【ドイツ流剣術:アルフォンソ・カルダーノ】②
◆
夢の冒頭は過去の記憶であった。
十二歳のアルフォンソ少年はその日、牛舎で夜を過ごしていた。
屠殺を待つ高齢の牛に対して、戯れに投石して遊んでいたことを父に咎められたからだ。
後にも先にも父が暴力を交えて怒ったのはその時だけである。
現代の屠殺は生きたまま逆さに吊るして解体するようなものではなく、専用施設に持ち込み急速冷凍庫で凍らせてから機械で解体するという至ってシステマティックな工程を辿る。
それでもその儀式は神聖で厳かなものでなければならないと父は言う。
食事をするということは、生きるということは残酷なことなのだと理解し、畏敬の念を払わなければならない。
父は死を待つ牛を侮辱したアルフォンソを何度も殴りつけ、終いには牛舎に閉じ込めて、そこで一晩過ごせと命令した。
時節は十二月。
アルプス越えの地方風であるミストラルが平野部の気温を摂氏一度まで下げ、牛舎の床面は張り付くような冷たさで覆われている。
積み上げられた藁の間に入っても耐えられる寒さではなかった。
生命の危機を感じたアルフォンソは牛舎の柵を越え、身を寄せ合って眠る牛たちに混ざることでどうにか暖を確保したが、腫れ上がった顔を刺す冷気でとても眠ることなどできなかった。
父への恐怖と、牛たちへの罪悪感で涙が止まらない。
生命の冒涜は許されないことだと道徳的に理解しながらも、遊びに没頭し教訓を思い出せなかった自分を恥じていた。
星明かりすらない夜空は牧場一面に深い闇を落とし、生命の気配すら覆い隠すように漂っていた。
時折、落ち葉を舞い上げて駆け抜ける木枯らしが牛舎全体を軋ませ、風鳴りの合間にはカチャカチャと小さく甲高い音がリズムよく鳴っている。
最初は納屋の農具が風で揺れている音だと思っていたが、どうやら違う事にアルフォンソは気付いた。
甲高い音は牧草地帯を越えた、森の方から聞こえてくるものだ。
徐々に近づいて来ている。
やがて低い音がリズムに加わり、それは即座に馬の蹄音だと分かった。
音から察するに恐らくは馬に乗った集団がこの牧場に向かって来ている。
日も変わろうかという夜半、こんな山際の放牧地を尋ねる者などあるのだろうかと怪しんだアルフォンソは、手持ちのライトを持って窓際から森の方角を照らしてみるが、闇の濃度に対して明かりが足らず何も見えない。
それを何とか確認しようと闇で目を洗うように瞬きを繰り返していたところ、ふと風が途切れ、雲間から橙に輝く満月が現れて地上を照らした。
――無数の人影。
冬の風を掻き分けて牧草地を進む彼らは一様に黒く煤けた外套を身に纏い、手には千差万別の得物が光っている。
狩猟団だ。
その数は定かではないが、星のように煌めく刃から数百に及ぶ大集団であることが伺えた。
彼らの従える猟犬が狼のように遠吠えを上げると、集団は歩を止めて整列した。
先頭に立つのは一際大きな八本足の馬。
騎乗している男の手には赤熱に光る槍が握られていた。
畜舎の中からその光景を眺めていたアルフォンソは、足が竦んで逃げることも出来ずにいた。
百メートルほど離れた位置にいる男の眼光が真っ直ぐ向けられていることを感じ取り、恐怖で呼吸すら止まりそうになっている。
そして男の持つ槍が振り払うように投擲されると、赤く輝く軌跡が森を抜け、牧草地を越え、闇を裂いて一直線にアルフォンソの心臓を貫いた。
◆
ボルトアクションの一際大きな銃声が闇夜に響き、続いて数発の軽い銃声が続く。
狼との交戦が始まったようだ。
アルフォンソは我に返り、引き金に掛かる指から力を抜いた。
恐怖で手が震えている。
「……クソッ」
思わず呻くような呟きが漏れ、奥歯を噛み締めていた。
ヨーロッパ各地に伝わる古い伝承にワイルドハントと呼ばれるものがある。
大抵の場合それは死者で構成される伝説の狩猟団の事を指し、彼らを率いるのは死神や精霊、はたまたオーディンともアーサー王とも言われているが、共通するのはワイルドハントを目撃した者には死が訪れるという不吉の前兆として知られている点である。
アルフォンソは深呼吸してから論理的な思考で不安を消そうと試みた。
史学を専攻する中で、各地の伝承を学んだ時の記憶が関係しているのかもしれない。
久々の帰郷、ワイルドハントの夢、狼の襲撃、と偶々重なったタイミングに吉兆を感じるのは馬鹿げている。
父ドミニクの初撃は群れのリーダーを確実に射殺するのを知っている。
実際のところ発砲した時点でほぼ勝負は決し、狼は散り散りに森へと逃げ出すしかないのだ。
事実、最初の発砲から続く銃声はない。
今頃は狼の死体と羊の被害を確認している頃だろう。
呼気と共に引き金から手を放し、緊張を解いていく。
先入観がもたらす杞憂でしかないと自分に言い聞かせ、恐怖で震えていたことを嘲笑うように鼻を鳴らすと、呼応したかのように一陣の風が吹き抜けた。
