【邂逅】②
◆
「ルール?」
「そうそう、『勧誘行為は各部活動に定められたブースエリア内でのみ行うこと』だってさ」
曜子がパンフレットを読みながら先導し、それを後ろから覗き込むように鉄華が追随していた。
午後からの部活動見学会は自由行動であり、新入生は自主的に目当ての部活を見て回る形になる。
「文化部は各部室、運動部は校庭や体育館が割り当てられているみたい。『尚、エリアを越えた勧誘が確認された場合は、風紀委員が介入し厳罰を科す』って書いてあるよ、なにこれ」
「新入生向けの資料に書くってことは、迷惑なら通報しろってことじゃないのかな」
「あ~、きっと昔はひどかったってことなんだろうな。こう、キャバクラみたいな感じでさ」
それは好都合だと、鉄華は思った。
午後になって教室を出た時、剣道着を来た人間が視界の隅に映ったが明らかに自分を見ていた。
曜子に無理を言って迂回しながら文化部棟に来た時点で逃げ切れたようなものだ。
彼女たちが罰則で縛られているのなら、無駄な問答の心配もない。
中学時代にボコった先輩方の一人でも剣道部に居れば悪評を広めてくれていたであろうが、どうもそう上手くは行かなかったようだと鉄華は心の中で舌打ちする。
足を引っ張るばかりで、肝心な時に機能しない。
「で、どこから行く? 鉄華ちゃんはもう決めてたりするの?」
「全然決めてないよ。曜子は?」
「私はねー、漫研か文芸部かな。あ、でも落研も興味あるし調理部なんかも一石二鳥な感じが良いよね。軽音部や吹奏楽もかっこいいし…」
「ぜ、全部回ろっか?」
「えへへ、ごめんね。私ファミレスとか行っても全然注文決められなくてさ。なんか迷っちゃうのが楽しいんだよね~。結果ドリンバーとサラダバーにして全種類食べちゃうみたいな」
「あ~分かるかも」
久方ぶりに平凡なガールズトークを出来ている実感を楽しみつつも、周囲への警戒を怠らない鉄華であった。
◆
「部長、大変です! ターゲットは文化部棟に向かったようです!」
「……?」
剣道部室でティータイムを楽しんでいた最上歌月は言葉を失った。
思考が錯綜しカップを持つ手が震える。
「だ、大丈夫ですか? モゲ姉」
「モゲ姉様、紅茶が溢れてしまいます」
「落ち着いて下さいモゲ姉」
自失状態から回復した歌月は心配する後輩たちを睨みつけた。
「その下品な呼び方を止めなさいと言ったわよね……?」
「す、す、すみませんでした!」
一呼吸置き、歌月は改めて鉄華の行動を推察する。
メンタル面での弱さが見て取れる。
予想していなかったわけではないが、他の運動部にすら入るつもりが無いのであればもはや話にならない。
強いフィジカルでどこまで登り詰めようとも所詮は十五歳の子供でしかないのだろう。
狭い社会の同調圧力には勝てなかったのだ。
彼女専用の設備とトレーニングメニューを用意した上で根気よく説得すれば籠絡できると思い込んでいたが、それらは全て無駄に終わるかも知れない。
ならばもう春旗鉄華を剣道部に誘う必要ないのであろうか?
