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どろとてつ  作者: ニノフミ
第十一話
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【臆病】①




 時節は残暑を迎え、蝉時雨は燃え尽きる寸前の蝋燭の如く猛狂い、地を這う蟻は蝉たちが落ちてくる瞬間を待ち侘びるように遠い空を見上げていた。


 鉄華は蟻でいたいと思った。

 働き蟻の二割は何の労働もしていないニートになるという。

 同じように何もせず、努力で得られる苦しみも喜びもかなぐり捨てて、暇であることが辛いなどと宣う怠け者になりたいと思った。

 命に薪を焚べて、周囲も焼き尽くすような生き方などしたくない。


「立て」


 不玉の声が無情に響き渡った。


 床に投げ出されると脳が休息状態に入ろうとする。

 一度そうなると体の隅々の疲労感が現実以上のものとして感じられ、起き上がる気力ごと捻じ伏せられてしまう。


 これは人間が持つ性質だと鉄華は分かっている。

 それでも能動的に立ち向かう苦痛を短時間で何度も強いられるのは想像以上に辛かった。


「甘えるな。早う立って構えろ」


 合宿の最終試験は不玉に一撃入れるという単純明快なものであったが、毎回達成できないまま時間切れを迎え、今日でかれこれ四日目になる。

 鉄華は人間と戦っている気がしなかった。


 疲れてしまうとつい剣道の動きに頼ってしまうが、不玉には一切通じない。

 慣れ親しんだ小手面のコンビネーションですら打ち切る前に体当たりを捩じ込まれ封殺されてしまう。

 至近距離になるともはや何をされているかも分からないまま投げ倒される。


 落岩のような体当たり。着衣を掴んでのコントロール、投げ。両足とも掬われるローキック。

 更に合離自在な運足、勁草(ケイソウ)

 あれ程粘りを上げる稽古を積んだのに打突の芯を取ることも出来ない。

 しかも不玉はそれ程までに圧倒的な実力差を見せつけながらも構える木刀からの剣技は使わず、終始柔術技での攻防に徹している。

 手加減されているのか、大会に向けたトレーニングなのかは分からないが、鉄華は強くなった実感を得る間もなく心を挫かれ続けていた。


 ――どうすれば一撃を入れられるのか?


