表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
どろとてつ  作者: ニノフミ
第八話
29/224

【薬丸自顕流:戸草 仁礼】③

   ■■■




 年月は流れ、三十歳になった仁礼は道場の師範代を務める程に成長を遂げていた。

 山と道場は既に長波から譲渡されているが、師と違って方々に顔が利くわけでもなく、現在は農業と僅かな講習料を暮らしの糧として道場に住み着くことで細々と暮らしている。

 そして空いた時間のほとんどを流派の修行に当ててきた。


 身体は筋力と気力に満ち、今が自身の最盛期であると自認している。

 極稀に現れる道場破りも仁礼の肉体を目の当たりにすると戦うことなく去っていく。

 ある種理想的な護身が完成していた。

 ひたすらに個人の強さを求めて生きてきた仁礼ではあるが、剣術の高を競う場は求めていない。

 今後は少しずつ社会貢献に参加していくことで、長波のように自分以外も助けられる人物になっていこうと決めていた。


 その日いつものように朝早くに起床し、水浴びと真剣の素振りで禊をしようと庭に出た仁礼は辺り一面にけたたましく鳴り渡る羽音に気付いた。

 かなりの数だ。


 薄暗がりの中、目を凝らした仁礼はその正体を見る。

 木立ちに実を付けるように留まるそれは、カラスであった。

 百羽近いカラスが鳴き声を上げずに、ただじっと仁礼の方を見ていた。


 普通ではない。

 野鹿でも死んだのであろうか。

 不思議に思いつつも直感的に警戒を深めた仁礼は、腰に下げた黒鞘から刀身を抜き放つ。

 意匠の乏しい無骨な造り、常より小さな鍔面、刀身と逆方向に反っている柄。

 実用性のみを重視した典型的な薩摩拵(さつまこしらえ)であった。

 百四十センチの長刀を蜻蛉で構える大男、その間合いは槍に匹敵する。

 数で勝るカラスとてその威圧感に竦み、容易に飛びかかることはできないだろう。


 ――死臭。

 血肉の腐る独特な匂いが風に乗って仁礼の鼻を突いた。

 風上に何かいる。


 構えを崩すことなくにじり寄るように庭を横切っていく最中、石畳の上に転がる日本刀を発見した。

 仁礼がそれを見間違うことはない。

 紛れもなく師、長波の愛刀「千鶴延兼(チヅルノブカネ)」であった。

 刀身は黒い血糊で汚れている。


 様々な感情が湧き上がったが仁礼は瞬時に抑え込んだ。

 蜻蛉で構える時は居着きを捨てる時。

 鍛錬で身体に刻み込まれた教訓が暗示のように働いた。


 暗さに目が慣れた仁礼は、農具を詰め込んだ納屋の隅に黒く蠢く何かを見つける。

 間合いは二十メートル。

 蠢く闇から光る双眸が現れ、視線を飛ばす仁礼と向き合う。


 熊だ。

 二メートル近いツキノワグマがゆっくりと巨体を持ち上げ、威嚇で大きく鼻息を吐き出した。

 その足元には今しがた貪っていた肉、長波遠地が横たわっている。


 激情で闇が朱く染まるのを感じた。

 それまでの過去、これからの未来、人生の全てを手放す程の憤怒が仁礼の内側を駆け巡り、弾き出された身体は一直線に熊へと向かう。


「おおおおおおおおぉ!!」


 絞り出される声は流儀の猿叫からは程遠く、威嚇のためのものでもない。

 吐き出す息が殺意の緊張でくぐもっただけの生理現象に近い。

 腰を低く落とした継ぎ足は陸上競技の三段跳びのような大きなステップで巨躯を弾ませ、打突点への収束へ向けて対数グラフの如く歩幅を狭めていく。


 迎え撃つ熊は逃げない。

 人など恐れるに足らないことを知っている。

 音を出す、身体を大きく見せる、突進するフリをする、逃走本能を擽る行動の全ては虚仮威しだと学習していた。

 ゆっくりと四肢を地に付けて、飛び出すタイミングを測る。


 ――刹那、

 昇日の灯を反射した剣尖が雷光の如く奔った。


 熊は目と鼻の先にいる仁礼と視線を交わしているが、動けない。

 伝達路を断たれたかのように手足が動かない。

 その状況を理解をするよりも先に頭部がスルリと断面を晒し、漏れ出た脳漿が地に滴った。


 雲耀(うんよう)


 それは落雷の如く速さが極まった打突である。

 示現流に於いて左の肘を固定して打つ術理「左肱切断(さひせつだん)」から生まれるものであるが、示現流よりも蜻蛉を高く掲げる薬丸自顕流には適応できない概念である。

 それでも仁礼は練り上げた身体能力だけで示現流に比肩する雲耀の領域に到達していた。

 人の身で出せる最高速度、最高威力の斬撃は目視すら叶わず、臨戦態勢のツキノワグマの頭部を袈裟に両断したのであった。




   ◆




 熊の巨体が倒れると同時に、仁礼の手の内から刀が零れ落ちた。

 今頃になって足が震える。

 恐怖心ではなく、認めたくない事実に足が震えた。


 ゆっくりと駆け寄り抱き上げた師は既に絶命し、青白い肌が陽光に照らされている。


 ――あり得ない。


 あの長波遠地が、最強の剣術家が、三メートルのヒグマを斬り伏せた男が、こんな小熊に遅れるを取るのか?

 愛刀を抜いて応戦して尚、敗れてしまう程に堕落し衰えていたのか?


 ――愛刀?


 仁礼の脳裏に疑問が浮かんだ。

 自分が刀を持っていたのは朝の習慣上のことで、不幸中の幸いとも言える偶然でしかない。野生の熊の襲撃もただの偶然だ。


 何故、長波が刀を持っていたのか。


 答えは長波自身に刻まれていた。

 左の肩口は熊に噛み荒らされていたが、よく見るとそこから心臓まで一直線に切り開かれている。

 明らかな刀による切断だ。

 熊は絶命した動物を見つけてその死肉を貪っていたに過ぎない。


 夜半、道場の敷地内で何者かと真剣で立ち会い、袈裟に斬られて死んだのだ。


 鎖骨と肋骨の断面は鮮やかとも言える平面で、真剣に慣れた者が刃筋を立てて斬りつけても中々こう見事にはいかない。

 ましてや相手は長波遠地である。

 薬丸自顕流を極めた達人の初太刀を躱す、もしくはそれよりも速く打ち込んだことになる。

 相当の手練であることが伺えた。

 道場の門弟たちの中でもこれ程の剣境に達している者はいない。


 考えられるとすれば他流派だろう。

 長年最強を謳い続けた長波に異を唱える者は少なからず存在する。

 これまではいずれも実力で排除してきたが、老齢による衰えを機と見て挑んだのであろうか。

 事もあろうに最盛期の戸草仁礼を無視して、隠居間際の師を狙うやり方に歯噛みした。


 ――こいつは強さが欲しいわけではなく、勝ったという事実が欲しいだけの臆病者だ。

 とうの昔に忘れていたはずの、身を焦がす感情が心底から込み上げてくる。


「……必ず見つけ出して、この手で殺してやる」


 仁礼は敬愛した師の亡骸を抱きしめながら、今頃山間を照らし始めた朝日を恨めしく睨み続けていたのであった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