【撃剣】①
その女は右手の親指だけマニキュアを付けていない。
爪を噛む癖があるからだ。
幼稚な悪癖ではあるが、多くの場面で幾度となく救われてきた経験則が習慣化に拍車をかけ、今ではそれが一種の自己催眠であると納得していた。
爪を噛んでいるとどうしようもなく気分が昂る。
苛立ちも不安も緊張感も全て消え失せ、過去にこの爪を剥がした相手のことを思い出して吐息が漏れる。
献身と純愛に身を焦がされる。
公然の場での自慰行為に等しい背徳感が身を包み、せめぎ合う羞耻心で感情をコントロールする。
与えられるだけの人生に於いて、自分の力で手に入れた数少ないオリジナル。自分だけのスイッチ。
女子剣道界で二位の能登原英梨子は、ホテルのスイートルームで今も爪を噛んでいた。
「はしたないぞ、英梨子」
グラスを差し出しながら篠咲が咎める。
シャンパンだ。
あの篠咲鍵理が珍しく高揚しているのを能登原は感じ取っていた。
「なんだか上手くいきすぎね。不安だわ」
グラスを受け取りながら能登原は胸中を晒す。
「国外に持ち出す事も考えていたが、思いのほか遊び心のある方だったよ、総理は」
実際、国内のことであれば融通が効く。
掛かる経費も、関わる人材も、大抵のことは掌握できる。
行動の拠点にしているこのホテルも能登原自身の持ち物だ。
だが、独立した自我や信念で動く者は時に予想できない裏切りを見せることを知っていた。
「……念の為、私が寝ておこうかしら?」
「やめておけ。これ以上何かを差し出すのは警戒を深めるだけだ」
「……」
「『一度きりだ』と警告されたよ。恐らく死者も出る。回を重ねれば倫理的問題を回避できず、やがて形骸化することも分かっているのだろう」
能登原は「そう」と呟いて嘆息した。
法を振りかざす堅物でもなければ、落ちている金を見過ごす間抜けでもない。
「あなたがそれでいいのなら私は従うだけよ」
「ああ、一度で充分だ」
「でも競技化にどれだけ苦労したかは分かって欲しいわね。用心に過ぎるということはないわ」
「いつも感謝してるよ」
「どういたしまして」
薄暗闇の中、照明で照らされた一角にあるソファーの下で二人は身を寄せて座った。
背後には円卓の騎士トリスタンの悲愛を描いた絵画が掲げられている。
「愛してるわ、鍵理」
「私もだ」
軽く唇が触れ合う。
少し離した間、視線と呼気が熱を帯び二度目は深く情熱的に絡め合った。
――あぁ、これは偽物だ。
篠咲にとってはただの手段、所詮は都合のいい女だと分かっている。
視線の先にあるものは別の時間軸の他の誰かなのかもしれない。
それでも構わず肌を重ねる。
先に信頼を差し出すことで信頼される資格を得たように、愛も同じプロセスを辿る。
献身はいつか鏡の照り返しのように愛を届けてくれるはずだ。
この想いを忘れないように、二度と疑わないように、あとで左の親指も爪を剥がそう――
そう思う能登原であった。
***
山篭りの最終日、鉄華は不思議な体験をした。
草原に寝転がっている。
何時間そうしていたのか分からないが、ただ呆然と夜空を仰ぎ見ていた。
手の皮は裂けていて、リンパ液が流れ尽くした後に滲み出した血が肘まで伝っている。
木刀代わりに手頃な枝を握っていたはずだが見当たらない。
血で滑って草原の何処かに飛んでいったのであろうか。
数時間、一心に素振りを続けた疲弊の波が押し寄せる。
暗闇への恐怖が、筋肉の痛みが、空腹が、喉の渇きが、体内を駆け巡る。
情報過多になった脳は麻痺したように落ち着いていた。
思考が単純になっていく。
経験という表皮が剥がされ、自我という実が削ぎ落とされ、自分も知らない心底に根付く種子が露わになったようだ。
目の前には暗闇があり、暗闇とは宇宙のことだ。
此方の地平から彼方の深淵へとどこまでも続く無限。
煌めく星々も、それを見ている鉄華も無限の中に在り、質量の大小に関わらず全ての点と点の間は無限の宇宙で繋がっている。
素粒子、原子、分子、細胞、人、星、太陽系、銀河へと幾つもの宇宙を超えて最終的に帰結していく広大無辺な何かを想像した時、個人の執着など素粒子以下の何の意味もない粒に思えた。
そんな矮小な粒に囚われて悩み、妬み、悲観することのなんと滑稽なことか。
幾重も訪れる選択の瞬間に未練を残さず、結果を受け入れて、受け流して笑って生きていけばいいのだ。
人とは絶大な時の流れに揺られ、刹那で消えゆく憐れな存在でしかないのだから。
■■■
午前四時。
鉄華は僅かな物音を察知し、夢から覚めた。
山篭りで感覚が研ぎ澄まされていることもあってか、戸板の擦れる音にすら敏感になっている。
道場で川の字になって寝ていた古武術部の面々であるが、今は泥蓮の姿が見当たらない。
トイレだろうか? と考えながら寝返りを打つと、闇の中で目を見開く一巴と目が合った。
「ひぃ」
「おはようっす。鉄華ちゃん」
「お、おはようございます」
鉄華で気付くことなら木南一巴が気付かないはずもない。
ひと足先に目を覚ましていた忍者と横になりながら早めの挨拶を交わした。
「気になるっすか? デレ姉のこと」
「え、ええ、まぁ」
「庭にいるから見に行こっか」
