちゃうんですよ)
(……)
(何の因縁があるのかは知りませんが知り合いなら丁度いいじゃないっすか。懐柔してくださいよ。調略ですよ調略)
泥蓮は溜め息を吐き、(やれるだけやってみる)という意思を親指を立てて一巴に返した。
鉄華の方は出された菓子を食べて糖分の補給に努めている。
「……なあ? お、お前名前はなんだっけか?」
「春旗鉄華です」
「そうか。……えーっと、なんだ、良い名前だな。名は体を表すと言うが、こう、涼しげでいて質実剛健? な感じ、だな? よ、よく見ると中々の美人じゃないか。その野良い…鋭い目つきも刃物みたいな危うさがあって野生の神秘を感じるぞ」
一巴は(なんすかそれ……)と心の中で呟き、あまりの褒めベタに落胆を示した。
「……そ、それほどでも……ないです」
一方で、容姿を褒められた経験が皆無である鉄華は素直に照れていた。
小学生の時酔った祖父に「将来はとんでもない美人になるぞ」と言われて以来の出来事であった。
その様子を察した一巴は(なにこいつ、めちゃチョロい。…いける。いけるっすよデレ姉!)と更なる畳み掛けを要求する。
「お前の師である一ノ瀬を叩き潰したのは悪かったが、まぁ生きていればそんな事故もある。仇討ちなど無益なことはよせ。師が泣くぞ」
途中まで頷きながら聞いていた一巴は一気に青ざめた。
(おぉおおい! 何してんすかあんた! 血に飢えてんのはあんたの方じゃないっすか!)
(なんだよ、事実なんだから仕方ねーだろ。文句あるならテメエでやれよイッパ)
視線を介した罵り合いが展開されるが、鉄華の方は意外にも冷静を保っていた。
「別に仇討ちなんかじゃないです。……ただ知りたかったんです」
「……何をだ」
「何であんなことしたんですか?」
それを聞いた泥蓮は静かに態度を変え、冷ややかな視線を鉄華に向けた。
「自分を試しただけだ。千葉は入院中。イタリア人に会うのは面倒。じゃあその次は三位しかいないだろ?」
「だから、何で自分を試す必要があったんですか? こんな文化部で強くなる意味なんて無いじゃないですか」
「あれは部活とは無関係の話だよ。ただの趣味みたいなもんだ」
「趣味? 趣味って……。あれだけ用意周到な不意打ちして相手骨折させるのが趣味なんですか?」
段々と熱くなる鉄華の語気に対して、泥蓮は肩肘をついて失望のような表情すら見せていた。
「それはただの結果だ。正面からぶつかれば私に勝ち目がないのは明白。だから工夫をした。その結果弱い方が怪我をした」
「故意にあのレベルの怪我をさせれば剣道なら反則負けですよ」
剣道では打突部以外への攻撃で試合続行不可能な怪我を負わせると強制退場になることを鉄華は指摘する。
真面目に剣道で立ち会った相手に無法で返したことになる。
鉄華は泥蓮の技術を認めてはいるが、何故そこまでしなければならないのかが分からない。
その核心をはぐらかされ続けているのが苛立つ。
「何が一本だか知らんが、最後に立っている方が勝ちだろ。『竹刀道』の芸術点に付き合ってたらキリがないからな。誰が見ても理解できる勝敗を付けただけだ」
一巴はもはや鉄華にも伝わるレベルの身振り手振りで(煽りすぎっすよ! デレ姉ストップ! スト―ップ!)と信号を送るが、彼女たちの言い争いを止めることはできなかった。
「竹刀道? もしかして剣道のこと指しているんですか?」
「そうだよ。竹刀競技にだけ特化した現代剣道は剣の道を名乗るのもおこがましい。だから竹刀道。相応しい名だと思わないか?」
「……馬鹿にしてるんですか?」
「してるよ」
そして訪れた静寂は重く、光を閉じ込めて周囲の光景を歪めるように渦巻き始めていた。
自分では止められないことを確信した一巴は(あ、これもう駄目なやつだ…)と一歩下がり逃走の準備を始める。
「悔しいか? ならどうする? 私と戦ってみるか? 丁度剣道部が新しい道場を建てたらしい。一度使ってみたかったんだよ」
大きく首を回して泥蓮は挑発を続ける。
「ええ、構いませんよ。あなたこそ不意打ちしなくても大丈夫なんですか?」
鉄華は指の骨を鳴らしながら握り拳を作って挑発に応えた。
「ああいいぞ。『真っ当な勝負なら勝っていた』と言い訳され続けても見苦しいしな」
「そんなことしませんよ。剣でも槍でも鎖鎌でも好きなだけ卑劣な古流とやらを披露してくださって結構ですよ」
「そうか。気を使って貰って悪いな。ならルールは竹刀道だがお前は私から一本でも取れたら勝ちでいいよ」
「へぇ、随分余裕ですね。じゃあ私が負けたらこの潰れかけの部活に入部してあげてもいいですよ。何だか困ってるんでしょ? 人望なさそうですし」
「それは助かる。バカそうだから騙すのは簡単だと思っていたが、そっちの方が楽でいいな。お礼に万が一にでも私が負けることがあったら『何でも一つ』言うことを聞いてやろう」
「いいんですか? そんなバカ丸出しの条件出してしまっても。もう撤回できないですよ?」
「構わんよ、」
泥蓮は少しの間を置いて、寂しげに、自嘲気味に続きを声に出した。
「お前程度に負けるようでは、私は生きている意味がない」
その表情を見た鉄華は、彼女を見誤っていた事に気付いた。
剣技の比べ合いに於いては小枩原泥蓮は命を懸ける。
相手の大小、ルールや武器の違いに関わらず命を懸けるのだ。
それに気付いてしまったが、もう遅い。
火蓋は切って落とされてしまった。
準備不足だからと待ってくれるわけもなく、今ここで泥蓮の覚悟に追い付かなければ春旗鉄華に勝利はない。
鉄華は今、捨てたはずの剣道の、自分が歩いてきた道の、本当の意味での最後の区切りを迎えようとしていた。