【薬丸自顕流:戸草 仁礼】②
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教師陣を交えた親同士の話し合いの結果、集団リンチは刑事事件にはならずに終息することになった。
学校側の隠蔽体質も一役買ったのであろう。
どちらが先に手を出したかが争点になっていたが、最終的には金のやり取りで一応の解決を見せた。
リーダー格である高校生の男、新島隆は裕福な家庭の生まれであり、親のコネで私学へ通う将来の約束された身でもあった。
そんな敷かれたレールへの些細な反抗。
資金力と饒舌さを活かして仲間を集め、いつしか地区でも有数の不良グループを形成していた。
毎日のように繰り返される、窃盗、恐喝、傷害、強盗、強姦。
彼の両親は、もはや我が子の暴走を止めることが出来ない状態であったと言う。
その日も新島は溜まり場で夜中まで騒いだ後、ウィスキーの瓶を抱えながら盗んだバイクで帰路へと着いていた。
風を切りながら愉悦に笑みが溢れる。
怖いものなど何もなく、普通の人間が一生を費やしても得られるか分からない程の悦楽を手に入れた気分であった。
全てが思い通りになる感覚に声を抑えられない。
我慢する必要はない、夜明けを告げる鐘のごとく大声で歌ってやろうと新島が息を吸い込んだ時、――突如、視界が宙に浮いた。
バイクから投げ出されて、前方へと飛び出している。
前輪のスポークに鉄パイプが差し込まれて転倒したのだと理解した直後、顔から路面に衝突して数メートル滑るように引き摺られた。
それでも意識はあった。
夥しい流血を確認できたがその殆どは鼻血で、奇跡的に首や目に怪我はなかった。
運が良いと一瞬ほくそ笑んだ後、燃えるような怒りで全身が震える。
こんな目に合わせた誰かを殺してやろうと身を起こすと同時に、口に何かが押し込まれた。
黒いスニーカーだ。
新島は時間が遅く流れている実感があった。
スニーカーが唇を裂き、前歯を圧し、無理矢理に口内を突き進むのを感じながら視線を上げると、そこにいた男、戸草仁礼と目が合う。
口元に捩じ込まれたトーキックは口蓋垂まで達した後、体重をかけて踏み抜かれ、外れた下顎から折れた歯が零れ落ちてアスファルトの上でカツカツと音を立てた。
新島は死を予感したが、震える足は意に反して反撃へと動く。
劣勢になった経験がないが故に暴力からの逃げ時、逃げ方が分からなかった。
躊躇無くポケットからバタフライナイフを取り出して仁礼の大腿部に刺し込もうと前進するが、その刃先が到達する前に頭部が砕ける音が響きわたり、進行方向が不覚になった。
視力を失った右目の上に冷たい何かが刺さっている。
肩に足を掛けて乱暴に引き抜かれたそれを左目で確認した。
それは工作の授業で使うような木製の柄が付いた小振りの金槌であった。
二撃目が迫る。
小さな面積に遠心力が乗ったそれは人骨など難なく砕いて刺さるのだろう。
もうナイフを握る力も湧かないが、新島は不思議と恐怖は感じてはいない。
誰だか知らないが、何故こんな理不尽を押し付けられる程に恨まれなければならないのであろうかという疑問しかなかった。
視界が暗転し、再び光を取り戻すことはなかった。
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二人目は同じく高校生で、空手有段者という武闘派の関屋浩一であった。
新島のバイクの事故を知らされてはいたが、関屋は見舞いに行くことなく普通に登校している。
興味はなかった。
祭り上げていた金払いの良いバカが自爆しただけで、むしろ仲間内でも死を喜ぶ人間の方が多いとすら思っていた。
こんな暴力だけの人生はいつか卒業しなければならないと理解していたが、新島の死はそのきっかけにもならない。
少年法の猶予までまだ数年ある。
