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どろとてつ  作者: ニノフミ
第十話
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【ドイツ流剣術:アルフォンソ・カルダーノ】①




「リコはベレッタ、アルはルパラを持ってこい」


 父、ドミニク・カルダーノが布巾で口の周りを拭きながら言った。

 食卓に並ぶ皿の上には夕食のポレンタとサラミがまだ半分以上残っている。

 長男は既に席を立っていて、母も食べる手を止め、胸の前で十字を切って祈リ始めている。


 大学に進学した次男アルフォンソの帰郷と剣道大会での戦績を祝った質素な晩餐会は、外から響き渡る動物の鳴き声で中断された。


 アルフォンソは急いで部屋に戻ると、散らかったベッドの下にあった牛革のトランクから短い散弾銃を取り出す。

 銃身を切り詰めたソードオフ・ショットガンは発射直後から弾丸の拡散が始まるので、慣れていない者が腰に構えて発砲しても命中率は高い。

 彼が牧畜に従事するようになった十歳の誕生日に貰った物だ。

 近接戦闘での無類の強さと服の中に収まる携行性を両立させたこの銃器は、マフィアの抗争が激化したシチリア島で重宝されたという血塗られた歴史を持つ。


 しかし本来の使い方は「狼用(lupara)」である。


 アルフォンソが銃を抱えて居間に戻った時、長男のエンリコは単身自動式の散弾銃に弾を込め、ドミニクは年季の入ったボルト式ライフルのスコープを確認していた。


 再度、狼の遠吠えが宵闇を裂いた。

 かなりの数がいる。


 これは一家にとってはよくある光景、過去幾度となく体験してきた日常であった。




   ◆




 イタリア、ロンバルディア州の片田舎に住むカルダーノ一家は、二百頭の羊と三十頭の牛を飼いながら、牧草とトウモロコシとオリーブを育てる酪農を営んでいた。

 羊乳からペコリーノチーズとリコッタチーズを作り、週末になると都市部に出向いて一軒ずつ行商に回ることで生計を立てている。

 EU圏の関税撤廃で中小酪農は徐々に苦しくなっているが、品質の維持に拘った甲斐あって今だに一キロあたり十二ユーロという、スーパーに並ぶ安物の倍近いで値段で売れるのが一家の誇りであった。


 日に三回の牛舎掃除と餌やり、二回の搾乳とチーズ作り、作物の手入れと収穫。それがの一家の毎日である。

 幼少期から続く永遠に思える労働の毎日は、エンリコ、アルフォンソ兄弟の忍耐力を太く頑強に育て上げていた。


 やがてアルフォンソは寮制の大学に進学して永遠の日々から解放されるが、それでも彼の培った忍耐力が損なわれることはなかった。

 決して裕福ではない暮らしの中、なんとか自分を学校に通わせるよう尽力してくれた父。

 酪農に家事にと日々の糧と家族の生活を支えてくれていた母。

 学業を次男に譲って、若くして家業を継いでくれた兄。

 都市部の何不自由のない現代的な生活の中でも、決して薄れるとこのない家族への感謝と尊敬が彼を支え続けていたからだ。


 剣道を始めたきっかけは、牧畜の合間に父親から教わった剣術である。


 ドイツ流剣術。


 十四世紀、神聖ローマ帝国時代の剣術家ヨハンネス・リヒテナウアーを開祖とする歴史ある剣術である。

 両手剣の扱いを旨とする技術体系は、構えと間の柔剛という至って実戦的な概念を持ち、基礎から奥義への段階という他者へ伝える為の基本も踏襲している。


 奇しくも日本では武家社会から戦国の世への変遷の最中、日本剣術の三大源流と呼ばれる「念流、神道流、陰流」が誕生した時代に、遠く離れた地球の裏側でも同じく剣技を突き詰めた武術が誕生していたことがアルフォンソにはどこか誇らしく思えた。

 父親はドイツ流剣術を祖父に教わり、祖父は大戦時にドイツの友人から教わったと聞く。

 アルフォンソは暇さえあればオリーブの枝を加工した木刀を手に、日が暮れるまで素振りをして少年時代を過ごしていた。


 大学で所属する研究室の教授の勧めで始めた剣道は、自らの強さを確認したくなった彼にとって格好の場であった。

 剣道のルールの範囲でドイツ流剣術を落とし込み、有用性を証明することで父への恩返しになるような気がした。


 その結果、始めて一年後には欧州大会優勝、世界大会では二位という戦績を残すに至る。


 アルフォンソに不満はない。

 決勝で戦った千葉という男の練度は並外れたものであったが、所詮は剣道家でしかなく蹴りや投げが入る隙はいくらでもあった。

 一族が受け継ぐ技が決して虚仮威しではないと証明できた事実は、一族の中で分かち合えればそれでいい。

 この戦績を以てして恩返しとし、今まさに満を持しての帰郷だと心躍らせていた。


 だがその喜びの時間は、狼の襲撃で引き裂かれることになった。




   ◆




 羊の様子を確認しに行く父と兄を見送ったアルフォンソは、万が一の場合に備えて家の軒先で待機していた。一番若い次男が家と母を守るのはいつものことであった。狩猟は専ら父と兄の領分である。


 アルフォンソが構えるルパラの装弾数は二発、例え灰色熊が相手でも殺せる威力ではあるが相手は狼の群れ。

 念の為、予備弾を収めた弾帯と刃渡り四十センチのブッシュナイフも腰に下げていた。


『脆弱で惰弱な人間が自然相手に驕ってはいけない』


 ドイツ流剣術を教えてくれた時に父が言った言葉だ。

 剣道では欧州最強の座を手にしているアルフォンソだが、野生の獣を想定した戦いでは剣道も剣術も役に立たないことは十分理解していた。

 剣術が対人間術でしかないの対し、獣たちはその身一つであらゆる苦難を跳ね除けて生きる闘争の日常にいる。

 筋力も視力も反応速度も警戒心も、全てにおいて人間を凌駕し、もしも弾を撃ち尽くす事態になればひとたまりもなく殺されてしまうだろう。


 しかし、同時に自然と共に生きる父の強さにも絶大な信頼を置いていた。

 狼の群れだろうとものともしない鋼鉄の意思と強さ。

 アルプス山脈に根付く、泰然自若なる不動の存在。

 それがドミニク・カルダーノであることを知っている。

 負けるわけがない。


 ――負けるわけがない、が……。


 アルフォンソは昨日見た夢の内容を払拭できないでいた。

 脳裏にこびり付いた光景が、何度も再生され続けている。




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