一巴はそう言うと布団を払い除けて立ち上がり、丁寧に三段折りで畳み始めたので鉄華もそれに続いた。
夏とはいえ山頂の朝はやけに冷える。
寝具があるだけ山篭りに比べればマシに思えるが、それでも中々慣れないのは冷暖房が当たり前の暮らしをしている現代人の弱みなのか。
鉄華は不意に込み上げてきたくしゃみで鼻を鳴らした。
道場の庭に面する戸板は堅牢で大きな作りであったが、蝋でよく滑らせてあり予想以上に軽い力でスルスルと開いた。
まだ月が見える。
敷き詰められた黒い玉砂利が月光を反射して、昼間と同じくらい明るく庭を照らしている。
その中心の石畳の上に一人、三メートルの槍を中段で構える泥蓮がいた。
左肩を前にして構えた中段が動き、次の瞬間にはしっかりを腕を伸ばした上段突きの終点で止まる。
そしてまた中段に構え直し、突く。
動作に崩れはなく、淀みもなく、寸分違わず同じ道筋を同じ角度で何度も往復する。
家屋の縁側に移動して腰を下ろした鉄華と一巴に気付いても構わず、ひたすらに繰り返す。
鉄華は眠気が吹き飛んでいた。
あの泥蓮が素振りをしている。個人鍛錬をしている。
強さを求めるのであればごく当たり前の光景ではあるが、泥蓮が稽古をしている姿を初めて目撃した鉄華は衝撃を抑えられない。
「日課らしいっすよ。ああやって七キロはある鉄槍で数突きを三千回。普段は朝早く学校に来てやってるみたいっす」
何気なく過ごしていた日常の裏側で積み重ねていたのは、真剣の数倍重い鉄槍を用いた鍛錬であった。
それを機械のように正確無比に突き続ける「数突き」。
――勝ち目はあるのだろうか?
何度も繰り返されてきた疑問が浮かぶ。
武器術は筋力や体格だけで決まるものではないが、体格以外で勝っているものが何も無い現状、一叢流を齧ったくらいで彼我の差が覆るのだろうか?
「距離によって棒術や柔術を使っても、基本は『如何に突くか』に集約されるのが槍術っす。だからああして基礎の鍛錬だけは怠らないらしいっすよ。本来なら一本歯の高下駄を履いてやるものだとか」
「詳しいんですね」
「ほとんど不玉さんに聞いた話だから興味あるのなら槍術のことも聞いてみたら……あー、でも一叢流の歴史を聞くのだけはNGっす。無駄に長い設定持ってやがりますから」
「……聞かされたんですか?」
「正座でたっぷり三時間は。もうね、地獄っす。足の痺れが頭に回ってきて朦朧としながらの完走っすよ」
講義の一時間、それが不玉に話を聞ける限度である。
強くなること以外の知識で消費する訳にはいかない。
とはいえ、泥蓮の使う技を理解しておかないと対策すら立てられないのは事実であり、一叢流の歴史を知ることがヒントにならないとは限らない。
「興味あるっすか?」
「ええ、多少は」
一巴は満面の笑みを浮かべ「あー、では、こほん」と一息を置いてから続けた。
「日本の兵法書を紐解くと必ず出てくるのが【六韜三略】という中国の書物です。これは平安時代、遣唐使で大江維時が日本に持ち帰ったされており、兵法だけでなく兵站や武術についても網羅されていたと言われています。しかし大衆が知るには刺激が強い内容とのことで、以降大江家の家伝として秘密裏に保管され続けました。ちなみに大江維時は【闘戦経】という兵法書も書き記しています。そして後の子孫、大江時房が六韜三略を解読しようと試みます。時房は大外記という学のある官職に就いていた中原師直に協力を依頼するんですが、この師直こそが鬼一法眼その人です。師直は大外記の他にも武術に精通し京八流という剣術流派を興しています。彼は六韜三略に記された武術と、それまで日本にあった武術『手乞』などを組み合わせて新しい柔術流派に纏め上げました。それが大江流、後の一叢流です。しかし大江家は書家歌人の家柄。扱える者などいるわけもなく、広めるにも甲冑を着込んで戦争する時代の柔術流派なんて誰も見向きもしません。大江流は日の目を見ることなくまた倉の奥で眠ることになりました。さてさて、更に時は流れて南北朝時代、三木一草と呼ばれた四人の武将が一人、楠木正成は金剛山の麓で大江家の子孫から闘戦経を学ぶことになるのですが……」
聞かなければよかったと鉄華が後悔し始めた頃、タイミング良く泥蓮が割って入ってきた。
「ぶつぶつうるせえよ。邪魔すんなよ。気が散るだろ」
言葉を止めた一巴の様子を見るや、一筋の光明とばかりに鉄華は泥蓮の方に向き直って、話題の転換を図る。
「数突きはもういいんですか?」
「後でやるからいい。その時にお前用の素振り法も一緒に教える。ババアが教えるペースじゃ不満だろ? とりあえず軽く走るから付いてこいよ」
「今からですか?」
「そうだよ。部長命令だ。イッパ、テメエもだぞ」
「えぇ……どこまで走るんっすか?」
「軽くだよ。山降りて登るだけだ」
「……割りと重いっすね」
渋々了承した一巴とは対象的に、元々ランニングと素振りを日課としていた鉄華は快諾した。
これでようやく陸の孤島から日常に帰ってきたという実感すら湧いてくる。
しかし心の何処かでは、もう手が届かない極限状態の瞬間を思い出して、郷愁にも似た懐かしい寂しさを感じるのであった。