 命題の解を導くように鉄壁を崩すイメージを毎晩のように練ってきたが、実戦はシミュレーション通りに行かなかった。

 ルールや技に制限が無い分、剣道よりも想定する状況が複雑過ぎる。

 同じ技を打とうとも毎回同じ受け方をしてくれるとは限らず、詰将棋のような理詰めの準備は先入観となって行動を制限しているようにすら思えた。

 相手の意図を読み、こちらの意図を押し付けるにはあまりにも経験が足りない。


 鉄華は自然と呼吸を刻み、脳に充分な酸素を送り込んで中段に構えた。

 たとえどれだけ不正解を出そうとも、考える他に道はない。

 持ち時間一秒の早指し将棋のような攻防であるにも関わらず、不玉が偶然の一撃を許さないことは身を持って知っている。


 速く深く思考する最初の段階で、突進技ばかりになる剣道では駄目だと結論付けた。

 運足の起こりは必ず見破られ、体当たりのぶつけ合いになってしまうと勝ち目はないからだ。


 八相の構えからの合撃(がっし)打ちも練度が足りない。

 何度も打ち倒された今の体力で粘り勝つのは不可能だろう。


 鍔迫り合いの距離はもはや死地と言ってもいい。

 至近距離の柔術技に抗う術を鉄華は持っていない。




 道場内に静けさが広がる。

 呼吸が整い、集中力が戻ったのを確認した鉄華は、中段構えを解いて体の右下に木刀を休ませた。


 無構え。


 距離の有利がある対柔術戦ならば構えから意図を読ませない方が重要だと考えた。

 不玉が剣技を使わないという前提に甘えることになるが、彼女に打突を触れさせるならば演技力ですら総動員する必要がある。

 大会を柔術で制さなければならない不玉のプライドを煽る構えで相対した。


「ふふふ、愛い奴じゃ。その誘い、乗ってやろうぞ」


 不玉は不敵に笑うと木刀を道場の隅に投げ捨てて、義手を前に、右手は顎の横に据えて半身で構えた。

 手は拳を固めるでもなく開くでもない中間の握りで攻防に備えている。


 鉄華の額に浮かぶ汗が冷や汗となって顔を伝っていく。

 初めて見る一叢流の構えに思考が錯綜するが、イメージを払拭すべく呼吸を潜めた。


 ――やることは変わらない。


 未知の技と戦うというのはごく当たり前の事だ。

 それに勝つ為の合宿であったことを思い出して心の居着きを抑え込む。

 気力を振り絞る鉄華の顎先から一滴の汗水が落ち、床で飛沫を上げると同時に、不玉から動いた。


 勁草。


 これまでとは比較にならない速度で間合いが縮まる。

 木刀を捨てて攻めに転じた不玉の本気の勁草は、本来なら対応できる速度ではない。

 だが、鉄華もほぼ同時に勁草による後退を開始していた。


 的確な読みは速度を凌駕する。


 柔術技が間合いを詰めようとするのは必定。

 攻防になれば複雑な選択肢を持つ柔術だが、木刀を捨てた状態の初動に於ける選択肢はそれほど多くはない。

 鉄華は読み切った歓喜を抑え込み、無構えから真っ直ぐに正中線を駆け昇る、会心の斬り上げを放つ。

 円軌道の切っ先が不玉の顎に到達し、――そして、擦り抜けた。


 それが膝の抜き(・・)を使った更なる沈身だと気付いた時には、もはや彼我の間合いは柔術の圏内にあった。


 避けられた剣尖が宙を泳ぐ最中、鉄華は読みの甘さよりも不玉の反射神経に驚嘆する。

 高速移動しながらも打突を目視し、慣性を無視したように姿勢を変えている。

 冬川でもここまで出来るとは思えない。


 がら空きになった鉄華の胴を目掛けて拳が迫り来る。

 辿る軌道は肝臓部への左鉤突き。

 その威力を知っていた鉄華の内臓が、打撃の到達よりも先に収縮を始めていた。


 ――これを喰らえばもう起き上がれない。


 木刀から手を放して肘で塞げば防御は間に合うが、その選択肢だけはあり得ないと脳信号が堰き止められる。

 鉤突きを防いだとしても武器を離した時点で防戦一方になって終わることを知っているからだ。

 何度も打ち倒された体が思考を無視して反射的に動いた。


 振り上げた腕を急速に引き戻し、脇腹に迫る義手の上に木刀の柄を振り下ろす。

 

「ああッ!!」


 無意識に叫び声が漏れ、脇腹に数ミリほど触れていた鉤突きを下方に弾いた。


 ――間に合った!


 しかし成功の余韻に浸る間もなく、不玉は叩き降ろされた手を鉄華の膝に伸ばして次の動作へと移行している。

 柔術の間合い。

 こちらの意図が通じなくなる死地。

 床の上に投げ出されるイメージが脳裏を過る。

 至近距離の読み合いだけは拒絶しなければならない。


 鉄華は引き戻した木刀の峰に右手を添え、踏鳴で強く床を叩いた。


 華窮。


 刃を盾に体重を前方に投げ出し、押し切るように体当たりを放つ――

 ――が、体重を乗せ切る前に視界がぐるんと回転し、投げ出された中空でその技を視認していた。


 片手で掴む木刀の柄に不玉の両手が掛けられている。

 武器を手放さない覚悟を逆手に取るように、木刀の操作で手首を捻ってバランスを崩し、その後は掬うように足を払う投げ技であった。


 両手で握っていれば耐えられたのに、と少し後悔しながら――鉄華は床に落ちていった。




 もはや声も出せない。

 全身の細胞がもう起き上がれないと嘆いている。

 明日以降、今と同じことをやれと言われても不可能なくらいの全力を出せたのに、あまりに容易く対処された事実に心も体も音を上げてしまう。


 不玉は浴衣の襟と裾を正し、腰に手を当てて少しの間何かを思案した後、息も絶え絶えに寝そべっている鉄華に近づいた。

 そして笑みを浮かべて見下ろしながら優しく告げる。


「やれば出来るではないか。合格じゃ」

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………え?」

「ご・う・か・く、じゃ」


 半ば自暴自棄になっていた鉄華は不玉が何を言っているのか理解できなかったが、呼吸で少しずつ定かになる脳が言葉の意味を検証し始めた。

 

 ――合格?


 不玉が判を押す以上、お零れや哀れみではない。

 一体いつ一撃入れることが出来たのか分からず、ただ困惑の視線を返すことしか出来ないでいた。


「気付いとらんのか? 最後の突進、儂の肩口に届いておったぞ。真剣ならばいくらか斬られておったろうな」


 言われて気付いた僅かな手応えを思い返し、鉄華は感情が昂ぶっていくのを感じる。

 加速の途中で止められたと思っていた突進は不玉の反射速度を越えていたのか、或いは虚を突く連携であったのか、思いがけずも課題を達成していたのであった。

 勁草と華窮という教わった術理を駆使して、触れる程度ではあるがようやく訪れた小さな勝利を実感し始めていた。


「明後日には始業式と聞いておる。何とかギリギリ間に合ったようじゃな。おめでとうと言っておこうかの」

「あ、……ありがとうございました」


 不玉の称賛の言葉は、興奮で叫び出しそうになっていた鉄華の胸懐に水を差した。

 夏休みが全て修行で費やされたという現実が津波のように重く伸し掛かり、喜びの熱を奪って引いていく。


 おおよそ女子高生が過ごす休暇とは言い難く、武術家を目指しているという非現実を周囲に喧伝する程には開き直れそうもない。

 西織曜子とは二ヶ月間会っていないが、こんな有り様を見て何を言うか想像したくもなかった。


「さて、これにて合宿は終わりじゃ……が、お前には大会でセコンドを務めてもらう借りがあったの。ここは一つ手土産をやろうではないか」


 鉄華の葛藤をよそに、不玉は目の前で拳を固めて指骨を鳴らす。

 鍛錬の結晶ともいえる表皮が張り詰め、肉の中から鉄塊が浮き出るように前腕が形を変えた。

 疲労困憊の体をなんとか起こしていた鉄華は、キャリア三十年を超える武術家の冷々たる闘気に気付いて青ざめていく。


「本来の順番を飛ばしてしまうが、最後に五節【荊棘(ケイキョク)】の内から有用な技を授ける。学業が再開しても日々精進せいよ」




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