否。
歌月は彼女の事情など知ったことではない。
同情はするが、個人の感情と部活の存続は別の問題だ。
扱い方を変えなければならないだけで、利用価値があること自体は変わらない。
今、春旗鉄華が必要としているのは理解者だ。
最上歌月こそが最大の理解者であることを示し、依存させてしまえばいい。
「……仕方ない。私が行くわ。あなた達は風紀委員の足止めをして頂戴」
「! 分かりました!」
自身の正義の為なら何でも利用する。
そうやって生きてきた。
歌月は初めから学内のルールなど守るつもりはなかった。
◆
調理室でスイーツを山程頬張りながら西織曜子は幸せの絶頂にいた。
「はぁあああ~おいひぃ~! 私ここに住んでもいいかも!」
「ねえ曜子、調理部ばかりだと他の部活見る時間なくなっちゃうよ? 全部見るんでしょ?」
「えぇ~、こんなに美味しいのにもったいないよぉ」
曜子はここが調理部であるということを忘れてしまっている。
見学会とは名ばかりの試食会が催され、見学者で溢れかえるほどの大盛況を見せているが、本来の趣旨である調理という体験を飛ばして餌付けというカードを切ってくるあたりに、何かこの調理部の闇を感じてしまう鉄華であった。
「ほら、甘いものばかりだと胃がもたれるしさ、茶道部にお茶しに行こうよ」
「お? それいいね! ちょっと休憩すればもっとスイーツ入りそうだしッ!」
このままだと曜子は調理部に入部する可能性が高い。
入退部に関しては自由だから、取り返しのつかない選択ではない。
それでも部員の空気や活動の趣旨くらいは入部前に確認するべきだ。
最悪な環境でも良好な関係の仲間がいれば耐えられる、と祖父が言っていたことを鉄華は思い出していた。
そして自身の体験からその逆が成立することも分かっていた。
しかし言葉にするのは難しい。
なんとか曜子を連れ出すことはできた鉄華だが、彼女を説得できないままでいた。
殆どの見学者を調理部に取られて文化部棟の廊下は閑散としていた。
「茶道部は上の階だね。向こうに階段があるから急ごうよ! 早くしないとお菓子なくなっちゃうぜ!」
そう言って曜子は小走りで急ぎ始めた。
その廊下の向こう側から、真っ直ぐに鉄華を見据えながら近づく一人の女がいた。
ブロンドの長髪をオールバックのポニーテールで纏めている。
鉄華ほどではないが百八十センチ程度の長身で、その歩みは正中線が振れていない。
お互いの顔が視認できる距離に迫った時、鉄華は少し嘆息し覚悟を決めた。
目付きで分かる。
こいつは回避できない。
「ねぇ曜子、悪いけど先に回っててくれる? 私ちょっと用事があるから」
「ん? あ、知り合いかな。分かったよ! 私は先にお茶してるね。ごゆっくりどうぞ~」
そう言うと曜子は金髪女の横を軽く会釈しながら通り抜けていった。
金髪女も笑顔でそれを見送るが、鉄華に向き直るとまた鋭く目を細める。
「春旗鉄華さんね。初めまして。私は剣道部部長の最上歌月ですわ」
そう名乗った女は腰に手を当てて首を軽く回す。
手入れの行き届いたポニーテールが艶やかに揺れて、髪の間から香水の甘い香りが漂ってきた。
「単刀直入に言うわ。あなた剣道部に入りなさい」
「嫌です。風紀委員呼びますよ」
「無駄よ」
「はい?」
歌月は大げさに両手を広げて溜め息を吐いた。
「そんなちっぽけなルールが何かを守るだなんて思わない方がいいわよ。平然と破り、裏をかく輩はどこにでもいるのだから」
目付きとは真逆で口元だけが笑っている。
嫌な感じだ。
この手の輩は思ってもいないことをペラペラと捲し立てる。
「まぁでも、そんなに警戒しないで欲しいわね。私はあなたの経歴は知っているのだから。スポーツ推薦を断ったこともね」
「なら放っておいてくださいよ」
「分かるわぁ。見ている先が違う人間に足を引っ張られるのはもう沢山、ってとこかしら? 最高の戦績を残したのに送別会にすら呼ばれないなんてお可哀想だこと」
