【ドイツ流剣術:アルフォンソ・カルダーノ】③
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――赤い。
足元には血溜まりが出来ている。
我に返ったアルフォンソは膝から崩れ落ちた。
狼のものなのか自分のものなのかも分からない頬への返り血をシャツの肩口で拭う。
視線を落とすと、目の前に横たわる二匹の狼の内、前足を斬られただけの方はまだ生きていた。
残った上腕の断面を地面に擦り付け、藻掻くように体躯を引き摺りながら少しずつ近づいてきている。
金色の瞳は怨嗟で曇っているように見えた。
恐らくは殺された仲間の仇の為、命を賭して前進している。
――まだやるのか?
呼吸が苦しい。
いくら吸っても酸素が足りない。
感情が制御できず、恐怖とも歓喜ともいえない笑みが口端から漏れた。
「ハ、ハッ、ハハ、ハハハ」
いつの間にか木枯らしは止み、夜の静謐の中で獣の吐息と人の笑い声だけが響いている。
狼は地面を噛んでバランスを取ると後ろ足だけで立ち上がり、月に向かって大きく遠吠えを上げた。
自らの命運を悟った狼は恐怖心と逃走本能に打ち勝ち、目の前の人間だけでも屠ろうという執念で立ち上がって咆哮する。
アルフォンソは急速に喉が乾くのを感じていた。
粘膜が張り付いて声が出せない。
下半身は痺れて失禁し、手は震えてナイフを握る力が篭もらない。
殺されると思った。
狼が下顎を降ろし今まさに飛び掛かろうとするその瞬間、――ボルトアクションの銃声が響いた。
音より一足早く届いた鈍色の銃弾は灰色の毛に覆われた左喉に吸い込まれ、右喉を破裂させて抜け出ていく。
見開かれていた金色の瞳は焦点を失って虚ろになり、抜け殻になった体躯がふらりと血溜まりの中に倒れていった。
「アル、無事か?」
兄、エンリコが小走りに木陰から現れてアルフォンソの肩を支えた。
続いて父親ドミニクが音も無く現れ、周囲を警戒しながら息子たちに近づくと、血溜まりの上で震えるアルフォンソの顔を覗き込んだ。
「はぁ、はぁ、と、父さん。兄さん。……俺はやれたのか?」
その言葉にエンリコとドミニクは暫し顔を向き合わせ、それから周囲を見渡した。
捨てられた散弾銃、血塗れの手に掴まれたブッシュナイフ、狼に刻まれた切創。
観察を終えたドミニクは大まかに状況を理解して、感嘆の声を上げた。
「やれたかって? あぁ、そうだとも。お前は狼と張り合える程の剣士になったようだな」
父の誇らしげな笑みにようやく安堵を覚えたアルフォンソは、生き延びた感涙を目尻に溜め始めた。
それを慰める父の大きく強い手がゆっくりと差し出され、――アルフォンソの胸倉を掴んで乱暴に引き起こした。
「だがなアル、お前は最後に過ちを犯した。分かるな?」
年輪の合間から覗く碧眼の双眸が叱責と共に向けられ、出かかった嗚咽が喉元で止められる。
過去と未来を写す鏡のように親子は沈黙の中で対峙する。
アルフォンソは再度降りてきた理性で体の震えを止め、折れかかった心を支え直した。
――あぁ、これは教訓だ。
幼き頃の記憶が蘇る。
今の戦いの最後に在ったのは度し難い油断と侮辱だ。
父の眼光は言葉以上にその意味を伝えていた。
「この夜を忘れるな。この誇り高い獣の最後を焼き付けろ。それが出来ればお前は本当の意味で最強の剣士だ」
ドミニクはそう言い終えると少し笑い、称えるでも慰めるでもなくアルフォンソの肩にを軽く叩いてからエンリコを引き連れて家屋へと入っていった。
残されたアルフォンソは父の背中を眺め、それから黄金に光る月を睨んだ。
先程まで零れそうだった涙は湧き上がる熱で乾燥し、蘇った四肢の力は生まれ変わったように疲労を消し飛ばしていた。
ずっと見てきた強靭無比にして不撓不屈の背中、その精神は体の内に宿っている。
遠い昔に、既に貰っていたそれを今は掌握し、自在にコントロールできる。
教わった全てがひと繋がりに意味を成し、既知でいて新しくもある剣理を紡いでいく。
ワイルドハントの宿命を乗り越えた剣術家、アルフォソ・カルダーノが完成した瞬間であった。