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どろとてつ  作者: ニノフミ
第九話
35/224

【撃剣】⑥

 ■■■




 能登原との邂逅の後、鉄華はひたすらに立ち木打ちを続けていた。

 左右の袈裟斬りがリズムよく音を立てている。

 打突部が少しずつ削れていき、いずれは摺り切れて立ち木を折ることが出来ると泥蓮は言う。

 二時間程続けた手の内は、潰れたマメを覆っていたテーピングが裂けてまた出血をし始めていたが、構わず袈裟を振り下ろす。

 汗を吸い込んでいた下着も限界を超えて足元に水溜りを作っていた。


 ――問題ない。

 痛みも腕の重みも当たり前のことだと受け入れれば身体は動く。動けばいい。

 内側から込み上げる感情の発露を袈裟斬りに置き換えるように打ち続けていた。


「そろそろ夕食じゃ。切り上げて風呂に入ってこい」


 食事の準備を整えた不玉が背後から声を掛けるが鉄華の動作は止まらない。


「バカ娘と忍者娘はどこ行きおった?」

「分かりません」

「そうか」


 もう戻ってくることはないと鉄華には分かっていた。

 事情が変わっている。

 一叢流の原点に戻ることも鉄華を仮想敵として育てることも時間切れだと言わんが如く、いつの間にか二人して姿を消していた。

 大会に向けた調整と情報収集に移っているのであろう。

 弱い鉄華だけが蚊帳の外にいる。

 焦りと悔しさで体を動かさずにはいられない。


 矢継ぎ早に振り下ろされる袈裟斬りを、不玉は鉄華の手首を掴んで止める。


「やりすぎじゃ馬鹿者。未練未酌や焦燥を乗せて振るなと教えたじゃろ。実戦で振る時に感情が紐付いて居着いてしまうぞ」


 血に染まる鉄華の手から木刀がするりと滑り落ちて石畳を打った。


「私は……どうしてこんなに弱いんでしょうか。あんなに剣道やってたのに全然相手にされなくて……」

「千の道も一歩からじゃ。無理してショートカットなぞしても碌な事にならんぞよ」

「……分かってますよ。そんなこと」


 感情が抑えられない。

 教え方の問題ではないと分かっているのに、八つ当たりしてしまいそうになる。


 不玉は傍にあった大きめの庭石に腰掛けながら、呆れたように話を始めた。


「……有象は生前、病を抜きにすれば儂と対等以上の強さじゃった」


 泥連の兄の話だ。

 その顛末を鉄華も知っているという前提での話である。


「死ぬ間際にな、一度儂の対手で構えさせてみたのじゃが、あやつは紛れもなく古流の深奥に到達しておったのじゃ」

「……深奥……ですか」

「多くの流派には共通する精神的な理念があっての、それは水月の位などと呼ばれておる」


 手持ち無沙汰だったのか不玉は草履の爪先で小石を蹴り上げて手に持つと、庭の水溜りに向けて放り投げた。


「水面に映る月を斬ることは叶わぬ。いくら水しぶきを上げようとも、いずれ静まり元に戻る。掬ってみてもそこに実体はない。それに習って、状況に合わせて自己を水のように変化させろという心構えよ。先入観や居着きを捨てた無意識の中で、心を一体化させるように相手の動きに従う――その境地にいる手合いには誘いや晦ましといったあらゆる意図が通じず、どんな技もただ柔らかく強かに受け流されるのじゃ」


 戦いの最中で心を鎮めるというある種の矛盾は禅問答のような響きがある。

 体捌きや心の置き方を水に例えることは古流のみならず幾つかの現代格闘技にもあることを鉄華は知っていた。


「儂がその瞬間を垣間見たのは二度、一度目は親父の死に際、二度目は有象の死に際よ。あれは『術』ではなく『道』の方じゃな。習得過程を理論にして説明できる技とは違う。その手の体験を古流特有の脚色だと嘲笑う連中もいるが、確かに存在するものじゃ。有象は命を賭した猛稽古の果てに、未来予知に等しい対応力を身に着けておった」