――瞬間、大腿部に刺すような痛みが走る。
それがぶつかってきた衝撃でアルフォンソは家屋の壁に叩きつけられ、反射的に発砲してしまう。
爆ぜる銃声が顔の真横で響き渡り、何もない夜空に向けて散弾がばら撒かれる。
そしてもう一発。
二発目は闇の中を駆け抜ける何かに向けて発砲したが、無理な体勢からの射撃はまたも空振りに終わった。
それでも大きな銃声で相手の動きを止めることには成功していた。
狼。
体長は一メートル程の大柄で、最悪なことに二匹いる。
リーダーを失って逃げる最中に群れから逸れてしまったつがいであろうか。
灰色の毛並みから覗く瞳は、家屋から漏れる明かりで縮瞳を起こして金色に輝いていた。
それぞれ動きを止めてこちらを見ていたが、立ち止まるということは逃げずに戦う気でいるということだ。
背後の屋内には母親がいる。
アルフォンソは逃げる訳にはいかない。
せめて銃声を聞いた父と兄が駆け付けるまで、遮蔽物の無い庭先で時間を稼ぐ必要がある。
噛まれた左足が問題なく動かせることを確認したアルフォンソは、ルパラのリロードを諦めて投げ捨てると、代わりに腰からブッシュナイフを抜き放ち数歩歩み出た。
二匹の狼は左右に分かれてアルフォンソを取り囲むように弧を描いて歩き始める。
人間相手に戦い慣れている。
彼らにとって一番の脅威は銃であり、それを手放した人間はもはや恐れる対象ではない。
白兵戦が人間にとっての最後の悪足掻きであることを理解している。
アルフォンソは死地に於いて、急速に思考が回転するのを感じている。
不思議と恐怖心は無くなり、震えも完全に治まっていた。
剣道の大会でもいざ勝負の瞬間が訪れると、不気味なほど落ち着いている自分がいたことを思い出している。
コントロールは出来ないが闘争を感じると身体の生理的反応を抑え込むほどの理性が降りてきて、冷静なもう一人の自分が論理的な最適行動を検証し始める。
それが自身の強みであることを理解していた。
刺し違える覚悟で倒せるのは一匹まで。
噛みつかれようと服の上からならある程度耐えられる。刺し返して終わりだ。
しかし二匹ならどうだろう。
狼は相手が羊だろうと山羊だろうと牛だろうと人だろうと、首が弱点であることをちゃんと知っている。
一匹を刺している間に頸部を狙われれば勝機はない。
刺突ではなく斬撃はどうだろうか。
ブッシュナイフは父から借りたもので手入れもよく行き届いているが、野生動物の毛並みは自然の中で鍛え上げられた強度がある。
上手く刃が通るのは手足か顔面だけだと考えた方がいい。
人間真理を参考に野生動物の行動を読むことはできない。
動き回る狼の小手か面を狙うということは、その瞬間だけでも反射速度で凌駕しなければならないということだ。
やれるやれないの話ではない。
やらなくては自分が死に、母も死ぬ。
アルフォンソは勝手に体が動くのに身を委ねる。
記憶の奥にある術理が引き出され、握る山刀の先端が地に付くほどに低く構えていた。
愚者の構え。
――これでいい。これでなくてはならない。
無意識の行動を追認するように、下段構えの有利に気付いた。
剣道ではほぼ使う機会のない下段構えだが、真剣勝負での下段は迂闊に近付くことが出来ない脅威となる。
視野は広がり、振り返ればそのまま脇構えへと移行できる多対一に適した構えだ。
狼と言えど足元から立ち昇る刃先を見切ることは容易ではなく、ある種の膠着状態を生む。
アルフォンソは下段の刃先を一方へと向けながら振り向いて、風下にいるもう一方の狼へと踏み込んだ。
構えは自然と脇構えになり、虚を突かれて飛び上がった狼の前足に向けて右腰から横一文字に斬撃を放つ。
弧の斬撃。
抜き放たれた刃はスルリと擦り抜けるように狼の両前足を切断した。
空中でバランスを崩した狼の顎が悪足掻きで一噛み跳ねたが、それはアルフォンソの右額を掠めて通り過ぎていく。
線を描いて迸る血飛沫を見ながら、ナイフを剃刀のように研ぎ込んでいた父の仕事に感動し、これならばどの部位でも毛皮ごと切断できるという確信を得た。
打ち倒した狼が地に落ちる音よりも先に、背後から風切り音が迫る。
アルフォンソは今しがた一閃した勢いを止めることなく、その場で一回転するように背後に弧の斬撃を伸ばす。
――が、ブッシュナイフの柄と狼の奥歯がぶつかって斬撃が止められた。
予想以上の速さで接近されていたようだ。
金の双眸が既に眼前に迫まり、獣の息遣いが鼻孔を通り抜ける。
それは一秒にも満たない鍔迫り合い。
先に動いたのは狼の方だった。
首を捻り、ナイフを握る手を噛み千切ろうと下顎が微かに動く。
その起こりを捕らえたアルフォンソは押していた柄を瞬時に引き戻し、手首を返しながら十字の斬撃で反対の面を狙う。
渾身の力を乗せた刃が月光で煌めく軌跡を残して、狼の顔面を通り抜けていった。