ばらつき始めているグループをまとめるのは自分だという自負心すら抱いていた。
今後の振る舞いを思案する帰宅路の途中、道の向こうから近づいてくる影に気付いた。
夕闇の中で黒い身なり、目深に被ったフードから覗く目線。
関屋はそれが少し前にリンチしてやった中学生だと気付いてニヤついた。
ガタイは良いがおどおどしていて自信が感じられない、典型的な弱者側だと知っていたからだ。
周りは田畑に囲まれたあぜ道で人の気配もない。
何をしてもいい状況だと思った。
歩く速度を上げて近づいていく。
両手をポケットに入れたままで――。
――その様子を見た仁礼は先日の事件がまだ事故として処理されている事を察し、安堵の溜息を吐いた。
関屋がフードの下から覗き込んで何かを言おうとした刹那、仁礼は無警戒な相手の鼻に頭突きを埋め込んだ。
木の枝が折れるような音とともに大量の鼻血が噴出。
返り血が仁礼の額を染め上げるが目線は切らない。
関屋の両手がポケットから引き抜かれ顔を抑えにいくのを見取った仁礼は、爪先が刺さるように睾丸を蹴り上げる。
スニーカー越しでも潰れた感触が伝わってきた。
今度は股間を押さえて蹲るのが見えたので、髪をつかんで顔面に膝を叩き込む。
潰れた鼻が更に押し込まれ、漫画表現のように陥没しているのが見えた。
声ひとつ上げずに倒れていく関屋の襟を掴んで引き起こし、ラリアットの要領で振り回す豪快な大外狩りで宙に浮かせて、頭から地面に叩き落した。
それから馬乗りになり、記憶に残るようしっかりと目線を合わせて念入りに何度も殴りつける。
鼻を潰し、眼窩を折り、頬骨を砕き、顎を割り、耳を千切り、泣き叫んでいた男がやがて動かなくなったのを確認すると、近くの畑に投げ捨てる。
そして膝の汚れを払って、ゆっくり何事もなかったかのように帰って行った。
◆
襲撃は連日に及び、七人目が病院送りになった時、ようやく警察が事態に気付いた。
余罪の多い不良グループとして目を付けられていたが、他グループと揉めたわけでもないのに一人ずつ瀕死の重傷を負っていく怪事件として捜査の手が伸びた結果、八人目を組み伏せている仁礼を発見し確保するに至る。
抵抗することなく捕まった仁礼は述懐する。
自分がリンチされている時、誰も助けてはくれなかった。
その後、警察や学校が介入したが何も解決しなかった。
彼らとの戦いは終わらない。これからも延々と続いていく。
だから一人で勝てる方法を選んだだけだ、と淡々と語った。
全ては自衛の為である。
予測される未来を変えるために先に仕掛ける。
それを非難するのはいつも物事の渦中に居ない卑怯者だけだ。
意外にも被害者への賠償に応じたのは死亡した新島の両親であった。
仁礼の逮捕と共に不良グループの数々の余罪も明るみになり、それがワイドショーで報道されると誰もが少年の復讐劇に同情することになる。
新島一家は世間の非難に耐えきれず、息子の残した爪痕を補償した後は逃げるように転居していった。
それでも刑事罰自体は無くならない。
被害届の取り下げと世論、仁礼の事情を斟酌して下された判決は保護観察処分であった。
「坊主、剣術やらねえか?」
保護司の長波が言う。
「剣術家と戦うってことは命のやり取りだ。最強の剣術家の直弟子だと看板掲げりゃもう誰もおめえに手出ししねえよ。俺の元に来い。そんでおめえが俺くらい強くなったら同じように誰かを守ってやれ」
臆面もなく自らを最強だと名乗る男の眼光は、覇気を失い虚ろであった仁礼に向けられる。
ただの視線が熱を持ち、体の芯に火を付けたように感じた。
誰もが自分の立場ばかりを考えて関わろうとしなかった中、初めて説得力のある助けを提示してくれた大人の熱意だ。
――これほどの事件を起こした自分を見捨てず守ってくれる人間がいる。
仁礼は人目を憚らず号泣し、生まれて初めての握手であるかのように差し出された手を強く握り返していた。