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どろとてつ  作者: ニノフミ
第八話
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【薬丸自顕流:戸草 仁礼】①




 二メートルを超える巨躯の男が掲げているのは長さ百六十センチ、重さ二十キロの木刀であった。

 鹿島神傳直心影流に於いて「振棒」と呼ばれる素振り用の武具である。

 それを直心影流には存在しない高めの八相で構えていた。

 道着の袖ははち切れんばかりに膨れ上がり、支える肩と首は丸太のように太い。

 汗溜まりの中で体幹を固定する大きな足指は、巨木がしっかりと根を下ろすかの如く床板を掴んでいた。


 振棒が大きな弧を描いて左袈裟で振り下ろされると、巨大な質量に掻き分けられた空気が鈍い音を立てて道場内に風を起こした。

 男が息を止めると同時に袈裟は床板にすんでのところでピタリと止まり、そしてまた振り上げて次は右袈裟で振り下ろされる。

 振る音と息遣いをリズム良く繰り返す。

 着物の左右の襟に沿うように振り下ろされる「衣紋(えもん)振り」を千回。

 それが終わると、真横から左右交互に胴を薙ぐ「水平切り返し」を千回。

 いつも稽古初めに行われる準備運動であった。


 流儀と異なる素振り法はタイ捨流、現代剣道から取り入れたものだ。

 戸草(トグサ) 仁礼(ニレイ)は、不器用な自分が強くなるために巨躯の有利を伸ばすことを重視している。

 時には古流から離れた視点を持ち、科学的根拠に基づくウエイトトレーニングも惜しまず導入していた。


『何でもありなら千葉ではなく戸草だろう』


 異種戦、とりわけ実戦の議論ならば剣道家の千葉碩胤を差し置いて戸草仁礼の名が挙がる。

 プライドの高い古武術家の間でも海内無双と囁かれる程の男が世間で実績を残したのはたった一度、それも古流とは無関係の総合格闘技の舞台であった。

 仁礼にすればトレーニングの一環、素手の対応力を上げる目的でしかなかった総合でいきなりヘビー級のタイトルを獲ってしまったのだ。

 人材の層が薄い日本人ヘビー級の超新星として世間の期待が集まる中、仁礼はあっさりと引退を表明してタイトルを返上してしまった。


 仁礼は取材陣に語る。


「もし財産や尊厳、愛する者が危険に晒される瞬間が訪れたら法律なんて紙くずみたいなもんだろ。あんたらならどうする? 戦うだろ? 出来れば武器を持ってな。当然相手だって武器を持っている。本当の闘争というものは武器術だよ。現実的な強さを求めるのであれば、素手の上位の選択肢として武器術を修めなければならない」


 独自の美学を語った仁礼は表舞台を去り、披露する場もない古流を磨き続けていた。




   ◆




 素振りを終えた仁礼がユスの木の木刀に持ち替えて道場の庭へと出ると、複数人の甲高い掛け声が響き渡っていた。

 腰ほどの高さに束ねて積まれたユスの木に打ち込む稽古「横木打ち」に四名の門弟が励んでいる。

 山間に位置する道場は流派特有の猿叫と打ち込み音に配慮して建てられたものだ。


 かつての日本で薩摩隼人が振るう剣技は単純明快であった。

 高く掲げた八相の構え、「蜻蛉(トンボ)」からの袈裟斬りに全てを込める。

 示現流の理論を野太刀術に取り込み、初手の一撃に特化させた薬丸自顕流はその有用性を幕末の実戦の中で証明し続けた。


 技術体系は至ってシンプル。


 構えは左右の蜻蛉の二種。

 打ち込みは蜻蛉からの袈裟斬りである「(かか)り」、納刀状態からの抜刀「抜き」の二種。

 槍や薙刀、複数的を想定した打ち廻り技、いずれもが基礎の袈裟斬りに集約される応用技でしかない。


 稽古は敵に見立てた灌木への打ち込みに終止し、試合形式の組手は存在しない。

 防御ごと斬り裂く先制攻撃を旨とし、二の太刀は不要という考え方であるからだ。

 その独自の一撃必殺性には、武に生きる者でなくとも引きつけられる魅力が確かにある。


 横木打ちの稽古を行う門弟たちから少し離れた位置に師である長波(ナガナミ)遠地(トオチ)が立っていたが、その横に見慣れない和服姿の女が居ることに仁礼は気付く。

 視線が合った長波はニヤリと笑い「入門希望者だよ」と言った。


 また妙な客が現れた、と仁礼はウンザリしながら女を横目で眺めていた。

 数年周期でこういうことがある。

 伸び悩む剣道家が古流を訊ねるのは珍しくはないが、一方でドラマや小説等の創作物に影響を受けて勘違いした自惚れ屋や、行動力だけはあるミーハーな若者までもが門戸を叩きにくるのが問題だ。