「…………」
想像以上に調べられている事に鉄華は驚いた。
中学時代の剣道部員に聞いて回ったのだろうか。
「酷なことを言うけど、そういう周囲との噛み合わなさなんてよくあることなのよ。大小あれど誰でも通る道なの」
歌月は距離を詰めて鉄華の肩に手を置く。
その顔は先程までとは打って変わって、同情の念が滲み出ていた。
「そんな中でもあなたは運が良い方よ。剣道はどこまで行っても個人戦なのだから。例え団体戦であっても戦う時は一対一。弱者がどんなに妬もうと突出した才能を止めることはできない世界よ」
剣道の強さの差とはある種暴力の序列でもある。
鉄華への嫌がらせが直接的な妨害行為に発展しなかったのは、加害者側が鉄華を心底恐れていたからだ。
見方を変えれば鉄華に打ち倒された被害者の会でしかなかった。
歌月は調べ上げた断片的な情報を統合して、鉄華の置かれていた環境を正確に把握していた。
「周りの妬み嫉みが気になるというのなら、不純物のない最高の環境をあなたに用意するわ。だから黙って私に付いてきなさい」
鉄華は深く溜め息を吐いて、歌月の手を払い除けた。
「お断りします」
「ッ!? ちょっと、何でよ! 私がここまで誘っているのだから素直にハイと言いなさいよ!」
思い通りの返答が得られず、歌月はつい大声を上げてしまう。
その豹変に鉄華は少し驚きながらも笑みが溢れてしまった。
これが彼女の地の性格で、演技を最後まで続けることを放棄してしまったのだ。
歌月の推測は筋が通っているだけで、根底にある情報が足りていない。
「申し訳ないですけど最上さんは少し誤解してますよ。確かに環境に不満はありましたけど剣道を辞める理由は別にあります」
「……じゃあ何なのよ」
「飽きたんです」
「へ?」
「剣道そのものに飽きてしまったんですよ。だから説得なんて無意味です」
「……」
鉄華にしてみれば「飽きた」の三文字で済むようなものではなく、多くの葛藤の末の決断ではあったのだが、その歪さは人に話して理解を得るようなことではなかった。
「そんなの納得できないわよ!」
「納得しなくて結構です。私個人の問題ですから」
「うぐぅ! なんて生意気な娘なのかしら! 中学剣道ごときで日本一になったからといって天狗にならないで欲しいわね!」
「なってません」
歌月はもはや現れた時のような威厳はなく、興奮で赤面し涙目で駄々をこねる子供の様相を呈している。
面白そうだからもっと人気のある場所に移動しようと鉄華が歩を進めた時、隣接していた教室の扉がガラガラと古びた音を立てて開いた。
そこには、孫の手で背中を掻きながら大きく欠伸をする女が立っていた。
「おい、喧嘩なら他所でやれよ。営業妨害だぞ」
その顔貌と声に、鉄華は喫驚し動けなくなった。
女は切り揃えた前髪から覗く隈掛かった双眸で歌月を見据えている。
「うるさいわね。デレ子は寝てなさいよ。私の邪魔しないで」
「うるせえのはお前だろ。寝れねえんだよモゲ子」
「きぃいいい! モゲ子だなんて下品な呼び方を広めないでって言ったでしょう!! あなたが広めたせいで後輩にまでモゲ姉モゲ姉言われて迷惑してんのよ!!」
「それはよかったな」
女は歌月に髪の毛をクシャクシャにされながら笑っていた。
やがて、歩き出した姿勢のまま固まっている鉄華に視線を移す。
「ん? 何だお前。あれか? 『止まっているようで実は動いています』的な大道芸か? なぁ、あれ何が面白いんだ? 教えてくれよ」
女は現れた時と同じように興味なさげに鉄華を見ている。
一瞬で確信を得た鉄華だが、唐突過ぎて身体の動きを処理しきれていなかった。
「あ、あ、あなたは……」
言葉にならない。
浮かぶ感情が歓喜なのか、怨嗟なのかすら分からない。
「私か? 私は古武術部部長の小枩原だ。見学なら中入れよ。茶くらい出すぞ」
あの日の剣友会で一ノ瀬を倒し、鉄華の心中に古流という楔を打ち込んだ犯人は、思いも及ばないほど程身近に潜んでいた。