 体験的ではない技術体系には懐疑的であった鉄華だが、不玉が在るというのなら在るのだろうと思い直した。

 虚偽や虚勢で見栄を張るような人物ではない。


「しかし十八の子供が命を投げ捨ててまでそのような境地に辿り着くのは正道ではない。本来ゆっくりと時間を掛けて経験的に悟るものじゃろうて。……儂は流派を重んじるあまり母親という道を踏み外しておったのやも知れぬ」


 有象を殺したのは他ならぬ自分だと不玉は言っている。恐らくずっと後悔し続けている。

 不玉はもう一叢流を受け継がせる気もなければ、戦いに備えて鍛錬を続ける気もないのだ。

 なのに親子共々死闘の場に引き摺り出された今の状況はあまりにも悲しい結果だと言わざるを得ない。


 古流の積み重ねた歴史がそのまま流派のプライドとなり、受け継いだ個人に重く伸し掛かることがある。

 その結果有象は負けた自分を恥じ、命よりも強さを欲した。

 今は泥蓮までもが有象と同じ道を歩み始めている。

 まるで呪いのように同じ末路が口を開けて待っているように鉄華には思えた。


「まぁ心配せずともよい。不幸中の幸いか篠咲が用意したのは表舞台の大会、少なくとも試合中に死者を出すわけにはいかんじゃろう。興行自体が中止になる恐れがあるからの。それに加えて、忍者娘も買収しておるしの。まぁ妥当な落とし所よ」


 深刻に考える必要などないと不玉は楽観的に笑ってみせた。


「買収? 一巴先輩をですか?」

「衰枯を教える条件でな、勝負が見えたらすぐにタオルを投げろと指示してある。儂に抜かりはない」


 そんな交渉の時間はあったのだろうかと思い返した鉄華は、今日よりもっと前からの仕込みだという事に気付いた。

 不玉は篠咲の動向も、使いの来訪も、親子共に参加させられる状況も、全て事前にある程度予測していたのだ。

 その上で一巴が欲しがっている情報を餌にして懐柔し、二人して泥蓮のセコンドが一巴になるように演じて進めていたのだ。


「……そういうことですか。予想通り(・・・・)能登原さんが来た時点で私は用済みになってたんですね」

「まぁそう言うてやるな。あの忍者娘も中々に面倒な人生を歩んでおるのは察してやれ」


 衰枯を探るミッションも失くなったとあれば、いよいよ鉄華に出来ることなど何も無い。

 強くなることのみに集中できるようになったのに、どこか心寂しい。

 こんな瞬間瞬間の思いですら居着きだとするのなら、究極的には機械のように感情を失うのが目標なのであろうかと思えてしまう。


「不玉さんはどうするんですか? あんな大会、本気で出る気ですか?」

「まぁ約束した以上違える気はない。面倒じゃがな、幾許ながら(たぎ)るものがあるのは否定できんよ」


 面倒だと言いつつもその目からは意志の強さが感じられる。

 それが古流を存分に使える嬉しさなのか、篠咲への復讐心なのか鉄華には分からないが、昔日の不玉とは明らかに違う存在感を放っていた。


 ――どこまで行っても武術家はその業からは逃れられない。

 鉄華は思う。

 自分も武術家になろうとしているのだと。

 きっと理由などなくても強くなりたいのは変わらない。

 今は他者を想う暇などなく、何を利用してでも強くならなければならないのだ。


「……献立はなんですか?」

「うむ。今日は儂特製の激辛カレーとプロテインコロッケじゃ。カプサイシンとイソフラボンのコンボは美容にも効果的じゃぞ」


 気付けば日も暮れ、宗彭山は闇に包まれている。

 今頃、泥蓮と一巴は何をしているのであろうか。

 篠咲は何を企み、冬川はこの先どうするのだろうか。


 誰もが死闘の賽が投げられる音を聞き、個々の思惑を乗せて動き始めた一日であった。

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