【撃剣】③
***
「戸草先生、繋がりました」
「おう、ありがとう」
師の頼みで大型のテレビを設置し終えた門弟の荒川彦一は、リモコンを渡しながら各ボタンの説明を交えていた。
「悪いな。山奥の隠遁生活が長くてこの手のことはサッパリなんだ。助かったよ」
「いえ、何時でもお声掛けください」
彦一は返礼とばかりに出されたお茶に一口をつけると、師の視線を伺った。
画面に釘付けになっている。
「先生。まだ三十分以上ありますよ」
「ん、あぁ、なんだ、こういうCM眺めるのも久しぶりで楽しいよ」
時刻は十四時を回り、洗剤や調味料といった主婦層向けの宣伝が立て続けに流れている。
楽しい、と口にしたものの戸草仁礼の眼には研ぎ澄まされた殺気が篭っている。
全てはもうじき画面に現れる何かに向けられていた。
彦一にとっての師は仁礼であり、更にその上にいる長波遠地は逸話や伝説の中の人物である。
実際に会ったことは三度、声を掛けて貰ったのは一度しかない。
彦一自身がそうであったように、仁礼もまた師に救われて薬丸自顕流を始めたと聞いているが、晩年の長波師は淫蕩にふける堕落者そのもので、訃報を聞いても思うことは何もなかった。
しかし、長波の死を期に戸草仁礼は変わってしまったように感じる。
表面的な部分は何も変わっていないが、中に潜む剣気は得体の知れない狂気を孕んでいる。
『熊ではない。人の仕業だ』
長波の死後、門弟の前で死因を語る仁礼は憔悴しきっていた。
剣戟による切創であることは検察も認め、まず最初に疑われたのは仁礼自身であったからだ。
仁礼を疑う門弟など一人もいなかったが、第一発見者という名目で行われた連日の詰問にはこたえるものがあったのであろう。
不精に生える髭もそのまま、抜け殻のように立ち尽くしていた。
それから幾年かの時が流れ、転機を与えたのは一通の書簡であった。
覚えのない差出人名を見た仁礼は、その場に居合わせた彦一に広告の類かと聞いてみた。
『そいつは確か、元旦に剣道の千葉を倒した女ですよ。なんでも東郷の方の示現使いだとか』
――示現流の、女?
何かが引っかかった仁礼は捨てるつもりであった封筒を開けて中を確認すると、聞いたこともない大会の招待状と簡素な手紙が入っていて、手紙には手書きで日時とテレビのチャンネルのみが書かれていた。
怪文書のような方法で連絡を取るのは、余程の筆ベタななのか、印象を重視した広告の手法なのか、或いは何かの挑発なのか――。
「先生、時間です」
「ああ」
茶菓子を頬張りながら彦一が告げる。
我に返った仁礼が改めてテレビの画面を睨むと、壇上の女に幾つものマイクが向けられ記者会見が始まろうとしていた。
――間違いない。
変わらない顔貌は呼び水のように仁礼と彦一の記憶を喚起した。
あの日、長波の横にいた和服姿の女だ。
入門したいと長波に近づき、姿を消して数年後、示現の技で千葉を降している。
これから何を謳うのか。
今や全ての疑念は繋がりを得て確信へと至っていた。
長波遠地を斬ったのはこの女、篠咲鍵理だ。
「……彦一。俺に何かあった時は、あとを頼んだぞ」
彦一の湯呑みを掴む手が力んだ。
先行きの無い人生から正しい道に導いてくれた師が今、怨嗟に塗れた殺意を滲ませている。
しかし一方で、同じ状況なら自身も同じ選択をするであろうと一定の理解も持っていた。
「わかりました。心置きなくお斬りください」
例え誘い出された場であろうとも仁礼は勝利を確信している。そして彦一も例外ではない。
懸念があるとすれば女を斬り殺した後の社会的な立ち位置だ。
たとえ競技中の事故でも世間の目は厳しいものになる。
その時は荒川彦一が流派を継ぎ、戸草仁礼を即座に破門しろというのが仁礼の頼みであった。
「それでもできるだけのことはやりますので、先生も簡単に剣を捨てないでください」
「……わかったよ」
弟子の気遣いを察した仁礼は、長波のようになれそうもない自分を恥じた。
もはや尊敬されるべくもなく、誰かを救う価値もない。
憤怒の殺意は精神を刀身そのものへと叩き上げ、抜いた刃先の落ちる場所を求めて彷徨うのであった。
***
「違う違う。もっと、キェエエエエエ~~! って叫ぶんだよ」
「……ちょっと恥ずかしいんですけど」
午後から庭で立ち木打ちを始めた鉄華に泥蓮の激が飛ぶ。
垂直に立てた灌木に左右の袈裟を連続で叩き込む示現流の稽古は剣の粘りを上げる一助にはなるが、流派特有の猿叫だけはどうにも慣れないでいた。
「恥ずかしいってなんだよ! 剣道でも叫ぶだろ? 浮世絵ぇええ! って。シャウト効果だよ、シャウト効果」
「否定はしませんけど素振りでやるのはなんかリズムも狂うんですよ。デレ姉だってそんな叫んでやってないじゃないですか」