 その手の輩で芯のある者はまず居ない。

 仁礼は女の出で立ちを見るなりその手の輩(・・・・・)に分類していた。


 和装の女は年の頃は二十歳前後、肌は陶器のように透き通り、――なにより美しかった。

 土臭く血生臭い実戦流派には縁の無い、どこかの金持ちの令嬢といった印象である。

 女を従える師の頬の綻びを見取った仁礼は、七十を迎える老齢にして未だ衰えない男の業を感じずにはいられなかった。

 

 嫉妬は無い。

 師には積み上げた力と人望があることを知っている。 

 仁礼自身、多くの物を与えて貰って今ここに居る。


 ――しかし、この体たらくは見るに堪えない。


 かつてはヒグマを両断したという逸話を持つ長波は、老化に負けたわけではない。

 辿り着いた地で誘惑の蜜の味を知り、年々ただ緩やかに堕落し衰えていくのだ。

 出会った頃の荘厳な気迫も今では感じることができなくなっていた。


 それでも責めることはできない。

 確固たる社会的地位を築いて贅沢を得ることは、過去も現代も普遍の成功である。

 最強を目指し愚直に剣力を追い求めている自分がおかしいのだと、仁礼は自分の在り方を理解できていた。

 鼻の下を伸ばす兄弟弟子らはさておき、長波は衰えた今でも充分に強い。

 古流の理論は真剣の為のものであり、力で勝る若い仁礼でも真剣勝負となると長波に勝つのは容易ではない。

 畏れ敬う師であることは変わりないが、追い越すべき対象との差が相対速度で縮まっていくのが悲しく思えた。




   ■■■




 無力であるくらいなら暴力を選ぶべきだと在りし日の長波は言った。

 無力という状態には何のエネルギーも無い。

 財産も、尊厳も、愛する者も守ることができない。

 法の庇護下にある現代社会では、無力な弱者を演じることで強者を利用する手段もある。

 しかし長波は痛みや苦しみから逃げて物事の当事者であろうとしない姿勢を忌み嫌った。


 中学二年生にして保護観察処分になった仁礼に向けられた言葉だ。

 保護司を務めていた長波は事件の概要を直接聞いた後、豪快に笑って応えてみせた。




   ◆




 当時、中学生で百九十センチの体躯を持つ仁礼は寡黙で人付き合いが悪く、いつからか不良たちの格好の標的にされていた。

 最初は度胸試し程度であった他愛のない暴力も、いつしかサンドバッグを殴るかのような日常へと変貌していて、いじめというものは小柄で弱い者ばかりに向くものではないことを知った。


 エスカレートする暴力に身の危険を感じた仁礼はある日、不良の一人を倒してしまう。

 それは襟首を押しながら足で払うだけの投げであったが、相手はバレーのスパイクのように地面に叩きつけられ、しばらくの間動けずにいた。

 他に何人かいた不良仲間も圧倒的な体格差を感じて逃亡し、その日は追撃もなく静かに終わっていった。


(ああ、なんだ。こんな簡単なことでいいのか)


 ただ戦力の違いを分からせてやればいいだけなのだ、それが抑止力になる、と仁礼は理解した。

 リスクを明確にし、拮抗状態を作ればいつかは彼らとも分かり合えるのかもしれない。


 次の日の下校時、気付いた時には二十人近い集団に囲まれていた。

 一対多数のリンチ。

 個人の力が通用しない状況。

 仁礼は頭部を守るようにガードを固めたが容赦なく金属バットや角材で叩きのめされ、道の側溝に転がされて顔の形が変わるくらい踏みつけられた。


 薄れ行く意識の中で仁礼は自分の間違いに気付いた。

 体格と強さで選ばれたわけではない。

 孤独で抵抗しないから標的にされたのだ。

 彼らは自己の強さなどには興味がなく、他者を蹂躙し、心を折り、服従させたいだけだ。

 過程はともかく勝ったという結果を誇示したいだけなのだ。


 仁礼はこの時、復讐を誓った。




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