「私か? 私は『呼吸法のが大事派』だからな。お前は面白そうだから猿叫派で行け」
「今、面白そうって言いましたよね」
ただでさえローラースケートを履いた状態の鉄華はバランスを保つので精一杯であり、叫びによる力みや意識した呼吸法に捕らわれるだけで転倒してしまう恐れがある。
泥蓮の口元に笑みが浮かんでいるのを見た鉄華は「呼吸法の方が大事派」で行くことにした。
――か、そもそも戦闘時に使える呼吸法などあるのかという疑問が浮かぶ。
「呼吸法ってどんなのがあるんですか?」
「どんなのつってもなぁ、こう、小刻みに息をする感じだ」
「……」
泥蓮はハッハッハッハッと犬のように息をしてみせた。
もしかしたら呼吸法だけでなく立ち木打ちもローラースケートも馬鹿にされているだけなのではないかという、一抹の不安が鉄華の胸中を過ぎる。
「短い呼吸を刻むのは大事っすよ。戦闘時は出来るだけ沢山の酸素を取り込む必要があるんで腹式で大きく吸って吐いてをするんですけど、緊張してたり、動き回って疲れてたり、攻撃喰らったりして余裕が無い時は短い呼吸を連続で行うっす。ロシアの格闘技システマではバースト・ブリージングと言われてるっすね」
やり取りを見かねた一巴が口を挟む。
泥蓮が感覚だけで体験的に技を習得していることも、鉄華が実例を挙げて説明しないと納得しないことも理解していた。
「他だと二重息吹という忍術の呼吸法もあるっす。吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吸う、吸う、吐くという複雑なリズムを意識することで集中力を上げる効果もあるっすよ」
鉄華が祖父から教わった深く息を吐き切る「息吹」は休息の呼吸法であり、戦いの最中で使うのは自殺行為に等しい。
二重息吹を使うまでには至らないが、通常の呼吸の中で小刻みの呼吸を混ぜることは戦闘のリズムに同調させやすく、より実戦向きだと鉄華は納得した。
さっそく呼吸を刻むことを意識して立ち木打ちを再開する。
放つ袈裟斬りは渾身の力を込めて。
斜め軌道の斬撃は立ち木に弾かれて表皮を滑り落ちていくが、頭の中では最後まで切断するイメージで。
左右交互の袈裟を矢継ぎ早に振り下ろすリズムの中で短い呼吸を混ぜる。
全音符が二分音符、四分音符、八分音符と分かれていくように可変的に刻む。
――なんだ。簡単だ。
恐らくきっと、今までも無意識にやっていたことを意識して使いこなしているだけだと鉄華は感覚で理解する。
古流を習い始めてからの日々は、自分の知らない自分の機能を発見して操る喜びで溢れている。
この感覚の延長線上に泥蓮がいるのならば追いつく日もそう遠くない話だ――と思った矢先、視界が反転した。
「ぎゅんっ」
バク転に失敗したような体勢で地面に頭を打ち付けた鉄華は、予期せぬ衝撃で自然と声が漏れていた。
呼吸の変化で起こった力みの体重移動にローラースケートが付いていけず転倒してしまったのだ。
「ギャハハハ! 『ぎゅん』てなんだよ! どっから出た声だよそれ!!」
「だ、大丈夫っすか鉄華ちゃん」
鉄華は調子に乗りすぎた羞恥心と、無遠慮に嘲笑う泥蓮への怒りで泣きそうになっていた。
地面に倒れながら薄く滲む視界の隅で、泥蓮と一巴以外の影を捉えている。
女性のシルエットだ。
黒のスーツとスカート、黒髪のショートボブが揺れながら横切っていく。
石畳に響くヒールの音で泥蓮たちも女に気付いて振り向いた。
視線に気付いた女は軽く会釈してからまた進んでいき、やがて家屋のチャイムを鳴らして中に入っていった。
不玉の客であろうか。
「新聞屋には見えんが……宗教か?」
「いやいや、いくらなんでも失礼っすよ。不玉さんにも知り合いくらいいるんじゃないっすか」
「引き篭もりババアだぞ? まさかネトゲのオフ会をウチでやる気じゃないだろうな」
泥蓮も一巴も知らない様子であったが、不思議と鉄華は女の顔には見覚えがあった。
「……ん~、あの人どっかで見たことあるような気がするんですけど、どこだったか……」
「もう一回くらい頭打てば思い出せるだろ。ほら立てよ」
覚束ない足取りでなんとか立ち上がった鉄華は内股でバランスを取りながら、靄がかる記憶を掻き分けていく。
大人の女性。
母親でも富士子先生でもない。
友人には存在しない。
テレビに疎いので見知った有名人という線もない。
残るのは剣道関係者。
女性指導者に知り合いは居なく、一度直接会って話した篠咲でもない。
まぁいいか、とローラースケートでの立ち木打ちを再開しようと八相で構えた時、急に記憶の欠片を掬い上げることができた。
「思い出しました。剣道の能登原さんですよ。全日本女子で二位の人です」